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第二話 『どういうわけか雑用係になりました!』

神社暮らし、お客さんはここまでみたいです!

一巻 鐘が鳴る前の夏


第二話 『どういうわけか雑用係になりました!』


——


廊下は思っていたより長くなかった。


けれど、夜の神社を初めて歩く人にとっては、その短い廊下でさえ長く感じるには十分だった。木の床はひんやりとしていて、古い木目が足の裏に薄く引っかかった。障子の向こうの部屋はどこも明るすぎはしなかった。暗いというより、必要なぶんだけ灯しているようだった。


先を歩く小麻里は、手に小さな灯りを提げていた。灯りは大きくなかったが、彼女が一歩進むたびに、廊下の先や柱の脇、壁に掛けられた厄除けの札の端を一瞬ずつ照らした。そうするたびに月夜は、ここが神社なのだということをあらためて思い出した。人が暮らしている匂いがするのに、やはり人の住む家とまったく同じではない部分があった。


結はすぐ後ろを歩いていた。不思議とその位置が少し気になった。背中を押してくるわけでも、見張っているわけでもないのに、後ろに誰かがいるというだけで、歩幅がなんとなく慎重になった。今転んだら格好悪いだろうな、なんてことまで考えてしまって、月夜は爪先に少しだけ力を込めた。そうしたところで裸足なのは変わらず、ひんやりした板張りの床が足の裏全体を静かに冷ましてくれた。


廊下の先の部屋の前で、小麻里が立ち止まった。


「今夜はここで寝るといいよ。」


戸を開けると、小さな部屋が現れた。手のひらほどの窓がひとつあって、壁際には畳んだ布団が置かれていた。隅には低い衣紋掛けと小さな箪笥、それから盥がひとつあった。一晩泊まるには十分で、しばらく過ごしてもそこまで不便ではなさそうな部屋だった。妙にがらんとしていないぶん、かえって安心した。


「狭くはないでしょ?」


小麻里の問いに、月夜は首を横に振った。


「いえ。むしろ……こっちのほうが好きです。」


月夜の言葉を聞いて、小麻里の口元がほんの少し上がった。


「ならよかった。」


結は何も言わずに部屋の中をひと通り見回すと、窓枠に手をかけた。少しだけ開いていた窓を閉める音がして、外から入り込んでいた草むらの虫の声がひとつ分遠のいた。


「夜の空気は冷たいから。その服、薄いし、そのまま寝たら風邪をひくかもしれない。」


そう言いながら結が小麻里を見ると、小麻里はわかったというように箪笥を開けた。中から取り出したのは、淡い色の着物に似た寝間着と乾いた手拭いだった。月夜はそれを受け取って、少しだけ目を瞬かせた。準備があまりにも早い。外から来た人が夜に転がり込んでくることなんて、神社ではよくあることなのだろうか。


「着替えられる?」


「はい。たぶん……」


また、たぶんだった。月夜は心の中だけでため息を飲み込んだ。記憶もなくて行く場所もないのに、語尾までこんな調子では、どう考えても頼りなく見える。けれど小麻里はあまり気にしていない顔だった。


「わからなかったら、とりあえず着てみればいいよ。前後さえ逆にしなければ、だいたいなんとかなるから。」


「それ、すごく怖い言い方ですね。」


思わず口をついて出た返事だった。言ってから、月夜はすぐに口をつぐんだ。少し気安く返しすぎただろうかと思った。けれど小麻里の目元はほんの少しやわらいだ。結も戸口のほうへ身体を向けながら、かすかに笑ったような気がした。確信はなかった。笑う気配だけがあった。


「じゃあ、着替えて休んで。」


小麻里が言った。


「水はすぐ持ってくるから。」


二人が部屋を出て戸が閉まると、ようやくひとりになった。


月夜はしばらくその場に立ったままだった。静かだった。けれど、霧の中の静けさとはまったく違った。この部屋の沈黙は、誰かがすぐ隣で息をしていそうな種類の静けさだった。ついさっきまで人が出入りしていて、これからもそうなのだとわかる沈黙。だから怖くはなかった。


