第二十四話 『夢で見たものが気になっても、倉庫整理は待ってくれませんでした!』
神社暮らし、不思議な夢より先に朝ごはんと倉庫整理です!
目が覚めた、と思った。けれど、月夜の頭上にあったのは、見慣れた天井ではなかった。青とも金ともつかない光が、空いっぱいに薄く混ざっている。
昼ではない。夜でもない。雲に見えるものは、形を変えながらゆっくり流れているのに、風の音だけがしなかった。代わりに、遠くで水車が回るような低い響き。紙を折るような、乾いた音。そして、どこかで一度だけ。りん——。鐘とも鈴ともつかない音がした。
月夜は草地の上に立っていた。足元の葉には、小さな光が露みたいに乗っている。一歩進むたび、それがほどけて消えた。
「……また夢」
口にして、すぐに違うと思った。夢なのだろう。でも、前に見た白い場所とも違う。そして、ここを知らないはずなのに、月夜の足は、行く方向を知っていた。
草地を抜ける。細い橋。水の流れる音。その先に、古い商店街みたいな道がある。低い瓦屋根。読めそうで読めない看板。人の形をした影。
月夜は立ち止まらなかった。右。次は左。一つ目の角は通り過ぎる。二つ目で曲がる。
「……なんで分かるんだろ」
答える人はいない。それでも、迷わない。そのことのほうが、少し怖かった。道の先。大きな木の前まで来たところで、空気が裂けた。音はしなかった。
ただ、何もなかった場所に、縦長の亀裂ができる。扉。そう思った。枠も。取っ手もない。霧と水面と、破いた紙の端が一つになったみたいに揺れている。
そして、その向こうに白雲神社があった。月夜は息を止めた。鳥居。石段。本殿。軒先の風鈴。縁側。そこまでは、今の白雲神社だった。でも、月夜の目は本殿の横で止まった。白い紙垂。ほんの少しだけ、右の折り幅が広い。自分が作ったものだった。
「……これ」
何日か前、自分で折って、自分で掛けた。さらに、縁側の端には、薄い青の線が入った湯呑みが一つ置いてある。月夜のもの。胸が強く鳴った。
これは、昔の記憶だけではない。少なくとも、昨日までの自分が混ざっている。
「じゃあ、ここは……」
何なのか。分からない。月夜は扉へ近づいた。一歩。胸が少し痛む。二歩。今度は、向こうから声がした。
「——月夜」
一つではなかった。結の声にも聞こえた。小麻里の声にも。木乃葉が名前を呼ぶときの、少し笑った息にも似ていた。月夜は手を伸ばした。扉の向こうからも。
誰かの手が伸びてくる。白い指。触れる。その直前。月夜は反射的に、その手首を掴んだ。
***
「……痛い」
声がした。今度は、はっきり木乃葉だった。月夜は目を開けた。見慣れた天井。朝の光。布団。そして、自分の右手。
その手は、木乃葉の手首をしっかり掴んでいた。
「……」
木乃葉は布団の横に座っていた。月夜の上ではない。ちゃんと横。ただし、手首だけ捕まっている。二人で数秒。そこを見る。月夜が先に離した。
「……すみません」
「寝込みを襲われた」
「逆です」
「私、何もしてないのに捕まったけど」
「そういう意味じゃなくて」
月夜は起き上がる。心臓がまだ少し速い。夢の中で掴んだ手。現実で掴んでいた木乃葉の手首。その感触まで、妙に繋がっていた。
「どうしてここにいたんですか」
木乃葉は自分の手首を軽くさする。
「呼ばれたから」
「私が?」
「うん」
月夜は止まった。
「何て」
木乃葉が少しだけ笑う。
「最初、結」
月夜の顔が上がる。
「そのあと小麻里」
木乃葉は指を一本ずつ立てる。
「最後に私」
