第一話『神社で一晩、お世話になることになりました!』
神社でお世話になることになりました!
一巻 鐘が鳴る前の夏
第一話『神社で一晩、お世話になることになりました!』
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するり、と障子の開く音がした。
外の赤い夕暮れの光は障子の向こうでひとつ分やわらぎ、部屋の中には木と乾いた草、それからごく淡い香の匂いが混じっていた。どこか見知らぬのに、不思議と気持ちが落ち着いた。誰かが毎日風を通し、埃を払い、水を替えていなければ生まれないような、整った空気だった。
神社の奥にある社務所は、思っていたよりずっと生活の気配があった。戸の脇には靴が何足かきちんと揃えて置かれていて、低い茶箪笥の上にはガラス瓶に挿された名も知らない野の花がひと束あった。壁には暦が掛けられていて、その下には何枚かのメモが貼られていた。夕方の当番、井戸の確認、祭具の片づけ。そんな文字が書かれていた。誰かが実際にここで食べて、眠って、働いているのだという事実が、小さな痕跡として残っていた。
月夜はそれを見て、少しだけ安心した。
神社といえば、香の匂いばかり満ちていて、うっかり失言でもしたら罰でも当たりそうな場所だと思っていた。けれど実際に目の前にあるのは、人が本当に暮らしている空間だった。ご飯を炊く匂いが染みついていそうな部屋、きっと誰かが座ってお茶を飲んだのだろう場所、うっかり置き忘れた髪紐の一本くらいありそうな棚。そんなものが見えた。
「そこ、座って。」
先に入っていた少女が、部屋の真ん中に置かれた小さな座布団を手で示した。
月夜はおとなしく座布団の上に膝を揃えて座った。少女はしばらく彼女を見つめていたが、やがて部屋の隅の棚から小さな箱と手拭いを取り出した。近くで動く姿を見ると、少女は思っていたより幼く見えた。
背もそれほど高くなく、肩の線も細かった。巫女装束でなければ、月夜と同じくらいの年頃だと言われても不思議ではないくらいだった。なのに、動作だけは不思議なほど慣れていて、迷いがなかった。棚を開け、箱を取り出し、水で濡らした手拭いを用意する手つきは、無駄がなく滑らかだった。
少女は月夜の前にしゃがみこんだ。
「足から見るね。」
月夜は反射的に爪先を引っ込めかけ、それから素直に差し出した。裸足になってから土がついているのはわかっていたけれど、いざ誰かの前に出すとなると少し気恥ずかしかった。足の甲にも、指の間にも、薄く土埃が張りついていた。石段を上がる途中で切ったところがないか確かめるつもりなのか、少女は手拭いでそっと爪先を拭っていった。手拭いが触れるたび、まずかすかな冷たさがかすめ、そのあとを追うように指先の体温が伝わってきた。
月夜は少しだけ目を伏せた。ただ足を拭いてもらっているだけなのに、なぜか視線の置き場に困った。白く細い指が自分の足首を軽く支え、親指のあたりを見るために爪先を少し持ち上げられるたび、胸のあたりが妙にくすぐったくなった。今これを恥ずかしがるべきなのか、それとも安心すべきなのか少し考えたけれど、たぶんどちらもなのだと思った。
少女は傷を見つけられなかったのか、小さく息を吐いた。
「血は出てないね。」
「あんまり怪我してないんでしょうか……?」
「その程度なら、怪我したうちに入らないよ。」
返ってきた答えがあまりにも当然のようで、月夜は思わず目を瞬かせた。ぞんざいというわけではないのに、きっぱりしていた。でも、ただ嫌というわけでもなかった。
少女は手拭いを畳んで脇に置き、今度は月夜の膝下を見た。土のついたところだけを軽く払うように拭っていたが、ふと手を止めた。視線がワンピースの裾の端に少しだけ留まり、それからまた上がってきた。月夜は思わず裾をほんの少し引き下ろした。別に大した意味のない反応だったのに、少女の口元をかすかな笑みのようなものがよぎった。
