第二十九話 『御札を作っただけなのに、結から妙なことを言われました!』
神社暮らし、紙を切って折っただけなのに、心まで少しおかしくなりました!
雨が通り過ぎた翌日の白雲神社は、何もかもが一度洗われたあとのような顔をしていた。
石畳の隙間に残った水は朝の陽射しを細かく反射し、境内の土はまだ濃い色をしていた。軒先からは遅れてきた水滴が、ときどき落ちていた。
月夜は洗い物を終え、縁側に座って乾いた手拭いを畳みながら、昨日小麻里と直した軒のほうを一度見上げた。少なくとも今のところは、問題なさそうに見えた。
「それをそんな満足そうに眺める人も珍しいね。」
隣で木乃葉が言った。
「私が直したわけじゃないですけど。」
「釘は渡したでしょ。」
「半分は逆さに持ってましたけど。」
「それも経験だよ。」
「失敗を経験って呼んだら、世の中が優しすぎませんか?」
「私は優しい世界が好きだけど。」
木乃葉はそう言いながら、残っていたあんぱんの袋を開けた。
月夜が言い返そうとしたそのとき、奥から紙をめくる音が聞こえた。
さらり。
顔を向けると、低い卓の前に結が座っていて、卓の上には数日前にあかね商店で買ってきた厚手の白い紙と朱墨、小さな筆、鋏がきちんと並べられていた。
結の長い黒髪はいつもと違って低い位置で結ばれていて、普段は髪に隠れている白い首筋が陽射しの下に一瞬覗いていた。
月夜はそちらを見ながら、手に持っていた手拭いをもう一度折った。
もう十分に折り畳まれたあとだった。
「月夜。」
「はい?」
結が紙から目を離さずに言った。
「手拭いは、もうそれくらいで十分小さくなってるよ。」
月夜は自分の手元を見下ろした。
「……省スペースです。」
結の口元がかすかに動いた。
「時間があるなら、ちょっと手伝ってくれる?」
月夜はほとんどすぐに立ち上がった。
「私がやってもいいんですか?」
「難しいところは私がやるから。月夜は紙を揃えてくれればいいよ。」
昨日、小麻里にも似たようなことを言われたが、感じは違った。小麻里が危ないことをさせないように止めるほうなら、結は最初から月夜にできる範囲を知っていて、その中に居場所を空けてくれるようだった。
月夜は卓の向かい側に座った。
「御札を作るんですか?」
「うん。村から少し頼まれてるの。」
結が白い紙を軽く叩いた。
「これ、私が買ってきた紙ですよね?」
「そうだよ。」
「ついに私も神社運営に実質的な貢献を。」
「紙を運んできただけで?」
木乃葉が後ろから割り込んだ。
「運送だって大事な仕事です。」
「じゃあ私はあんぱん運送担当だね。」
「運送中に中身が消えるじゃないですか。」
「検品だよ。」
「お腹の中でですか?」
結は二人のやり取りを聞いてから、鋏を月夜へ差し出した。
「こっちから切ってくれる?」
「……無視されました。」
「仕事を頼んだの。」
月夜は鋏を受け取った。
紙は思ったよりも硬かった。薄く引かれた線に沿って切ると、しゃき、しゃき、と乾いた音がした。
結は隣から紙を一枚引き寄せ、筆を取った。朱墨が白い紙に触れ、文字と線が迷いなく続いていった。
「結お姉ちゃん。」
「うん。」
「間違えたらどうするんですか?」
「書き直すよ。」
「神秘的な解決方法はないんですね。」
「間違ったものを神秘の力で正解にはできないから。」
「神社にも修正液はないんですね。」
「あったら私も楽なんだけど。」
月夜が笑うと、木乃葉が言った。
「いっそ大量に刷っちゃえば楽じゃない? 御札もお札も、結局は紙一枚でしょ。」
結は筆を持ったまま、顔だけを上げた。
「木乃葉。」
「うん?」
「神力は印刷所から出てこないでしょ。」
木乃葉が一瞬、口を閉じた。
「……結がそういうこと言うと、余計に面白いね。」
とうとう笑い出すと、結はまた筆を下ろした。
「パンくずでも片づけて。」
