第二十二話 『静かな風が通り過ぎたあとも、日常は続いていました!』
神社暮らし、小さなずれはありましたが、今日もお茶とご飯と庭仕事が先です!
翌朝。月夜は、目を覚ましてすぐ、音が足りないことに気づいた。風はある。竹の葉が鳴っている。手拭いも揺れている。なのに、風鈴だけが鳴っていない。
月夜は縁側へ出た。硝子の風鈴は、ちゃんと揺れている。中の舌も動いている。それでも、音が出ない。
「……変」
月夜が呟く。そのまま、本殿のほうを見る。昨日、自分で掛けた紙垂。それも、少し変だった。ほかの紙は外側へ流れているのに、月夜の紙垂だけ、一枚だけが内側へ巻くように揺れている。
「小麻里お姉ちゃん」
本殿前を掃いていた小麻里が振り返る。
「何」
「あれ」
月夜は指さす。小麻里が見る。一瞬。箒が止まった。
「……折り目」
「昨日はまっすぐでした」
「湿気」
「風鈴も?」
「風鈴は」
小麻里が言葉を止める。月夜は待った。
「……結お姉ちゃん呼ぶ」
今回は、誤魔化さなかった。それだけで、月夜の背中が少し伸びた。
「私も行きます」
「ここにいて」
「でも」
「ひとりで確かめない」
小麻里が言う。繰り返し言われてきた言葉。月夜は少しだけ黙った。
「はい」
と答えた。
***
結はすぐに来た。寝起きではない。もう髪も整えている。月夜の指した風鈴を見る。紙垂を見る。それから、鳥居のほうへ歩いた。
「月夜」
「はい」
「そこから見てて」
「近づきません」
「うん」
月夜は縁側の端で止まった。結が鳥居の内側にしゃがむ。石畳の隙間。そこに、細いものが残っていた。白い粉ではない。薄い灰色の糸くずみたいなもの。
髪の毛より少し太い。でも、触れれば崩れそうなくらい薄い。
「昨日はなかったですよね」
月夜が聞く。結が頷く。
「なかった」
小麻里も近くまで来る。
「入った?」
「たぶん違う」
結の返事は早かった。月夜はその返事にすぐ反応した。
「違うんですか」
「内側へ続いてないから」
結は指で触れずに、灰色の筋を目で追う。鳥居の柱。石畳の端。そこで切れている。
「じゃあ」
月夜は聞いた。
「外から来て、入れなかった?」
「それとも違う」
今度は、木乃葉の声だった。振り返る。木乃葉が縁側から歩いてくる。髪は少し乱れている。でも、金色の目はもう眠そうではなかった。
木乃葉は灰色の筋の近くにしゃがむ。鼻先を少し動かす。
「これ、新しいやつじゃない」
「新しくない?」
月夜が聞く。
「前の残り」
「前に出た、あの白い痕と同じですか」
木乃葉は首を振る。
「それとも違う」
「違うもの多いですね」
「何でも一個にまとめたら楽だけどね」
木乃葉は指先で空気をなぞる。
「最近、境の近くで何回か変なのが動いたでしょ」
「村の白いやつ」
「分校の雑鬼」
「鐘」
月夜が順番に言う。木乃葉が頷く。
「そういうのが近くを通ったあと、境が元に戻るときに古い滓が浮くことがある」
「滓」
「戸を閉めたあと、溝に埃が残るみたいなもの」
月夜は鳥居を見る。
「じゃあ」
少し考える。
「昨日の夜、また何か来たわけじゃない?」
「少なくとも、これは違う」
木乃葉がはっきり答えた。月夜の肩から、少しだけ力が抜けた。また新しいものが来た。そういう話ではない。
起きたことの残りが、今になって浮いてきただけ。
「風鈴が鳴らないのも?」
結が答える。
「たぶん、そのせい」
「たぶん」
「そこはまだ確定じゃない」
月夜は風鈴を見る。今度は、前より少しだけ怖くなかった。分からない部分は残る。でも、分かった部分もある。それだけで、かなり違った。