彼女はゆっくりとワンピースの裾を見下ろした。一日も経たないうちに、あまりにも多くのことが起きていた。初めて聞く名前を自分のものみたいに受け入れて、初めて見る神社に足を踏み入れて、初めて会った少女に足を拭かれて、もうひとりの女の人には今夜は泊まれと言われた。まともな一日と呼ぶには、どう見てもずいぶんずれていた。


なのに不思議なことに、いちばん現実味がないのは別にあった。


『月夜。』


自分の名前を頭の中であらためて呼んでみると、やはりやわらかく胸に落ちてきた。馴染んでいるのに見知らぬようで、見知らぬのに忘れたくなかった。その感覚が妙で、月夜はなんとなく指先でうなじを撫でた。濡れてはいなかったが、緊張が抜けきっていない身体はまだ少し熱を持っていた。


戸の外で、もう一度足音がした。今度はひとつだけだった。


「入るよ。」


返事をする間もなく戸が開き、小麻里が盥と小さな急須を持って入ってきた。床に物を置く手つきは、相変わらず手慣れていた。月夜がまだワンピースのままでいるのを見て、小麻里は一度だけ目を瞬かせたが、別に何も言わなかった。


「水はここ。もう一回足をすすいでから寝て。山道の土って、なかなか落ちないから。」


「はい。」


「それから。」


小麻里は少しだけためらってから、部屋の隅に置かれた小さな鈴のようなものを指さした。


「何かあったら、それを鳴らして。強く振りすぎないようにね。」


「強く振ったら怒られたりしますか?」


「結姉がすぐ来て、その次にあたしが来る。」


怒られるという意味ではなさそうだったけれど、月夜はなんとなく結果としてはそっちのほうが怖いかもしれない、と思った。


戸口へ戻った小麻里が、最後にひとこと付け加えた。


「外には出ないで。夜道は昼とちょっと違うから。」


べつに脅かそうとする言い方ではなかった。だからこそ、かえって引っかかった。月夜はその言葉の意味を聞けないまま、ただ頷いた。


小麻里が出ていって戸が閉まると、部屋はまた静かになった。月夜はゆっくりと着替え、足に残っていた土を水で洗い流した。冷たい水が足首を伝って流れると、そこでようやく身体が本当に今日を終える支度をしているような気がした。布団を敷いて横になると、薄い天井の向こうから風の音と草むらの虫の声が混じって聞こえてきた。


目を閉じる直前、月夜はふと思った。昼と違う夜道、というのは、ふつう虫が多いとか、足を踏み外しやすいとか、そういう意味なのだろうか。それともこの神社では、本当に夜になると別の何かがもっと近くまで来るのだろうか。


答えは聞こえなかった。代わりに、眠りに落ちる寸前、どこかずっと遠い場所で小さな金属音が一度鳴った気がした。


***


朝、目を覚ましたとき、月夜は自分がどこにいるのかすぐには思い出せなかった。


見慣れない天井と、障子の向こうから滲んでくる白くやわらかな光を見て、ようやく昨夜の記憶が遅れて追いついてきた。竹林、石段、小麻里の手、結の声。ひとつひとつは夢みたいに曖昧だったのに、神社の朝の匂いだけは不思議なほど現実的だった。


身体を起こすと、寝間着の裾が膝の上まで少し上がっていた。大したことでもないのに、なんだか気恥ずかしくて、月夜はあわてて裾を整えてから戸を開けた。


最初に触れたのは朝の空気だった。夜とはまるで違った。草の匂いに日差しの匂いが混じっていて、庭のほうからは箒の音と水を汲む音が重なって聞こえてきた。神社は朝になると、ずっと普通に見えた。少なくとも表向きは。


「起きたんだ。」


廊下の先に小麻里が立っていた。今日は巫女装束ではなく、シャツにスカート姿だった。捲った袖の腕には水の跡が残っていた。


「遅く起きたんでしょうか?」


「遅くはないよ。あんたが寝てるあいだに、朝のほうが先に来てただけ。」


返事のようでもあり、そうでないようでもある言葉だった。小麻里は顔を洗う水を指さし、月夜はおとなしく井戸端へ向かった。少しだけ湯を混ぜてあったのか、手に触れる温度がちょうどよかった。顔を洗うと、頭がいっきにはっきりした。