「……」
「三人分、ちゃんと呼んだ」
月夜は布団を少し引き上げた。恥ずかしい。なぜか。かなり。
「それで来たんですか」
「最後に呼ばれたから」
「結お姉ちゃんか小麻里お姉ちゃんでもよかったでしょう」
「私が一番近かった」
木乃葉はそう言って、少しだけ間を置く。
「それに」
「何ですか」
「呼ばれたら行くよ」
からかう声ではなかった。月夜は、一瞬だけ返事ができなかった。そのとき。すうっ。戸が開く。小麻里が顔を出した。月夜。木乃葉。そして、木乃葉の手首。
小麻里の視線が順番に動く。
「……今度は月夜が捕まえたの」
「違います!」
月夜の返事が早かった。木乃葉が笑い出す。
「寝込みを襲われた」
「その言い方やめてください!」
小麻里は数秒だけ見た。
「朝ごはんできてる」
とだけ言った。
「説明を聞いてください」
「あとで」
「絶対もう興味ないでしょう」
「うん」
正直だった。月夜は力が抜けた。でも、夢の中の手だけは、まだ忘れていなかった。
***
朝食の席で、月夜は夢の話をした。青と金の空。知らない町。迷わず歩けた道。裂けた空気の向こうに見えた白雲神社。
「前に、私が作った紙垂がありました」
結の手が止まった。
「月夜が作ったやつ?」
「はい」
「湯呑みも」
月夜は自分の前にある湯呑みを見る。白地。薄い青の線。
「これと同じものが、縁側に置いてありました」
小麻里が少し眉を寄せた。木乃葉は、珍しく、すぐには何も言わない。月夜は三人を見る。
「だから。昔の記憶を、そのまま夢で見たわけじゃないと思います」
結がすぐに頷いた。
「その可能性は高いね。夢は、今見たものと昔のものが混ざるから」
「じゃあ、あの町が本当にあるかは」
「まだ分からない」
小麻里が言う。月夜は自分の湯呑みを親指でなぞった。少なくとも、この青い線まで昔の記憶だった、とは考えなくてよさそうだった。
月夜は湯呑みの縁に指を置いた。小さな欠け。夢の中の湯呑みに、ここまで同じ傷があったかは思い出せない。確かめようとして、やめた。
夢を一枚の写真みたいに扱っても、たぶん答えは出ない。月夜は指を離した。欠けのざらつきだけは、今の手に確かだった。木乃葉が味噌汁を飲んでから言う。
「あと」
「何ですか」
「夢の中でも白雲神社を帰る側に置いたんだね」
月夜は止まった。扉の向こう。自分の紙垂。自分の湯呑み。確かに、夢の中で月夜は、知らない場所から、白雲神社へ戻ろうとしていた。
「……そうですね」
小さく答える。木乃葉はそれ以上からかわなかった。
***
朝食のあと、小麻里が言った。
「今日は倉庫」
月夜は瞬きをする。
「今の話のあとに?」
「今の話があっても」
「現実が強い」
「祭り前に片づけたいから」
結が鍵の束を持ってくる。
「本殿の裏の小さい倉庫ね」
月夜は立ち上がった。
「はい」
夢は気になる。でも、倉庫も片づける。最近は、そういう順番に少し慣れてきた。
***
本殿の裏の小さな倉庫は、扉を開けると、乾いた紙と木の匂いがした。箒。古い灯籠。畳んだ簾。祭り用の布。棚の上には木箱がいくつも並んでいる。
「前より物多く見えます」
「今日は全部見るから」
小麻里が答える。木乃葉が一つの箱へ手を伸ばした。小麻里が先に言う。
「それは最後」
「まだ何もしてない」
「前に木乃葉が入れたものだから」
月夜はすぐ一歩離れた。
「説明十分」
「月夜まで」
結が静かに笑った。整理は地味だった。古い紐。使える紐。破れた紙。まだ使える紙。祭りの布は外へ出す。月夜は一つずつ分けた。