やがて、今度は薄手の白い紙が出てきた。
「これもやってみる?」
「何を作るんですか?」
結は自分が作ったものを一つ持ち上げてみせた。
頭と両腕、両脚が単純につながった、小さな紙人形だった。顔も指もない。
「形代ですか?」
「似たようなもの。今日使うのは簡単なものだよ。」
結が紙人形の肩を指先で押さえた。
「祓いに使うこともあるし、神社の中に小さな印みたいに置くこともある。白雲神社では少し違う使い方もしてきたけど。」
「私も作っていいんですか?」
「うん。そんなに綺麗に作らなくてもいいよ。」
「人に、綺麗じゃなくてもいいって言ってるみたいですね。」
「紙に言ってるの。」
月夜は薄い紙を半分に折り、鋏を動かした。
丸い頭、肩、腕。
腰の下で思ったより深く鋏が入ってしまい、手を止めたものの、もう遅かった。腰は妙に細くなり、その下は反対に広くなっていた。
木乃葉が紙人形を見下ろした。
「お尻に信仰が入りすぎてない?」
「鋏が滑ったんです。」
「腰は細くて、下は立派だね。」
「人の体って、もともとある程度はそうじゃないですか。」
「誰基準?」
月夜はすぐには答えられなかった。
そのとき結が紙人形を手に取った。表と裏を一度見てから言った。
「月夜には似てないね。」
月夜の思考が一瞬止まった。
どこが。
何が。
それを聞いてはいけない気がした。
「……私に似せて作るとは言ってませんけど。」
「うん。」
結は何でもないように紙人形を置いた。
木乃葉は笑いをこらえながら立ち上がった。
「結、意外と怖いね。」
「木乃葉。」
「分かった。出てくよ。」
木乃葉がいなくなると、部屋には鋏が紙を擦る音だけが残った。
月夜は二つ目の紙人形を作った。今度はどこも大げさではなかった。
「上手。」
「人らしくなりました?」
「うん。」
「最初のも人でしたよ。」
「ちょっと欲望の多い人みたいだったね。」
月夜が顔を上げた。
「結お姉ちゃんまで言うんですか?」
「木乃葉から少し習ったのかも。」
結が小さく笑って俯くと、結んだ黒髪から何本かが肩の前へ流れた。襟元からは、首筋と鎖骨のあたりも一瞬覗いた。
月夜は鋏を止めた。
「月夜。」
「はい。」
「紙は下にあるよ。」
「……分かってます。」
「うん。」
からかってもいないのに、そのほうが余計に恥ずかしかった。
月夜は紙人形の腕を、やけに慎重に整えた。
やがて、結が言った。
「名前はまだ書かないで。」
「まだ、ですか?」
結の手が止まった。
窓の外で蝉が一斉に鳴いた。
「……今日は。」
結が言い直した。
「今日は名前なしで使うよ。」
月夜は頷いた。
けれど、『まだ』という言葉だけが妙に指先に小さな棘みたいに残った。
わざわざ抜き取るほどではなかった。
***
日が傾き始めたころ、結は出来上がったものを小さな木箱に入れた。
二人はまず社務所の軒下に小さな紙を挟み、次は井戸の近くの柱へ向かった。どちらもほとんど目につかない場所だった。
「こんなふうに隠してもいいんですか?」
「見せるために置くものじゃないから。」
「見えないと忘れませんか?」
結は紙人形の端を指先で一度押さえた。
「見えなくても、あるものはあるよ。」
月夜は結の横顔を見た。
紙のことを言っているのか、それとも別の何かについてなのかは分からなかった。
物干し紐の下を通ったとき、風が吹いた。白い手拭いが一斉に膨らんで、ゆっくりと元に戻った。
「結お姉ちゃんは、こういうのをよく作るんですか?」
「たまに。」
「置いた場所、全部覚えてるんですか?」
「だいたいは。」
「私だったら三日後に、自分で隠したのにびっくりしそうです。」
「月夜ならありそう。」
「否定しづらいですね。」
結が振り返った。
「でも、探せばいいから。」
「紙人形をですか?」
「うん。」
そう言った結の視線は数秒、月夜に留まっていた。