朝ごはんは素朴だった。ご飯、味噌汁、卵焼き、鯖。結はすでに座っていて、小麻里が器を運んでいた。


「口に合うかわからないけど。」


結が言った。


「すごくおいしそうです。」


実際、その通りだった。ひと口目を運ぶ前に、お腹がぐうと鳴って、そのときになってようやく月夜は自分がどれだけ空腹だったのかに気づいた。小麻里が月夜を見て言った。


「ゆっくり食べて。取ったりしないから。」


「取られなくても、今はちょっと悲しい気がします。」


「どういう意味?」


「自分の分がなくなったら、です。」


言ってから、あまりにも真剣に食べ物に執着したみたいで少し恥ずかしくなった。けれど結が静かに笑い、小麻里も茶碗を置きながら口元を押さえた。その反応ひとつで、部屋の空気が少しやわらいだ。


食事が終わったあと、月夜はとうとう口を開いた。


「昨日は本当にありがとうございました。だから……今日は下まで行ってみようと思います。」


動いていた小麻里の手が少しだけ止まった。結はすぐには引き止めなかった。


「村に下りたら、何か思い出すかもしれないじゃないですか。家とか、学校とか……私を知ってる人がいるかもしれないですし。」


間違ってはいなかった。だからこそ、なおさら止めにくかった。


そのとき、小麻里が言った。


「じゃあ、あっちの分かれ道までは一緒に行って、何もなければ昼前までには戻ってきて。」


条件をつけた。月夜はそれくらいなら大丈夫だと頷いた。


山道は朝の日差しの下で見ると、昨夜よりずっとまともに見えた。虫の声は大きく、影も大したことのないものみたいに散っていた。小麻里は分かれ道で立ち止まった。


「ここから先は道がひとつしかないから。変なことがあったら、すぐ戻ってきて。」


「変なことの基準、ちょっと高そうですね。」


「今朝の時点で、もうかなり変な側だけど。」


反論できなかった。月夜が小麻里の言葉に笑うと、小麻里は少しだけためらってから付け加えた。


「道、迷わないで。」


短い言葉なのに、その言葉は不思議と月夜の胸に残った。


分かれ道の先、村へ続く道は思っていたより普通だった。日差しは木の葉のあいだから細かく砕けて落ちていて、道ばたには名前も知らない草花がところどころ咲いていた。遠くからは、誰かが洗濯物をはたくような音まで聞こえてきた。本当に、もう少し下れば人の暮らす村があるのだろうと思えた。


けれど歩いているうちに、ひとつずつ妙な点が目につきはじめた。たしかにまっすぐ下っているはずなのに、さっき通り過ぎたような石垣がまた見えた。風は上から下へ吹くのが自然なはずなのに、いつの間にか下のほうから撫で上げるように吹いてきていた。足元の土の道もちゃんとしているのに、なぜか一歩進むたび、同じ場所を踏んでいるような気がした。月夜は足を止めて、後ろを振り向いた。


上ってきた道はたしかにそこにあった。なのにどういうわけか、さっきより遠く見えた。反対に前の道は近づいたのではなく、薄くなったように見えた。道というより、誰かが勝手に引いた裂け目みたいに。


そのときだった。どこからか、か細い泣き声が聞こえた。最初は子猫かと思った。けれど、もう一度耳を澄ませると、たしかに子どもの声だった。わあわあ泣く声ではない。ずっと泣くのをこらえていて、息が詰まるたびに漏れてしまうような小さなすすり泣き。月夜は声のしたほうへ、ゆっくり近づいていった。


石垣の下、草の少し途切れた場所だった。五歳くらいに見える女の子が、うずくまって座っていた。片方のサンダルが脱げていて、土のついたつま先はぎゅっと縮こまっていた。目元は泣いて赤くなっていて、手の甲で涙をこすった跡がそのまま残っていた。


「大丈夫?」


女の子はびくっとして顔を上げた。返事の代わりに、きゅっと唇を結んで、それから今にもまた泣きそうな顔になった。


「マ…ママが……いない……」


月夜はその子の前に、ゆっくりしゃがみこんだ。下手に慌ててなだめようとすると、余計に泣かせてしまいそうだった。


「道に迷ったんだね。」


女の子は小さな顎を震わせながら、こくりと頷いた。月夜は脱げたサンダルを拾い上げた。女の子の足は小さくて、冷たかった。履かせてあげようとして足に触れた、その瞬間、妙な感覚が指先を伝って上ってきた。冷たいのは女の子の足なのに、背筋のほうが先に冷えた。