「……なんですか……?」
「思ったよりちゃんとしてたから。」
きっと安心して言っているのだろうけれど、なぜだか「思ったより」の部分だけが少し引っかかった。
少女は箱を閉じて立ち上がった。
「お茶、持ってくる。飲めるよね?」
「はい。たぶん。」
「たぶん?」
「記憶があんまりなくて。熱いものは飲んだことがある気がするんですけど……猫舌だったかどうかは、ちょっと。」
言ってから、月夜は内心でしまったと思った。記憶がないことを、こんなに早く口にしてよかったのだろうかと。けれど少女は驚いた顔はしなかった。ただほんの少し視線を止め、それから頷いた。
「じゃあ、少し冷まして持ってくる。」
そう言って背を向けたその後ろ姿は、小さくてきちんとしていた。長く垂れた袖口が揺れるたび、手首がちらりと見えた。月夜はぼんやりとそれを見つめ、遅れて視線を逸らした。初めて会った女の人の手首なんて見ている自分が、少し情けなかった。でも仕方がなかった。さっきまで霧の中で自分の名前ひとつを手がかりに歩いていた身なのに、今は巫女服の袖のあいだから見える手首が白い、なんてことを考えているのだから。
部屋の中には、しばらく静けさが落ちた。そこでようやく、月夜はゆっくりと息を整えた。頭の中の空白は相変わらずだった。名前はわかった。月夜。それが自分なのだということも受け入れた。けれど、その先がなかった。その名を誰が呼んでくれたのか、どうしてここまで来ることになったのか、どうしてあの少女が自分の名前を聞いてあんな顔をしたのか。何もわからないのに、不思議と完全には怖くなかった。正確には、怖がる隙間より先に、疲れが押し寄せてきていた。
そのとき、外の廊下のほうから足音が聞こえた。ひとつではなく、ふたつだった。軽くて近い音がひとつ。それより少しゆっくりで、もっと静かな音がひとつ。月夜は戸のほうを振り向いた。さっきお茶を取りに行った少女のほかにも、誰かがいるということだった。戸の向こうで、人の声が低く交わされた。よく聞き取れなかったけれど、さっきの少女が短く何か説明しているようだった。そして少しして、聞いていたほうがごく低い声でひと言だけ返した。意味はわからなかったのに、その声だけは妙に耳に残った。
戸が開く直前、月夜は自分でも気づかないうちに膝の上の指をもぞもぞと動かしていた。この神社にはまだ、自分が会わなければならない人が残っているような気がした。
戸が開くと、最初に入ってきたのはお茶の匂いだった。淹れたての葉のほろ苦い香りが夕方の空気と混じって、部屋の中へと染み込んできた。そのあとから小麻里が盆を持って入ってきて、一歩遅れて、別の女の人が姿を見せた。初めて見た瞬間に月夜が思ったのは、お姉さんみたいだ、ということだった。背がすごく高いわけではない。表情も穏やかだった。それなのに部屋に入ってきた瞬間、空気が整うような感じがあった。もともとこの空間の中心がここにあったのだとでも言うような自然さ。月夜は理由もわからないまま、少しだけ背筋を伸ばした。
女の人は部屋の中をひと通り見回してから、少女に尋ねた。
「傷は?」
「ありません。土が少しついてただけです。」
「よかった。」
短いやり取りだった。けれど、よかったと口にしたあと、女の人はすぐには次の言葉を続けなかった。ほんの少し、息を整えるような間があった。少女が月夜の前に湯呑みを置いた。
「少し冷ましてある。」
「ありがとうございます……」
少女は向かいに座り、もうひとりの女の人は正面に座布団を整えて腰を下ろした。姿勢がきちんとしていた。指先ひとつ乱れていないのに、だからといって人の気配がないわけでもなかった。誰かの世話を長くしてきた人特有の癖のようなものが見えた。
正面の女の人が先に口を開いた。
「私は結。」
短く、整った自己紹介だった。
「それで、こっちが小麻里。」
小麻里は目を合わせたまま、ほんの少しだけ顎を上げた。挨拶の代わりらしかった。
