第三十一話 『参拝しただけなのに、木乃葉がすぐ隣で聞いていました!』
神社暮らし、今日が週末なのも忘れていたら、狐神様本人に願い事をすることになりました!
翌朝、月夜は自分が曜日の感覚をすっかり失っていたことに、今さら気づいた。
白雲神社で暮らし始めてから、日付の感覚はずいぶん緩くなっていた。雨が降れば雨の日なりの仕事があって、陽射しが強すぎれば暑さを避けることのほうが先だった。
だからなのか、縁側にうつ伏せになっていた木乃葉が「今日は人が少し来そうだね」と言ったときも、月夜は最初、それが参拝客の話だとは思っていなかった。
「誰が来るんですか?」
「人。」
「それは私も予想してました。」
「猪よりはいいでしょ。」
木乃葉は顎を腕の上に乗せたまま、尻尾を一本ゆっくりと揺らした。
夏の朝から赤い装いは暑そうに見えたが、本人はきっちり日陰を見つけて寝転がっていた。片方の袖が上がり、腕の内側から脇の近くにかけて白い肌が覗いていた。
月夜はそちらを見てから顔を逸らしたが、遅すぎたらしい。
「今、目を逸らしたね。」
「暑そうだと思っただけです。」
「何が、とは言ってないけど。」
「木乃葉が変な寝方してるからですよ。」
「変な?」
木乃葉がわざと片腕を頭の上へさらに伸ばすと、衣の裾が引っ張られ、腰の線まで見えそうで見えなかった。
月夜は今度は露骨に顔をしかめて言った。
「なんで余計に見せるんですか?」
「やっぱり見てたね。」
「人を罠にかけないでください。」
「神の試練だと思って。」
「下品すぎる試練なんですけど。」
そのとき、台所のほうから結が急須を持って出てきた。
「木乃葉。」
「うん。」
「朝から参拝客が来る前に、変な試練を作らないで。」
「信仰には試練が必要でしょ。」
「それは木乃葉の脇を見る試練じゃないよ。」
月夜は結を見た。
結も一瞬、口を閉じた。
木乃葉がゆっくり笑った。
「結もずいぶん言うようになったね。」
「……お茶飲んで。」
小麻里は縁側の端に座り、参拝用の小さな箱を整理していた。会話には入ってこなかったが、口元がかすかに動いたのを月夜は見た。
「ところで、本当に誰が来るんですか?」
月夜がもう一度尋ねると、小麻里は箱の蓋を閉じた。
「今日、土曜日でしょ。」
月夜は止まった。
「今日、土曜日だったんですか?」
「うん。」
「昨日が金曜日で?」
「当たり前でしょ。」
月夜はここ数日を指で数えてみて、諦めた。記憶はあったのに、曜日がなかった。
「神社に住んでると、時間の感覚がなくなりますね。」
木乃葉が言った。
「私は何百年もそんな感じだよ。」
「木乃葉は基準が遠すぎます。」
「週末っていうのも人間が作ったものだしね。」
「そう言われると、急に自分が小さな存在になった気がするじゃないですか。」
「もともと小さくて可愛いよ。」
「身長の話はしてませんけど。」
木乃葉が体を起こしながら笑った。
そのとき、石段の下のほうから人の声が聞こえた。
月夜が境内のほうへ顔を出すと、ゆっくり上ってくる人たちが見えた。先頭には村で何度か見たおじいさんが二人いて、その後ろから買い物籠を持ったおばあさんたちが続いていた。少し離れて、見覚えのない老夫婦も一組上ってきていた。
「本当に来ましたね。」
「だから来るって言ったでしょ。」
「普段はあんまりいなかったから。」
普段なら一人か二人が静かに上ってきて、そのまま下りていく程度だったが、今日は六人もいた。
***
結はすぐに、参拝客を迎える顔になった。
ついさっきまでお茶を注いでいた人とは思えないほど動きが整い、小麻里も本殿の前をもう一度確認した。
「私は?」
「月夜はここにいていいよ。」
結が言った。
「何か手伝うことはないんですか?」
「靴を揃えることもないし、人を並ばせるほどでもないから。」
「じゃあ私は、ただ立ってる人ですね。」
小麻里が通り過ぎながら言った。
「笑ってればいいよ。」
「そっちのほうが難しくないですか?」
「あんた、普段はよく笑ってるでしょ。」
「仕事だと思うと難しくなるんですよ。」
木乃葉はいつの間にか本殿横の柱にもたれて立っていた。
三本の尻尾は、普段より後ろでおとなしくまとまっていた。初めて来る人の目には、本殿の影と赤い衣に半分隠れて、あまり見えなさそうだった。