***
結は小さな紙袋を持ってきた。中から、白い粉を少し。灰色の筋の周りに落とす。月夜が見ていると、筋が少し濃くなった。そして、動かなくなる。
「何ですか、それ」
「塩と灰を混ぜたもの」
「普通の?」
「普通の部分もある」
「その答え、ちょっと怖いです」
結が小さく笑った。
「触らないで集めるため」
小さな刷毛。紙。結は慎重に灰色の滓を集める。昨日、月夜は同じ場所を普通に掃いた。今日は、結が扱う。その違いが、少しずつ分かるようになってきた。
「私が掃いたら駄目ですか」
「今はね」
「見分け方は?」
「色」
結が言う。
「動き」
小麻里が続ける。
「あと」
木乃葉が月夜を見る。
「月夜が変だと思ったかどうか」
月夜は瞬きをした。
「私?」
「君、そういうの拾うから」
「物みたいに言わないでください」
「でも、今朝も一番に気づいた」
月夜は風鈴を見る。紙垂を見る。確かに、誰かに言われる前に、変だと思った。
「じゃあ」
月夜は言う。
「変だと思ったら、勝手に触らず呼ぶ」
結が頷く。
「それで十分」
「仕事が一つ増えました」
小麻里が言う。
「見張り役」
「雑用係から昇進?」
「兼任」
「給料は」
「ご飯」
「現物支給」
木乃葉が笑った。
「かなり強い契約だね」
月夜も少し笑った。
***
朝の仕事が終わると、結が温かい茶を淹れた。夏なのに、湯気が立っている。月夜は湯呑みを両手で持つ。
「今日は温かいほうなんですね」
「少し冷えたから」
「私が?」
「みんな」
木乃葉が自分の湯呑みに鼻を近づける。
「濃い」
「わざと」
結が答える。月夜も一口飲む。熱い。でも、ゆっくり喉を通ると、胸の奥が少しほどけた。
「こういうとき」
月夜が言う。
「お茶って意味あるんですか」
「怪異に?」
「はい」
結は少し考えた。
「御札みたいな意味はないよ」
「じゃあ」
「身体を戻すため」
結は自分の湯呑みを持つ。
「怖いものを見たり、変なものに触れたりすると、身体が先に冷えることがあるから」
「それを温める」
「うん」
月夜はもう一口飲んだ。現実的だった。でも、そういう答えが好きだった。何でも不思議な力で解決するわけではない。お茶でいいところは、お茶で戻す。
白雲神社は、最近ずっと、そんな感じだった。
***
お茶を飲み終える少し前、鳥居の外から声がした。
「こんにちはー」
月夜が振り返る。籠を持った近所のおばさんが立っていた。胡瓜と茄子が見える。小麻里が立つ。
「こんにちは」
「畑で採れすぎたから、少し持ってきたよ」
「ありがとうございます」
月夜も立った。見覚えのある顔だった。前に参拝に来ていた人。おばさんは月夜を見る。
「あら。もうずいぶん馴染んだね」
「そう見えます?」
「最初より顔が家の中の子みたい」
月夜は少しだけ返事に困った。木乃葉が後ろから覗く。
「私は?」
おばさんは木乃葉を見る。三本の尻尾にも、特に驚かない。
「木乃葉ちゃんは相変わらずだねえ」
「褒められた」
「たぶん違います」
月夜が言う。おばさんが笑う。神様とは呼ばない。拝みもしない。ただ、山の上にいる木乃葉として話している。月夜は最近知った秘密を、口にしなかった。
それも、少しずつ自然になってきた。胡瓜を受け取った結が聞く。
「村のほう、風強かったですか」
「朝だけね」
「風鈴とか、変じゃなかった?」
おばさんは首を傾げる。
「別に。うちのは朝からうるさいくらいだったよ」
月夜は、思わず軒先を見る。白雲神社だけ。やっぱり。そうらしい。でも、村まで全部おかしくなったわけではない。そのことも、少し安心だった。
おばさんは長居しなかった。