最後に向かったのは、月夜が使っている部屋の外側の柱だった。
結が身を屈め、壁と柱の間を覗き込んでから手を止めた。
「どうしたんですか?」
月夜も隣にしゃがんだ。
雨が直接当たらない狭い隙間には、小さな紙人形が一つ、すでに挟まっていた。
新しいものではなかった。
白かった紙は黄ばんでいて、角も少し擦れていた。
「これ、結お姉ちゃんが置いたんですか?」
結は紙人形を慎重に取り出した。
「うん。」
「いつですか?」
「……しばらく前。」
「私がこの部屋を使う前から?」
結の指が紙の端を一度撫でた。
「うん。」
月夜は古い紙人形と、自分の部屋の窓を交互に見た。
「じゃあ、誰のだったんですか?」
夏の風が軒下を通り過ぎた。
結はすぐには答えなかった。
「……捨てちゃいけないもの。」
「それ、誰のなのかって質問の答えにはなってませんけど。」
「分かってる。」
「結お姉ちゃんも、ときどき木乃葉みたいに逃げますね。」
「木乃葉ほど上手じゃないよ。」
「それはそうですね。」
月夜があまりにもすぐ認めると、結が小さく笑った。
結は古い紙人形を元の場所に戻し、今日作った新しいものをその隣に置いた。
片方は黄ばんでいて、もう片方は新しい紙だから、やけに白かった。
月夜は二つを見ながら尋ねた。
「こういうのを置いておけば、道に迷っても戻ってこられるんですか?」
「道?」
「御札みたいなものだから。私がまた変なところに逸れたり、山で道に迷ったりしたら、ここまで戻してくれるとか。」
結は黙った。
「……それは違うよ。」
「違うんですか?」
「紙が道を探してくれるわけじゃない。」
月夜が頷こうとしたところで、結が付け加えた。
「月夜が道に迷ったら、私が探しに行くよ。」
月夜はもう一度顔を上げた。
「御札がなくても?」
「うん。」
「どこにいるか分からなくても?」
「探すよ。」
「ものすごく遠くまで行ったら?」
そこでようやく、結が月夜を見た。
黒い瞳がほんの一瞬、揺れたように見えた。
「……何度でも。」
月夜は笑うのをやめた。
『どこへでも』ではなく、『何度でも』。
一度見つければいい相手には、あまり使わない言葉だった。
「結お姉ちゃん。」
「うん。」
「前にも、私を探しに来たことがあるんですか?」
結から答えは返ってこなかった。
月夜を見つめていた結が、手を伸ばした。
指先が頬に軽く触れた。
月夜がそのまま固まっているあいだに、指が一度、頬を撫でていった。結の指先には、小さな白い紙切れがついていた。
「紙がついてた。」
「……それを取るために、そんなに長く見てたんですか?」
「うん。」
あまりにも平然とした返事だった。
月夜が疑わしそうな顔をすると、結が先に立ち上がった。
「行こう。お茶が冷めちゃう。」
また逃げた。
けれど腹は立たなかった。答えの代わりに残った『何度でも』が、まだ耳に引っかかっていたからだろうか。
***
中へ戻ると、木乃葉は縁側で眠っていて、小麻里は帳簿を見ていた。
「終わった?」
「うん。」
結が答えた。
月夜は空になった箱を置きながら言った。
「思ってたより、あちこちに隠してあるんですね。」
「結お姉ちゃんは、いつもそうだから。」
小麻里が帳簿から目を離さずに言った。
「知ってたんですか?」
「掃除してると、たまに出てくるから。」
「また隠しておくんですか?」
「結お姉ちゃんのなら。」
月夜は妙に納得した。
ほかの人も知っているのに、わざわざ説明しない生活の習慣。
白雲神社には、そういうものがけっこうあった。
やがて結が湯呑みを持ってきて、月夜は受け取ろうとしたところで、結の襟元のすぐ上に朱墨が小さくついているのを見つけた。
「結お姉ちゃん、ここについてます。」
「どこ?」
「私が拭きます。」
月夜は卓の上にあった濡れた布を取った。