月夜は近づいて、小さな声で尋ねた。
「木乃葉は隠れないんですね?」
「なんで私が隠れるの?」
「知らない人もいるじゃないですか。」
「いるね。」
「耳もあるし、尻尾もあるのに。」
木乃葉は自分の耳を一度触った。
「田舎の神社だし、こういう人もいるんだなって思うでしょ。」
「それで済むんですか?」
「世の中の人って、思ったより他人に興味ないよ。」
その言葉が終わるより先に、最初に上ってきた村のおばあさんが木乃葉を見つけた。
「あら、今日もいたのね。」
「うん。暑いのにここまで来たね。」
「あんたも暑いのに、そんな格好してないで。」
「私は平気。」
おばあさんは何でもないように木乃葉と言葉を二つ三つ交わし、そのまま本殿の前へ向かった。
月夜はおばあさんと木乃葉を交互に見た。
「あの人は知ってるんですか?」
「ある程度は。」
「ある程度って、どこまでですか?」
「適度に。」
「一番信用できない答えです。」
そのあいだにも、ほかの住民たちが順番に上ってきた。
小さな封筒を結に渡す人もいれば、畑で採れたからと胡瓜を何本か置いていく人もいた。木乃葉は胡瓜を見るとほんの一瞬だけ目を輝かせたが、すぐに小麻里に見つかった。
「奉納物。」
「私に来たんでしょ。」
「それでも先にお供えして。」
「手順が多いね。」
「あんたの神社でしょ。」
「だからもっと気楽にしたら駄目?」
「駄目。」
月夜はそのやり取りを聞きながら、笑いを飲み込んだ。
しばらくすると、見覚えのない老夫婦も鳥居をくぐって入ってきた。
二人は名古屋から来ていて、毎年夏になるとこの近くに寄るついでに、白雲神社まで上ってくるのだという。
「今年も一度、道を間違えましてね。」
おじいさんが笑いながら言った。
結が柔らかく答えた。
「案内がほとんどありませんから。来てくださってありがとうございます。」
「でも、見つけると嬉しくなる神社なんですよ。」
隣のおばあさんがそう言って本殿を見上げたので、月夜もつられて見上げた。
いつも掃除をして、横を通り、裏の倉庫へ行くたびに目にしている本殿だった。
けれど、参拝に来た人たちの中に立って眺めると、違って見えた。
木の色も軒下の影も、普段よりどこか整って見えて、なんだか、ここって本当に神社だったんだな。毎日ここで暮らしているのに、今さらそんなことを思った。
***
参拝は静かに続いた。
硬貨が入る小さな金属音。
二度、深く下げられる頭。
二度、打ち鳴らされる手のひらの音。
ぱん。
ぱん。
そして最後に、もう一度頭を下げる。
名古屋から来たおばあさんは、目を閉じたままかなり長く手を合わせていた。
「狐神様、今年もこの人が病気せず、ちゃんと歩き回れますように。」
すぐ隣にいたおじいさんが小さく言った。
「お前はまず、自分の膝のことを頼め。」
「私はまだ平気よ。」
「昨日、階段で俺より先に休んだだろ。」
「神様の前で口答えしないの。」
月夜は笑いそうになった。
おばあさんはもう一度目を閉じた。
「とにかく狐神様。二人とも来年もここまで上ってこられますように。」
おじいさんも隣で手を合わせた。
「それと今年は、蚊にあまり刺されませんように。」
木乃葉が月夜の隣で、ごく小さく呟いた。
「それは私じゃなくて、蚊に言ってほしいんだけど。」
月夜は唇を噛んだ。
次は村のおばあさんが前へ出た。
「狐神様、今年も畑をよろしくね。この前の胡瓜はけっこうよくできたから。」
木乃葉がまた小さく言った。
「それは君がちゃんと水をやったからだよ。」
月夜が囁いた。
「ちゃんと返事してるじゃないですか。」
「聞こえるようには言ってないでしょ。」
「じゃあ何の意味があるんですか?」
「私は聞いたっていう意味。」
月夜は本殿と木乃葉を交互に見て、ごく自然に尋ねた。
「でも、木乃葉が狐神様じゃ――」
口を閉じるより早く、木乃葉の手が月夜の口を覆った。
「むぐ。」
「しーっ。」
背後では尻尾まで一本、さっと動いて月夜の腰の横に巻きついた。
突然だったので月夜が一歩後ろへ下がると、背中がそのまま木乃葉の胸元近くに触れた。
「こ、木乃葉。」
「静かに。」
耳元で声がした。
近すぎた。
片手は口を塞ぎ、もう片方の腕は腰の近くにあって、尻尾まで脇腹にくっついていた。
月夜は木乃葉の手首を掴み、小さな声で言った。