夢の町は、少しずつ頭の奥へ下がっていく。完全には消えない。でも、目の前の箱を持つ手は、ちゃんと今にあった。
「月夜」
結が低い棚を指す。
「そこ、お願い」
「はい」
月夜はしゃがむ。古い布。木札。その奥に、小さな鈴が一つあった。指先ほどの大きさ。黒ずんだ金属。細い紐。月夜は手を止めた。夢の中。
一度だけ聞こえた音が、耳の奥によみがえる。りん——。この鈴も、あんな音で鳴るのだろうか。でも、今度は触らなかった。
「結お姉ちゃん」
先に呼ぶ。結が近づく。
「これ」
「ああ」
「触っても大丈夫?」
結は一度だけ鈴を見る。
「大丈夫」
許可をもらって、月夜は手を伸ばした。指が触れる。その直前。
ちりん。
鈴が鳴った。月夜の手が止まる。風はない。三人も見ている。
「今」
「鳴ったね」
結が答える。木乃葉がしゃがみ込む。
「これ、たまに先に鳴るやつ」
「先に?」
「触る前に」
「普通に変じゃないですか」
「この神社では中くらい」
「基準がおかしい」
小麻里が言う。
「危ないものではないよ」
「分かるんですか」
「昔からある」
「昔から鳴る?」
「たまに」
少なくとも、月夜だけに反応した鈴ではない。夢の音と同じものかは、まだ分からない。月夜は黒ずんだ表面を親指でなぞった。
細い紐も日に焼けて、元の色が分からないくらい褪せている。月夜は細い紐の結び目まで一度だけ目で追った。
自分が来る前から、ここに置かれていた時間のほうが長い。月夜は鈴を手に取った。今度は、鳴らなかった。
月夜は手のひらの上で、小さな鈴を少しだけ傾けた。
「これ、昔は何に使ってたんですか」
結が答える。
「祭りの飾り。今はもう使ってないけど」
「じゃあ、鐘の音とは別?」
「少なくとも、この鈴が夜に勝手に鳴ってるわけじゃないよ」
結はそこまで言って、少し間を置いた。
「音が似てるからって、同じものだとは限らない」
月夜は頷いた。
「じゃあ、夢の音はまだ保留」
「うん」
月夜は鈴を布の上に戻した。白い影。分校の雑鬼。朝の夢。頭の中で同じ箱に放り込まず、鈴だけは鈴のまま、布の上に置いておく。今は、それくらいの分け方でよさそうだった。
「不思議」
木乃葉が言う。
「月夜も大概、不思議なものに慣れたね」
「慣れたというか」
「触る前に呼ぶようになりました」
小麻里がすぐ言う。
「そこは成長」
「褒められた」
「珍しくね」
月夜は笑った。
***
昼前。祭り用の布を外に広げた。長くしまわれていた匂い。陽に温められる布。月夜は端を伸ばす。木乃葉は反対側で、なぜか一枚を肩に掛けていた。
「どう」
「働いてる人みたいです」
「今日もそこ?」
「整理中なので」
「綺麗とかないの」
月夜は少し考えた。
「似合ってます」
木乃葉が止まる。
「……素直」
「たまには」
木乃葉の尻尾が少し上がった。小麻里が横から言う。
「褒められたなら、そのまま布運んで」
「余韻が短い」
「仕事中」
結が笑う。月夜も笑う。夢の空は、まだ頭のどこかにある。知らない町も、扉も。でも、今。目の前にある夏空は青くて、自分が干した布が普通にその下で揺れている。月夜はそれを見上げた。夢の答えは、今日全部出なくてもいい。忘れなければ、また確かめられる。そして、確かめる場所は、もう分かっていた。白雲神社だった。
今日も連載は続くのですわ! 言うことはあんまり思いつかないんですけど! 最近だんだんレズ化が進んでいるのか、もう百合以外見られなくなってきたのです!




