第三十三話 『キャッチボールをしただけなのに、グローブの中に名前ができました!』
神社暮らし、先延ばしにしていた約束を守りに、村の運動場まで下りてきました!
神社のみんなに囲まれた翌朝、白雲神社の固定電話が鳴った。
――ぷるるるる。
月夜はちょうど台所で麦茶のやかんを運んでいた。結は朝食の膳を片づけていて、小麻里は境内へ出る準備をしながら手袋をはめているところだった。
二度目のベルが鳴る前に、月夜が受話器を取った。
「はい、白雲神社です。」
「その……月夜、いますか?」
聞き慣れた声だった。
「私ですけど。」
「あ!……」
「鈴女?」
「はい!」
急に声が大きくなったので、月夜は受話器を耳から離した。
「なんでそんなに驚くの。」
「月夜が出ると思ってなかったんです。」
「ここに住んでるんだから、私が出ることもあるでしょ。」
「今日の午後、時間ありますか?」
「うん。どうして?」
「あのとき約束したことです。」
あのとき、というだけで月夜には分かった。
キャッチボール。
初めて会った日に約束して、昨日はグローブまで神社に持ってきていたのに、結局できなかったこと。
月夜は答えた。
「いいよ。やろう。」
受話器の向こうで、何かにぶつかる音がした。
「鈴女?」
「椅子に膝ぶつけました。何でもないです!」
「キャッチボール一回するのも大変だね。」
「そうですね……。」
月夜は笑った。
「午後に学校の運動場へ行くね。」
「はい。待ってます。」
電話を切ると、すぐ隣から木乃葉の声がした。
「デート?」
月夜はびくっとした。
いつ来たのか、木乃葉は受話器のコードが届くくらい近くに立っていた。
「キャッチボールです。」
「ボールを投げ合うデート。」
「そう定義したら、世の中の大半がデートになりますよ。」
「二人で会って、好きなことを一緒にするなら、けっこう似てない?」
月夜が返事を探しているあいだに、小麻里が横を通り過ぎた。
「運動しに行くなら着替えて。」
月夜は自分の格好を見下ろした。薄手の夏用ワンピースだった。
「これじゃ駄目ですか?」
「ボール追いかけて転んだら、真っ先にスカートの裾押さえそうだから。」
「私のこと、分かりすぎじゃないですか?」
木乃葉が口を挟んだ。
「私はいいと思うけど。」
「何が。」
小麻里が尋ねた。
「転ぶほう。」
「どうしてですか?」
月夜が尋ねると、木乃葉は平然と言った。
「夏のサービス。」
小麻里が木乃葉の尻尾を一本、横へ押しのけた。
「あんたは黙ってて。」
「神を物理的に検閲するなんて。」
「効くから。」
結は会話を聞いても特に何も言わず、月夜に畳んであった半袖のシャツと動きやすい短パンを差し出した。
「帰ってきて汗をいっぱいかいてたら、すぐにお風呂入ってね。」
「はい、結お姉ちゃん。」
「それから水も持っていって。」
「はい。」
「帽子も。」
月夜は服と水筒と帽子を一度に受け取った。
木乃葉が言った。
「みんな、よく世話を焼くね。」
月夜は腕の中に積み上がったものを見下ろして、笑った。
「行ってきます。」
***
沢良木小学校の運動場は、夏休みらしく静かだった。白線はほとんど消えかけていて、鉄棒の下の土は陽射しですっかり乾いていた。校舎の窓はいくつか開いていたが、中から人の声は聞こえなかった。
代わりに、運動場の真ん中に鈴女がいた。
鈴女は月夜を見つけるなり、大きく手を振った。
「月夜!」
「来たよ。」
月夜も手を上げた。
鈴女の足元には、野球ボールが二つとグローブが二つ置かれていた。
一つは昨日見た鈴女のもので、もう一つは色褪せた茶色いグローブだった。使い込まれた跡はあったが革はきれいで、紐も締め直したばかりのように整っていた。
月夜はそれを手に取った。
「これは誰の?」
「昔、私が使ってたやつです。」
「古くてしばらく使ってなかったんですけど、昨日の夜にオイルを入れて、紐も見直しました。」
月夜はグローブをひっくり返してみた。
革特有の匂いに、かすかなオイルの匂いが混ざっていた。指を入れてみると、新品みたいに硬くはなく、ほどよく柔らかかった。
「私のために?」
鈴女が視線を横に逸らした。
「ただ使ってなかったものですから。」
「昨日の夜に手入れまでしたんでしょ。」