「これ、口だけ塞げばよくないですか?」
「君が逃げるかもしれないから。」
「逃げません。」
「じゃあ、おとなしくしてて。」
「なんでちょっと楽しんでるんですか?」
木乃葉の笑い声が、すぐ耳の横で聞こえた。
月夜は自分の耳が熱くなるのを感じたが、参拝客たちは幸い本殿のほうを見ていた。
木乃葉が手を離したあとも、尻尾だけは一拍遅れて離れた。
月夜はすぐに木乃葉を睨んだ。
「わざわざあそこまでやる必要ありました?」
「神聖な秘密を守ったでしょ。」
「腰まで掴む必要はなかったですよね。」
「そこに手がいったから。」
「尻尾もいってましたけど。」
「尻尾は自由意志が強いんだよ。」
「飼い主が責任取ってください。」
木乃葉は平然と笑い、月夜は衣を一度直してから声を落とした。
「それで、どうして言ったら駄目なんですか?」
「駄目ってわけじゃないよ。」
「さっき人を攫うみたいに止めておいて?」
「知らないほうがいい人もいるってこと。」
木乃葉は本殿のほうを一度見た。
「昔、毎週来てたおばあさんがいたんだ。」
「はい。」
「私にいろいろ話してたよ。お嫁さんと喧嘩した話から、腰が痛いだの、隣のおじいさんがしょっちゅう自分の家の甕置き場を覗いてくるだの。」
「神様にずいぶん具体的な相談してたんですね。」
「それで、ある日私が言ったんだ。」
木乃葉は何でもないように、自分の胸を指差した。
「その狐神、私だよって。」
月夜は続きを待った。
「それから来なくなった。」
「……どうしてですか?」
「知らない。」
「木乃葉がからかったんじゃないですか?」
「からかってないよ。むしろ親切に教えてあげた。」
「どうやってですか?」
「『先週お願いしてたことも、全部聞いたよ』って。」
月夜は目を閉じた。
「それが問題じゃないですか。」
「なんで?」
「嫌ですよ。私でも来なくなります。」
「神様って、もともと全部聞いてるものでしょ?」
「聞かれてるだけなのと、顔を知ってる相手に聞かれるのとは違います。」
「そうなの?」
「それに、自分がお嫁さんの悪口を言ってるのを、すぐ隣にいた人が何年も聞いてたって分かったら、私でも山の下から逃げますよ。」
木乃葉は一度、首を傾げた。
「だから、それからは知らない人にはわざわざ言わない。」
「反省はしたんですね。」
「学習って言って。」
「反省よりちょっと冷たい言葉ですね。」
木乃葉が笑った。
「知ってる人は知ってるよ。村でも昔から見てる人の中には、気づいてる人もいるし。でも、みんなわざわざ口に出さないほうが楽なんだ。」
月夜はもう一度、参拝客たちを見た。
さっき木乃葉に自然に声をかけていたおばあさんを思い出した。
知っている人と知らない人のあいだで、白雲神社は何事もなく回っているらしかった。
***
最後の参拝客が下りていったのは、昼ごろだった。
六人だけだったのに、ずいぶん賑やかだった気がした。
小麻里は受け取った封筒を整理し、結は胡瓜と小さな奉納物を奥へ運んだ。
木乃葉は胡瓜を一本取ろうとして、また手の甲を叩かれた。
「まだ。」
「私のなのに。」
「洗ってから。」
「神に厳しすぎるよ。」
「衛生は神格より上。」
「人間って、怖いことを平気で言うね。」
月夜は本殿の前に残った。
人がいなくなったあとは、さっきよりずっと静かだった。
陽射しは境内の端まで差し込んでいたが、本殿の軒下は涼しく、ついさっきまで人たちが手を打っていた音だけが、どこかに残っているような気がした。
木乃葉が隣に来た。
「君も参拝する?」
月夜は振り返った。
「私がですか?」
「ここに住んでるんだし、一度くらいちゃんとしてみてもいいでしょ。」
「誰にお願いするんですか?」
木乃葉は自分の顔を指差した。
「私。」
月夜は何も言わなかった。
「すぐ隣にいるんですけど。」
「だから楽でしょ。」
「願い事の受付窓口が近すぎませんか?」
「特別サービス。」
「神様とこんなに直接やり取りしていいものなのか……。」
「嫌ならやらなくてもいいよ。」
木乃葉はそう言いながら、もう本殿の前へ歩いていった。
月夜は結局、その隣に立った。
「どうやるんですか?」
「いつもみんながやってるみたいに。」
木乃葉が指を折りながら言った。
「二回お辞儀して、二回拍手して、心の中で言って、最後に一回。」