下の道から、風がひとつ吹き上がってきた。草の葉がいっせいに同じ向きに倒れ、木の葉が裏返る音がした。その風が通り過ぎたあと、月夜はほんの一瞬、自分の見ている道が道ではないような気がした。人の通る山道ではなく、どこか別のほうへつながりかけた、薄い裂け目。あと一歩踏み込めば、足首じゃなく名前のほうから落ちていきそうな方向。


息が詰まった。理由はわからなかった。けれど、ひとつだけはっきりしていた。この子を、これ以上下へ連れていってはいけない。


「……おねえちゃん?」


女の子が泣きそうな声で呼んだ。そこでようやく月夜は、自分がほんの少し息を止めていたことに気づいた。彼女は無理やり口元を持ち上げた。


「大丈夫。まずはお母さんを探そう。」


「下にいる……?」


その問いに、月夜はすぐには答えられなかった。その代わり、女の子の手を取ってゆっくり立たせた。手のひらは小さくて、湿っていた。女の子は立ち上がるなり、月夜の裾をぎゅっと掴んだ。


そして、とても小さな声で言った。


「おねえちゃん、あっちやだ。」


あっち。女の子が見ていたのは、さっき風が吹き抜けていった下り道のほうだった。


そのひと言で十分だった。月夜はそれ以上考えなかった。女の子の手を離さないまま、来た道をたどって引き返しはじめた。足取りは速くなかったけれど、一度も止まらなかった。後ろから誰かに呼ばれているわけでも、追いかけられているわけでもなかった。なのに不思議と、振り向いてはいけない気がした。


上っていくあいだにも、何度か風が吹いた。そのたびに葉と葉の擦れ合う音が、まるで言葉になる寸前で止まった声みたいに聞こえた。月夜は女の子の手をもう少し強く握った。女の子も黙ったまま、ぎゅっと握り返してきた。


そして神社の下の石段が見えたとき、ようやく胸を押さえつけていた息苦しさが少しだけほどけた。


***


神社の下のほうから、その子のお母さんが慌てて駆け上がってくる姿が見えたとき、月夜は安心しすぎて足から力が抜けそうになった。女の子はお母さんの姿を見るなり泣き出した。結がお母さんを落ち着かせているあいだ、小麻里は事情を一度で理解したような顔で月夜を見た。


残された三人のあいだに、少しだけ沈黙が流れた。先に口を開いたのは小麻里だった。


「下りてすぐ、子ども拾ってきたんだ。」


「拾ってきたって言うと、物みたいじゃないですか。」


「よりによって、いちばん危ないほうから連れてきたんだから。」


その言葉に、月夜は顔を上げた。結はすぐには説明しなかった。代わりに静かに言った。


「どうやら、あなたがこの神社に入った以上、外を勝手に歩き回るのはまだ難しそう。」


叱るというより、結論みたいな言い方だった。小麻里がため息混じりに付け加えた。


「少なくとも道を覚えるまでは、ここの仕事手伝って。掃除でも使いでも。放っておいたら、また変なもの拾ってきそうだし。」


月夜は少しだけぽかんとした。一晩泊めてもらうのと、ここで働くのでは、ずいぶん違う。なのに不思議と嫌ではなかった。お客さんではなくて、少なくとも少しのあいだは、ここでやることのある人になるのだから。


月夜は一度だけ目を瞬かせた。


「……じゃあ私、見習いみたいなものですか?」


小麻里の顔が微妙にしかめられた。


「それっぽく言えばそうだけど、正確には雑用係。」


「思ったより夢がないですね。」


「神社の仕事に変な夢持つと、大体ろくなことにならないよ。」


隣で結が小さく笑った。その声を聞いた瞬間、月夜もどうしても笑ってしまった。

その! 昨日は起きたら午後四時だったので、更新できなかったのです! 身体が深夜に耐えきれなかったのです!


あ、そういえば神社のことをもうちょっと勉強しようと思って、明日はあそこ、どこでしたっけ、伏見稲荷神社でしたっけ、行ってこようと思っているのです! もし明日更新がなかったら、あっ、力尽きて寝込んだな、くらいに思ってもらえると助かるのです! 体力がびっくりするほどないのです!

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