第二十五話 『月を見に上がっただけなのに、なぜか一言が気になってしまいました!』
神社暮らし、普通のお月見もたまには少し微妙な空気になります!
昼前。白雲神社の境内には、倉庫から出したものがいくつも並んでいた。古い灯籠。祭り用の布。木札。陽に当てるもの。拭くもの。戻すもの。
朝より、境内が少しだけ狭く見える。
「広くなったんじゃなかったんですか」
月夜が言うと、小麻里が布を畳みながら答えた。
「倉庫は広くなった」
「境内が狭くなりました」
「夕方まで」
「じゃあ戻す作業もある」
「もちろん」
月夜は少しだけ遠い目をした。木乃葉が横で笑う。
「倉庫整理って、出したら終わりじゃないからね」
「木乃葉が言うと説得力ないです」
「今日はかなり働いてるよ」
「その台詞、何回目ですか」
木乃葉が少し考える。
「二回目」
小麻里が即答した。
「四回目」
「数えてたの?」
「うるさいから」
月夜は笑った。夢の話をした朝。不思議な鈴。それでも、午後には布を畳んでいる。やっぱり。白雲神社の一日は、そうやって進むらしい。
***
月夜は祭り用の布を一枚ずつ伸ばした。古い。でも、破れてはいない。赤。白。薄い金色。端には、小さな模様が縫われている。
「これ、何の模様ですか」
結が覗く。
「雲」
「こっちは?」
「月」
月夜は指先を止めた。丸い刺繍。その周りに細い線。ただの月。でも、名前に入っているせいか。少しだけ目が止まる。木乃葉が横から言う。
「月夜の布」
「違います」
「名前書いとく?」
「祭りのものに落書きしないでください」
「じゃあ今度、月夜用に一枚」
「何に使うんですか」
「被る」
「用途が雑」
小麻里が布を受け取る。
「口動かすなら手も動かして」
木乃葉は、今度は文句を言わず、紐をまとめ始めた。月夜は少し驚いた。
「何」
「今日は本当に働いてる」
「褒められた」
「珍しく」
「小麻里と同じ言い方」
月夜はまた笑った。
***
少しして、結が古い木箱を指した。
「月夜」
「はい」
「これ、二人で運ぼう」
箱は、見た目より重かった。中には古い御札の紙と木札。月夜が片側。結が反対側。
「腰」
「はい」
「腕だけで持たない」
「はい」
結に言われた通り。膝を少し使う。持ち上げる。重い。でも、前よりは楽だった。
「歩くよ」
「はい」
一歩。二歩。結は、月夜の歩幅に自然に合わせる。箱を軒下に置く。月夜は手を離し、手首を少し回した。結がすぐ見る。
「痛い?」
「少しだるいだけです」
「あとで温かいお湯」
「そこまでしなくても」
「少しの疲れでも、あとに残ることがあるから」
前なら、心配されていると思うまでに少し時間がかかった。今は、すぐ分かる。
「分かりました」
素直に答える。結の口元が少し緩んだ。木乃葉が後ろから言う。
「いいね。手首まで見てもらえて」
月夜は振り返る。
「今の言い方」
「何」
「普通のことを、変なことみたいにするやつ」
「私の特技」
「知ってます」
小麻里が言う。
「木乃葉の言葉は半分くらい捨てていい」
「半分も残すんだ」
「かなり甘い」
月夜は笑った。自分も、もう少しくらいなら返せるようになっていた。
***
休憩。おにぎり。冷たい麦茶。漬物。簡単な昼食だった。木乃葉が自分のおにぎりを割る。梅干し。露骨に顔が曇った。
「当たり」
月夜が言う。
「外れ」
「健康的です」
「月夜にあげる」
「自分で食べてください」
「半分」
「嫌です」
「四分の一」
「交渉しないでください」
小麻里が横から言う。
「食べな」
木乃葉は諦めて一口食べた。
「……大人の味」
「梅干しでそれ言います?」
月夜が笑う。結は月夜の湯呑みに麦茶を足した。
「午後、少し休む?」
「まだ大丈夫です」
「無理する前に言って」
「はい」
月夜は、少し考えてから付け足した。
「言わなくても、小麻里お姉ちゃんが止めそうですけど」
小麻里が目だけを上げる。
「分かってるなら楽」
「否定しない」
「事実」
月夜は笑った。三人のやり方は、もう同じ食卓の上で見分けられた。
***
午後の作業が一段落したところで、月夜は自分の部屋へ戻った。引き出しを開ける。服。手拭い。折った御札。地図。その横に、一枚の紙を入れた。