「木乃葉はやらないんですか?」
「私が私に?」
「自己啓発みたいな感じで。」
「願い事じゃなくて反省文になりそうだね。」
月夜は笑った。
本殿の前に立つと、さっきとは感じが違った。いつも通り過ぎている場所なのに、いざ正面に立つと、なんとなく背筋を伸ばしたくなった。
月夜は木乃葉に教わった通り、二度頭を下げた。
二度、手を打った。
ぱん。
ぱん。
目を閉じた。
いざ願い事をしようとすると、何も浮かばなかった。
健康。
記憶。
これからのこと。
神社でこのまま暮らしていくこと。
考えられることはいくらでもあったが、一つ選ぼうとすると、どれも大きすぎるように思えた。
そのうち、昨日泣いていた鈴女の顔が浮かんだ。
今度、キャッチボールをする約束をした。
小麻里は先に呼ぶと言って、本当に呼んでくれた。
結とは一緒に帰る約束をして、木乃葉はすぐ隣に立っている。
だから、とても小さなことを願った。
「……」
最後にもう一度頭を下げて目を開けると、すぐ隣で木乃葉が月夜の顔を見ていた。
「何お願いしたの?」
「それ、神様本人に直接言ってもいいんですか?」
「もう聞いたけど。」
月夜は固まった。
「……心の中で言ったんですけど。」
「うん。」
「聞こえるんですか?」
「ある程度は。」
月夜がゆっくり木乃葉を見ると、木乃葉の口元が上がった。
「嘘ですよね?」
「さあね。」
「さっき昔のおばあさんの話をしたばっかりなのに、その冗談するんですか?」
「学習したから、正確には言わないであげてるでしょ。」
「最悪の方向に学習しましたね。」
月夜が一歩下がろうとすると、木乃葉が手首を掴んだ。
強くはなかった。
ただ、「行かないで」と言うくらいの力だった。
「でも。」
木乃葉が言った。
「それくらいなら、叶えてあげられそうだけど。」
月夜は止まった。
「……本当に聞いたんですか?」
「どっちだろうね。」
「木乃葉。」
「うん。」
「神様がいたずら好きすぎます。」
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
月夜は木乃葉の手を見下ろした。
手首を掴む指は緩く、少し動けば簡単に抜けられそうだったが、わざわざ抜かなかった。
「少しだけ。」
「何が?」
「好きってことです。」
今度は木乃葉がすぐには答えなかった。
月夜が顔を上げると、ついさっきまであれほど余裕そうだった表情が、ほんの一瞬止まっていた。三本の尻尾も同じだった。
「……木乃葉。」
「……うん。」
「耳、赤くなってますよ。」
「暑いからだよ。」
「その言い方、誰から覚えたんでしたっけ。」
「君、本当に悪いことだけは覚えるの早いね。」
木乃葉は手を離さないまま笑った。
今度は月夜も避けなかった。
本殿の前には、さっき人たちが残していった硬貨の匂いと木の匂い、夏の空気が混ざっていて、遠くから蝉の声が聞こえた。
奥から小麻里の声が飛んできた。
「二人でそこで何してるの?」
木乃葉がすぐに答えた。
「告解。」
「手つないで?」
月夜が木乃葉の手を見下ろすと、いつの間にか手首ではなく、手のひらのほうまで下りていた。
指先が軽く引っかかっていた。
「……やり方、少し変じゃないですか?」
月夜が言うと、木乃葉は平然と、指をもう一本引っかけた。
「特別サービスだって。」
「有料ですか?」
「君には無料。」
「その言葉、ほかの人には言わないでください。」
「なんで?」
月夜は視線を落とした。
「……なんとなく嫌だから。」
今度は木乃葉の尻尾が先に動いた。
三本とも一斉にわずかに持ち上がってから、何事もなかったように下りた。
月夜はそれを見たが、何も言わなかった。
本殿前の影はまだ涼しく、二人のあいだで引っかかった指も、しばらくそのままだった。
べ、別にわざと休載しようとしてたわけじゃないっしゅ! ちゃんと連載続けるのです! 数時間遅れただけ!
とりあえず、あの武侠を作ろうと思っていろいろ考えてたら、だんだん最初は中原(清朝)と東瀛(日本列島)くらいだけにして、どうしても広げるとしても青丘(朝鮮半島)までにしようと思ってたのに、どんどん規模が大きくなって、とうとう欧羅巴の人たちまで計画に入ってきたのです!
なので、正統派武侠からはちょっと……だいぶ遠くなりそうっしゅ!