口にしてから距離の近さに気づいたものの、もう手は上がっていた。
布の端で鎖骨近くの小さな赤い跡をそっと押さえると、襟元のすぐ上の肌から、その温度が指先に伝わった。
思ったより温かかった。
結の喉がほんのわずかに動いた。
一度で十分だったはずなのに、気づけば月夜は二度押さえていた。
「月夜。」
「はい?」
「くすぐったい。」
手がそのまま止まった。
「……あ。」
月夜はすぐに布を離した。
「すみません。」
「大丈夫。」
結が指先でそこを一度触った。
月夜は目を伏せ、低く結んだ黒髪も、筆を持つ手も、小さく笑うときに動く唇も、さっき触れた肌の温度も、妙に一つずつ記憶に残った。
月夜は湯呑みを持った。
「熱い?」
結が尋ねた。
「いいえ。」
「顔、赤いけど。」
「お茶のせいです。」
「まだ飲んでないでしょ。」
月夜は湯呑みを見下ろしてから、結局一口飲んだ。
本当に熱かった。
「……今は、お茶のせいです。」
結が声を立てずに笑った。
月夜は卓の上に残った薄い紙を見ながら言った。
「結お姉ちゃん。私のも一つもらっていいですか?」
「紙人形?」
「はい。」
結は綺麗な紙を一枚取り、鋏を持った。
線も引かずに何度か切ると、小さな人の形がすぐに出来上がった。
月夜はそれを掌に載せた。
「私ですか?」
「月夜が持ってるものだから。」
「じゃあ、私ですね。」
「そうしたいなら。」
文字もなく、顔もなかった。
けれど結が作ったものだと思うと、捨ててはいけないものになった気がした。
「結お姉ちゃんのも作りましょうか?」
「私のはいいよ。」
「どうしてですか?」
「私はここにいるから。」
月夜の指が止まった。
今日はそんな言葉ばかりが、妙に長く残った。
月夜は結局、鋏を手に取った。
「それでも作ります。私が持ってます。」
今度は長い髪を思い浮かべながら、紙の両側を長めに残した。
小麻里がちらりと見た。
「髪、長すぎない?」
「結お姉ちゃんです。」
「なら長いね。」
完成した二枚を並べた。
一つは単純で、もう一つは髪だけが長かった。
月夜が言った。
「結お姉ちゃんが道に迷ったら、私が探しに行けるように。」
「月夜が?」
「なんで笑うんですか。」
「笑ってないよ。」
「少し笑いました。」
結は一瞬、目を伏せた。
「月夜のほうが先に道に迷いそうだから。」
「じゃあ、二人とも一緒に迷えばいいんですよ。」
言葉が先に出た。
小麻里が帳簿をめくっていた手を止め、月夜も一拍遅れて、自分の言ったことがおかしいと気づいた。
「いや、私が言いたいのは……一緒にいれば、少しは不安じゃないじゃないですか。」
「二人とも道を知らないのに?」
「片方が知ってるふりをすればいいんです。」
「それ、もっと迷う方法じゃない?」
「気分はましじゃないですか。」
結がとてもゆっくり目を細めた。
今度は、確かに笑っていた。
「じゃあ、一緒に帰ろう。」
月夜はすぐには答えられなかった。
どこかで聞いたことのある言葉ではないのに、不思議なくらいずっと待っていた言葉のように聞こえた。
掌の上の二枚の紙人形は、風もないのに薄い腕の先がそっと重なっていた。
月夜はわざわざ離さなかった。
「……はい。」
一拍遅れて頷き、それから付け加えた。
「一緒に帰りましょう、結お姉ちゃん。」
結は返事の代わりに、湯呑みを月夜のほうへ押した。
今度は、先に冷ましておいたお茶だった。
そ、その……あのですね……ご、ごめんなさい……。
一応言い訳をするなら、そのあいだにも合間合間で書いて、一般書を何冊か書いていたりしまして、それから今、韓国や中国のほうで武侠というジャンルが流行っているので、昔『射鵰英雄伝』を読んだときの記憶を掘り起こしながら、時代劇とうまく混ぜて書こうと企画したりもしているのですが……。
……普通に連載を頑張らないとですね。