朝の夢を書いたもの。青と金の空。知らない町。扉。その向こうの白雲神社。紙垂。湯呑み。最後に、『三人の声みたいに聞こえた』と書いてある。
月夜は紙を見た。記憶が戻らなくても、夢が薄れても、書いておけばあとで比べられる。
「……よし」
紙を地図の下に入れる。忘れないためだ。でも、一日中考え続けないためでもある。引き出しを閉めた。ぱたん。それで、少し頭の中が静かになった。
***
夕方。倉庫整理はようやく終わった。出した灯籠は軒下へ。布は畳んで戻す。古い鈴は、結が小さな布に包んだ。月夜はそれを見る。朝。触る前に鳴った鈴。
「それ、戻すんですね」
「うん」
「また鳴ったら?」
「そのときまた見る」
結は箱に入れる。
「今、危ないものじゃないから」
月夜は頷いた。布に包まれた鈴が箱に戻る。追いかけずに置いておく。その選び方にも、もう少し慣れていた。木乃葉が紐を結びながら言う。
「今日、私かなり真面目じゃない?」
小麻里が答える。
「五回目」
「増えてる」
「さっきも言った」
「褒められたい気持ちは悪くないよ」
月夜が言う。
「じゃあ、働いた人は自分から確認しません」
木乃葉が胸を押さえた。
「月夜まで厳しくなった」
「住む人は仕事多いので」
小麻里が一瞬だけ月夜を見た。それから、ほんの少し笑った。
***
夕食。焼き茄子。和え物。味噌汁。木乃葉は茄子を箸で持ち上げた。
「これは大人の味だね」
「今度は茄子」
月夜が言う。
「まだ理解してる途中」
小麻里が即答する。
「食べながら理解して」
「小麻里は、食べ物相手でも話し合う時間をくれないね」
結が笑いながら、月夜の椀に味噌汁を少し足した。
「今日はたくさん動いたから」
「ありがとうございます」
食事。片づけ。手首を、結に言われた通り温かい湯で流す。
「本当にやってる」
小麻里が横から言う。
「結お姉ちゃんに言われたので」
「素直」
「最近は」
月夜は手を拭いた。もう、さっきのだるさはほとんど残っていなかった。
***
外は、完全に夜になっていた。月夜が布巾を干していると、後ろから名前を呼ばれた。
「月夜」
木乃葉の声だった。振り返ると、木乃葉が手招きしている。
「何ですか」
「月」
月夜は木乃葉の視線を追った。
「月を見に行くんですか」
「うん。今がちょうどいい」
木乃葉は空を見る。月夜も空を見る。軒の向こうに、白い光が見える。
「どこで見るんですか」
「上」
「上」
木乃葉が屋根を指した。月夜は数秒。何も言わなかった。
「普通に縁側では」
「見えるよ」
「じゃあ」
「でも上のほうが綺麗」
横から結が言う。
「遅くまではだめ」
もう許可が出ていた。月夜は結を見る。
「止めないんですか」
「木乃葉が一緒なら」
小麻里は手拭いを畳みながら言った。
「落ちたら二人とも怒る」
「どうして私まで」
「ついていくから」
「まだ行くって」
月夜は言葉を止めた。木乃葉が手を差し出している。
「行かない?」
月夜は、少しだけ迷って、その手を取った。
「行きます」
***
奥の居室の裏手。低い軒から、木乃葉が先に屋根へ上がる。月夜は最初の一歩で止まった。
「これ、どこに足置くんですか」
「そこ」
「暗い」
「私の手持って」
「持ってます」
「じゃあ大丈夫」
「根拠が木乃葉」
「かなり強い根拠」
少しだけ納得できるのが悔しかった。月夜は柱の横に足を置く。次。腰が少し傾いた。すぐ。背中側に柔らかいものが当たる。木乃葉の尻尾。支えている。
「……便利」
「褒めた」
「今は」
「今だけ?」
「集中させてください」
木乃葉が笑う。それでも、急かさなかった。一段。もう一段。最後に、木乃葉が月夜の手を少し強く引く。屋根の端に上がった。月夜は慎重に腰を下ろした。
瓦には、昼の熱がほんの少し残っている。風は、境内より少し強い。
「下、見ないほうがいい?」
木乃葉が聞く。月夜は一度だけ見た。本殿。鳥居。石段。奥の居室の灯り。
「……思ったより高い」
「でも綺麗でしょ」
「はい」
白雲神社が、いつもと違う形に見える。でも、知らない場所には見えなかった。むしろ、自分が知っているものを少し違う角度から見ているだけだった。