「使ってなかったものでも、使うなら手入れしないと駄目じゃないですか。」
「鈴女。」
「はい。」
「耳、赤いよ。」
鈴女は両手で耳を覆った。
「月夜だって神社でいつもそういうのやられてるじゃないですか!」
「だから覚えた。」
「こういうことだけ早く覚えないでください……。」
月夜は笑いながらグローブを左手にはめた。
指先には余裕があったが、不思議と使いにくくはなかった。
「どうすればいい?」
その一言で、鈴女の顔が急に真剣になった。
「まずは近いところからやります。最初から遠くへ投げたら、ボール拾ってるだけで一日終わりますから。」
「私のこと、そんなに下手だと思ってる?」
「いちごオレって言ってたじゃないですか。」
月夜は口を閉じた。
「それはもう忘れて……。」
「一生は無理そうです。」
「そんな大事件だったの?」
「私の中では。」
鈴女は笑いながら十歩ほど離れた。
「じゃあ、軽く投げますね。」
鈴女は月夜に向かって、軽くボールを投げた。
月夜はグローブを差し出したが、ボールはグローブの先をかすめ、そのまま地面に落ちた。
――ぽとっ。
二人ともボールを見つめてから、月夜が先に口を開いた。
「……挨拶だけして行ったね。」
「最初はみんなそうですよ。」
「鈴女は違った気がするけど。」
「私も最初はできませんでした。」
「本当に?」
「はい。」
月夜は目を細めた。
「嘘でしょ。」
「勇気をあげようと思ったんです。」
「じゃあ、もう少し自然にやって。」
二球目はグローブの中に入ったものの、また飛び出した。
三球目で、ようやく捕れた。
ぱん。
ボールを捕ると、思ったより大きな音がして、月夜はグローブの中のボールを見ながら目を見開いた。
「捕れた。」
「そうですよ!」
鈴女は自分のことみたいに喜んだ。
「今度は月夜が投げてみてください。」
月夜は右手にボールを持った。
構えようとはしたものの、どこに力を入れればいいのか分からず、妙な格好のまま固まった。それを見た鈴女が近づいてきた。
「腕だけで投げるとすぐ痛くなります。体も少し一緒に回すんです。」
「こう?」
月夜が体をひねった。
「それは回りすぎです。」
「難しいね。」
鈴女は月夜の隣に立って、肩の向きを指で示した。
「足はこっち。それで、腰を少しだけ。」
手が胸の横に軽く触れた。
月夜は顔を下げ、その手を見た。
鈴女も自分の手を見ると、二人同時に止まってしまった。
「……なんで止まるの?」
月夜が尋ねると、鈴女はぱっと手を離した。
「いや、その、姿勢を直そうと思って……。」
「うん。分かってる。」
「分かってるなら、そんなふうに見ないでください。」
「普通に見ただけなんだけど。」
「たまに、普通に見られるのが一番困るんです。」
鈴女は顔を赤くしたまま、また距離を取った。
月夜はなんとなく笑ってしまった。
「投げるよ。」
「はい!」
ボールを投げた。
今度は鈴女よりずっと右へ飛んでいった。
鈴女が走った。
「どこに投げてるんですか!」
「私も分からない!」
「投げた人が分からなかったらどうするんですか!」
「ボールに聞いて!」
鈴女は結局、ボールを捕った。
それからしばらくのあいだ、運動場にはボールがグローブを叩く音と、二人の声が交互に響いた。
ぱん。
ぽとっ。
「ごめん!」
「大丈夫です!」
「今のはちゃんと行ったでしょ?」
「私が上手く捕ったんです!」
「じゃあ私も上手く投げたことにして。」
「駄目です。」
***
慣れてくると、二人の距離は自然と離れていった。
月夜も、もうボールが飛んでくるたびに目を閉じたりはしなかった。グローブをどのくらい前に出せばいいのかも、だいたい分かってきた。
鈴女がボールを一度、手の中で転がした。
「今度は少し強く投げてもいいですか?」
「どのくらい?」
「少しです。」
「信じていい?」
「たぶん。」
「急に信用度が下がったね。」
鈴女が笑った。
そしてそのままボールを投げると、ボールは風を切る音を立てながら月夜のほうへ飛んできた。
月夜は反射的に体に力を入れた。
ボールが予想より内側に曲がり、危ないと思うより先に体が動いた。
左足が半歩動き、グローブが胸の前を横切って脇へ伸びた。
ぱん!