「じゃあ、またね」
そう言って石段を下りていった。木乃葉が胡瓜を一本持とうとする。小麻里が手を叩く。
「昼まで待って」
「一本くらい」
「洗ってない」
「神様だから平気」
「腹壊しても知らないよ」
「急に現実」
月夜は笑った。さっきまで、境の話をしていた。今は、胡瓜一本で揉めている。その並び方が、妙に安心できた。昼前には、境内はほとんどいつも通りだった。
風鈴だけ。まだ鳴らない。月夜は本殿の横で紙垂を見た。昨日、自分が作ったもの。小麻里が直そうとする。
「待ってください」
月夜が言う。
「私がやります」
「できる?」
「昨日教えてもらったので」
月夜は脚立ではなく、低い踏み台に乗った。紙垂を外す。折り目を確認する。湿ってはいない。少しだけ、内側に癖がついている。指で開く。折り直す。
昨日、小麻里に教えてもらった順番だ。
「ここ」
月夜が自分で呟く。反対に返す。形を作る。掛け直す。風。紙が、今度はほかと同じ方向へ揺れた。
「できた」
下から小麻里が見る。
「うん」
「もう一人でできました」
「紙垂はね」
「限定する」
「事実」
月夜は踏み台から下りた。小麻里の手は、最初から最後まで、紙垂へ伸びなかった。昨日なら途中で直されていた。その違いだけで、月夜は少し機嫌よく踏み台を戻した。
***
昼食。木乃葉は水を二杯飲んだ。小麻里が二つ目のコップを最初から置いていた。木乃葉が少し不満そうに言う。
「私、そんなに飲む?」
月夜が答える。
「飲んでます」
「見てた?」
「生活観察です」
「何その役職」
「見張り役と兼任」
小麻里が言う。
「また勝手に増やさないで」
結が笑った。さっきまでの灰色の滓は、もう見えない。でも、月夜は忘れていなかった。忘れる必要もない。
それが新しい危険ではないこと。今朝のうちに処理できたこと。自分は触らず誰かを呼べばいいこと。そこまで分かっている。
不安は、名前がつくと少し小さくなるらしい。
***
午後。月夜は小麻里と棚を整理した。御札の紙。予備の紐。小さな鈴。古い帳面。木乃葉が帳面へ手を伸ばす。小麻里が手の甲を叩く。ぱし。
「痛い」
「触らない」
「この神社の神様に厳しすぎない?」
「神様なら余計に」
月夜は横で笑った。木乃葉が神様だと知ったばかりなら、そんなことをしていいのかと驚いたかもしれない。今は、木乃葉なら仕方ないと思う。
それも、生活の中で覚えたことだった。
***
日が少し傾いたころ、ちりん、と音がした。月夜の手が止まる。風鈴。今度は、ちゃんと鳴った。一度。
ちりん。
二度目。澄んだ。普通の音。月夜は縁側へ出た。木乃葉も。小麻里も。結も。誰も慌てない。結が風鈴を見る。
「戻ったね」
月夜はその言葉を聞いた。
「戻った」
自分でも繰り返す。朝は、鳴らないことだけが怖かった。今は、鳴った理由を全部知らなくても、少なくとも元に戻ったことは分かる。
月夜は風鈴を見上げた。今朝、自分で直した紙垂も、普通に風に流れている。何も起きなかった日ではない。でも、何かが終わった日ではあった。
ちりん。
もう一度。今度の音は、ようやく、ただの風鈴として聞こえた。月夜は小さく息を吐いた。朝よりも、境内の空気が自分の知っている場所に戻った気がした。
その……僕が冨樫先生になったわけではないのですよ! これからも連載は続けるのですよ! 僕なりに作家生活をしてみた結果、今の自分の力量には二日に一話くらいの連載ペースが合っているとわかったのです! もちろん毎日連載が目標ではありますが、僕がもっとすごい作家になるまでは、二日に一回くらいで連載していくのですよ!