木乃葉が空を指す。
「見て」
月夜は顔を上げた。月。普通の夏の月。大きすぎない。赤くもない。ただ、静かに白い。
その光が、木乃葉の髪。狐耳を隠した頭。三本の尻尾に薄く落ちている。月夜はしばらく黙った。そして、本当に何も考えず、口にした。
「——月が、綺麗ですね」
木乃葉が、ゆっくり横を見る。数秒。月夜も横を見て、自分が何を言ったのか理解する。
「あ」
木乃葉の口元が上がる。
「それ」
「違います」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が言ってます」
「どういう意味か知ってる?」
月夜の顔が熱くなる。
「今思い出しました」
「へえ」
「ただ月が綺麗だっただけです」
「うん。綺麗だね」
「そういう受け取り方しないでください」
「どう受け取ったの」
「質問を返さないでください」
木乃葉が笑う。月夜は空を見るしかなくなった。風。木乃葉の尻尾が一本だけ。月夜の脇に軽く触れた。
今度は、すぐには離れない。腕から腰の横にかけて、柔らかい毛が沿うように触れたままだった。月夜は一度だけ横を見る。
「……これ、わざとですよね」
「月が綺麗だから」
「理由になってません」
そう言いながら、月夜も、どけてとは言わなかった。肩が触れるほどではない。でも、尻尾一本分だけ。さっきより距離が近かった。少しして、月夜が聞く。
「木乃葉」
「何」
「前の私とも、ここで月見ました?」
木乃葉の笑いが、少しだけ静かになる。
「見たことあるよ」
月夜は月を見る。
「何回くらい」
「何度か」
「私、何か言いました?」
「いろいろ」
「そこは教えてくれない」
「今日はね」
月夜は少しだけ頬を膨らませた。でも、今度は、それほど腹が立たなかった。木乃葉が続ける。
「でも」
「はい」
「今の月夜とここで見るのは、今日が初めて」
月夜の目が、少しだけ大きくなる。木乃葉は空を見たまま言った。
「昔の君と見た月は、昔の君のもの」
「……」
「今日のは、今日の君のもの」
月夜は、しばらく何も言えなかった。朝、夢の中で、昔か今か分からない場所を歩いた。
自分で作った紙垂も、今の湯呑みも、知らない町も、全部混ざっていた。でも、今この月だけは、混ざっていない。今日、木乃葉と上がって、自分で見た。
「……それなら」
月夜は小さく言う。
「覚えておきます」
木乃葉が見る。
「月を?」
「今日を」
一瞬。木乃葉の尻尾が止まった。それから、ゆっくり動く。
「うん」
二人はまた、同じ月に視線を戻した。
***
しばらく、二人で月を見た。何も起きない。鐘も鳴らない。白いものも出ない。ただ。虫の声。下から、結と小麻里が片づける小さな音。奥の居室の灯り。
月夜は、ふと笑った。
「何」
木乃葉が聞く。
「いえ」
「顔」
「それ禁止です」
「なんか、すごく満足そうな顔してる」
「何ですか、それ」
木乃葉が笑う。月夜も笑う。少しして、月夜は空を見たまま言った。
「……明日も、天気がいいといいですね」
木乃葉が、また少しだけ目を細める。
「それはどういう意味?」
「ただの天気の話です」
「本当に?」
「本当です」
月夜は一度だけ、下の境内を見る。明日。朝になれば、結が茶碗を出す音がする。小麻里が箒を持つ。木乃葉はたぶん、どこかで余計なことを言う。
自分も、そこにいる。今は、それをわざわざ確認しなくてもいい。
「でも」
月夜が続ける。木乃葉が見る。
「今日みたいな明日なら、悪くないです」
木乃葉は、少しだけ笑った。
「私も」
風が通る。三本の尻尾が揺れる。その一本が、月夜の手の横で止まる。月夜は、今度は自分から毛先に指を滑らせた。一度だけのつもりだった。
でも、木乃葉が引かないので、月夜もすぐには離さなかった。指の間に柔らかい毛が残る。
木乃葉は何も言わない。ただ、尻尾の先だけが月夜の手のひらに少し寄った。月夜も、今度は逃げなかった。月は、変わらず綺麗だった。そして、白雲神社の夜は、何事もなく、ゆっくり続いていった。
一巻完結なのです!特に話すことはありませんが、こいだぬき氏は最高なのです!
ほまでり氏の絵もえっちなのですよ!