手のひらまで衝撃が響いたが、ボールは滑らずグローブの中に収まった。
しばらく、運動場が静かになった。
鈴女は目を丸くしていた。
月夜も、自分でどうやって捕ったのか分からず、きょとんとしていた。
「……捕れたね。」
鈴女が駆け寄ってきた。
「今の何ですか?」
「ボール捕っただけ。」
「それは私も見ました!」
「じゃあ説明終わってない?」
「いや、初めてなのにどうやってあれ捕ったんですか?」
月夜はグローブの中のボールを一度見た。
胸が速く鳴っていた。
「運がよかったのかも。」
「運で足まで先に動きます?」
「じゃあ才能?」
月夜が得意げにすると、鈴女の顔がすぐ変わった。
「分かりました。もう一球いきます。」
「待って。なんで急に目が怖くなったの?」
「才能を確認しないと。」
「取り消す。運だよ。」
「遅いです。」
次のボールは取り損ね、その次は月夜の後ろへ抜けていった。
鈴女がその姿を見て笑うと、月夜もボールを拾いながら言った。
「やっぱり運だったね。」
「でも、さっきのは格好よかったです。」
月夜が振り返ると、鈴女は陽射しに目を細めながら笑っていた。
「本当に。」
月夜は返事の代わりに、もう一度ボールを投げた。
今度は鈴女の胸元へまっすぐ飛んだ。
ぱん。
「お。」
「今のはよかったです!」
「でしょ?」
今度は月夜が先に笑った。
***
休むことにした頃には、二人とも汗だくになっていた。
校舎脇の日陰に並んで座った。月夜は結が持たせてくれた水筒を開け、鈴女はスポーツドリンクのボトルを膝のあいだに挟んでいた。
鈴女が笑った。
「思ったより本気でやりましたね。」
「誰かさんがどんどん遠くへ投げるから。」
「最初に横へ投げたのは月夜じゃないですか。」
「最初の頃のことは忘れたほうが、人間関係にはいいんだよ。」
「いちごオレは?」
「それも。」
「それは駄目です。」
月夜は水を一口飲んだ。
しばらく、風が運動場を横切った。
運動場の真ん中には二人が踏み歩いた足跡があちこちに残っていて、壁の下には古いボール跡もたくさんあった。
月夜はそちらを見ながら尋ねた。
「鈴女。」
「はい?」
「前はここで一人でやってたんだよね。」
鈴女はボトルの蓋をいじった。
「はい。よく。」
「壁に投げて、捕って?」
「人がいなかったら、それが一番楽ですから。」
月夜は壁の下に幾重にも重なったボール跡をもう一度見てから、隣に置いてあった古いグローブを持ち上げた。
「だから、これ、手入れしたの?」
鈴女はすぐには答えなかった。
首筋に張りついた後れ毛を手で払い、運動靴の先で土を一度こすった。
「……昨日も、月夜が野球のこと、知ったふりをしないでずっと聞いてくれたじゃないですか。」
「うん。」
「それが嬉しかったんです。」
月夜は黙って聞いた。
「よく分からないのに、つまらなそうな顔もしないで、ずっと聞いてくれて。それに、最初に会った日も、今度キャッチボールしようって言ってくれたし。」
鈴女は運動場のほうを見た。
「一人で投げるのも嫌いじゃないけど……誰かが投げ返してくれるのって、ちょっと違うじゃないですか。」
月夜はグローブを膝の上に置き、古い革の縁を指でなぞった。
「じゃあ、これからも一緒にやればいいでしょ。」
鈴女が顔を向けた。
「え?」
「私、まだ下手だけど。続ければ少しくらいは上手くなるでしょ。」
「……次もやってくれるんですか?」
「うん。」
月夜は何でもないことのように言った。
「呼んでくれたら下りてくるよ。私もやりたくなったら、先に来るし。」
鈴女はしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
あかね商店で初めてちゃんと顔を合わせたときみたいな、泣きそうな顔ではなかった。
ただ、すごく嬉しいことを隠しきれない顔だった。
「じゃあ私、本当にしょっちゅう呼びますよ。」
「ほどほどにして。」
「もう条件つくんですか?」
「毎日呼ばれたら、私の腕が先になくなりそう。」
「それは私が鍛えてあげます。」
「急に怖いこと言わないで。」
二人は同時に笑った。
***
帰る前に、鈴女がグローブをもう一度手に取った。
月夜は当然、返すものだと思っていた。
けれど鈴女は鞄から黒い油性ペンを一本取り出した。
「ちょっと待ってください。」
「何するの?」
鈴女がグローブの内側を開いた。
革の奥に、薄くなった文字が一つ残っていた。
鈴女の名前だった。
ずっと前に書いたのか、黒い文字はほとんど灰色みたいに褪せていた。
「これ、私の名前です。」
「うん。見える。」
「消そうと思ったんですけど、うまく消えなくて。」
「なんで消すの?」
鈴女が月夜を見た。
「月夜が使うから。」
「鈴女が使ってたものじゃない。」
「でも……。」
月夜はもう一度、グローブの内側を見た。
「そのままでいいよ。」
「え?」
「鈴女の名前。」
月夜が言った。
「あってもいいでしょ。」
鈴女の手にあったペンが、止まった。
「じゃあ、月夜の名前は?」
「隣に書けばいいよ。」
鈴女が瞬きをした。
月夜は手を差し出した。
「ペン貸して。」
「自分で書くんですか?」
「自分の名前なんだから、自分で書かないと。」
グローブの内側は平らではなかったので、きれいな字にはならなかった。それでも月夜は唇を尖らせながら、ゆっくりと自分の名前を書いた。
鈴女の薄くなった名前のすぐ隣に、まだ黒いインクがくっきりした月夜の名前ができた。
二つ並んだ。
月夜は満足そうにグローブを持ち上げた。
「できた。」
鈴女は黙ったまま、それを見ていた。
「どうしたの?」
「いえ。」
「また泣く?」
「泣きません!」
「目、ちょっと光ってるけど。」
「汗です。」
「目から汗かくの?」
「今日はかくんです。」
月夜はそれ以上からかわず、グローブを左手にはめて立ち上がった。
「これ、私が持って帰っていい?」
鈴女は頷いた。
「はい。また今度使いますから。」
その言葉が気に入った。
また今度使う。一度借りて返すものではなく、次があるから持っていてもいいもの。
月夜はグローブを一度、開いて閉じた。
ぱん、とボールを受けたときほど大きな音はしなかったが、革が柔らかく折れる音がした。
***
陽が傾いた頃、月夜は白雲神社へ帰ってきた。
石段を上がると、真っ先に木乃葉が縁側の端から見つけた。
「生きて帰ってきたね。」
「キャッチボールを何だと思ってるんですか?」
「人間が危険な球体を投げ合う遊び。」
「間違ってるようで、そこまで間違ってないのが嫌ですね。」
小麻里は月夜の膝についていた土を見るなり言った。
「転んだ?」
「転んでません。」
「じゃあ、なんでそこに土ついてるの。」
「ボール拾うときにしゃがんだんです。」
「手は?」
月夜が手のひらを広げると、少し赤くなっていた。
「大丈夫です。」
小麻里はそれでも一度、手のひらを確かめてからようやく離した。
結は奥から冷たい麦茶を持ってきた。
「楽しかった?」
「はい。」
月夜は答えてから、左手にはめたグローブを見せた。
「これも持って帰っていいって。」
木乃葉がすぐに近づいてきた。
「プレゼント?」
「借りたのか、もらったのか、私もよく分からないです。」
「名前まで書いてあるのに?」
月夜は止まった。
木乃葉はいつの間にか、グローブの内側を覗き込んでいた。
「見ないでください。」
「なんで? もう見たけど。」
「そこは鈴女と私だけが知ってるところなんです。」
口にしてから、月夜は自分が何を言ったのか遅れて気づいた。
木乃葉の耳が動き、小麻里もこちらを見た。
結は湯呑みを置きかけて、ほんの一瞬だけ手を止めた。
月夜はグローブを胸元に抱き寄せた。
「……どうしてみんな見るんですか?」
木乃葉が笑った。
「何でもないよ。」
「その顔、何でもない顔じゃないですけど。」
「月夜もとうとう外で秘密を作って帰ってくるようになったんだなって。」
「秘密じゃないです。」
「さっき私たちには見るなって言ったじゃない。」
「それは……。」
小麻里が先に視線を逸らして言った。
「下駄箱の横に適当に置かないで。湿気るから。」
「どこに置けばいいですか?」
「奥の棚、一段空ける。」
結も言った。
「乾いた布も一枚敷こう。」
木乃葉が頬杖をついた。
「私は?」
「触らないでください。」
「私の役割だけ、やけにはっきりしてない?」
「信頼の結果です。」
やがて、玄関の内側にある低い棚の一段が空けられ、その上に乾いた布が敷かれて、茶色いグローブが置かれた。古い革の内側には、昔から残っていた鈴女の名前と、今日新しく書いた月夜の名前が並んでいた。
外では蝉が相変わらずうるさく鳴いていて、明日またキャッチボールをするかどうかはまだ分からなかったけれど、グローブを返す必要はなかった。
次に、また使うのだから。
そ、その! 昨日は! ……言い訳できることが何もないのです……。
と、とりあえず! 真面目に連載するのです!
あ、あの武侠のほうは、たぶん9月中には連載始めるんちゃうかな〜って思ってますっしゅ!