「あなたは……」
言葉の終わりが短く途切れた。月夜は自分でも気づかないうちに思わず背筋を伸ばして答えた。
「月夜です……」
そう言った途端、小麻里の指先が湯呑みの縁に触れたまま止まった。結は一度目を伏せ、それからまた上げた。ふたりともすぐに元の顔へ戻ったけれど、月夜は確かにそれを見ていた。けれど、誰も説明はしなかった。結が尋ねた。
「お腹、空いてる?」
問いがあまりにも現実的で、月夜は一瞬きょとんとした。考えるより先に、答えはすぐ出た。空いていた。空気も雰囲気もおかまいなしに、お腹の中が空っぽな感じが押し寄せてきた。頭の中がどうであっても、お腹はお腹でちゃんと空くらしい。月夜が頷くと、小麻里の口元がほんの少しだけ上がった。
「やっぱり。」
「何がやっぱりなんですか。」
「お腹空いてない人の顔じゃなかったから。」
どんな顔なのかと聞きたかったけれど、やめておいた。土のついた裸足に、皺の寄ったワンピース、乱れた髪。誰が見ても、まともな現れ方じゃなかった。運命的な出会いというより、遭難者との遭遇に近かった。
結が静かに尋ねた。
「記憶があまりないって言ってたね?」
それを聞いて、月夜は湯呑みを両手で包んだ。
「はい。名前以外は、ほとんど。」
「ほとんど?」
「わかることもあるんですけど、それが自分のことじゃない気がするんです。知らない大人についていっちゃいけないとか、熱いお茶には気をつけるとか、そういうことはわかるんです。でも、自分がどこから来たのか、誰に会ったのか、何が好きだったのかは思い出せなくて。」
口にしてみると、おかしかった。人ひとりまるごと消えているのに、細かい生活の知識だけが残っているなんて。どうせなら家の住所でも覚えていればよかったのに、本当に必要なものだけがきれいに抜け落ちていた。小麻里が小さく笑いを噛み殺した。結のほうも、口元の力が少しだけほどけた。
「じゃあ少なくとも、お茶で舌を火傷する心配はなさそうだね。」
「それがよかったのかどうかは、わかりませんけど。」
月夜は湯呑みに口をつけた。熱くなかった。本当に冷ましてきてくれたらしい。茶葉の香りが口の中に淡く広がると、緊張が少しだけほどけた。
結が言った。
「今日はここで休んで。」
断る隙のあまりない言い方だった。
「もう日も落ちたし、その状態で下りるほうが危ないから。空いてる部屋もある。」
間違ってはいなかった。正確に言えば、月夜にはほかに選択肢がなかった。行く場所もなく、尋ねる相手もなく、自分がどこに住んでいたのかさえわからない。それでも月夜は、一拍遅れでも尋ねた。
「……本当に、いいんですか?」
結は少し考えるように目を伏せ、それからまた上げた。
「大丈夫。明日の様子を見て、話せることは少しずつ話そう。」
少しずつ。急がない、という意味なのだろうけれど、なぜかその反対の意味まで含んでいるように聞こえた。今はまだ、訊かない。まだ。
月夜は結局、頭を下げた。
「それじゃ……少し、お世話になります。」
言葉にしたのは結で、湯呑みを下げる支度をしたのは小麻里だった。役割がはっきり決まっているようでいて、どこか自然に分かれているようだった。
そのとき、外を風がかすめた。障子がかすかに震え、軒のどこかに吊るされた風鈴が小さく揺れた。その音を聞いた瞬間、月夜の指先もつられるように固まった。結と小麻里も同時に戸のほうを見た。今度は鈴の音は聞こえなかった。
先に立ち上がったのは小麻里だった。
「部屋、用意する。」
結も腰を上げながら、月夜を見た。
「歩ける?」
「はい。」
「じゃあ、ついてきて。」
月夜は空になった湯呑みを置き、座布団から立ち上がった。足に力を入れた瞬間、身体が少しだけぐらついたけれど、倒れるほどではなかった。小麻里はすぐに支えたりはせず、半歩前で歩幅を合わせてくれた。その距離感が不思議と心地よかった。戸が開き、廊下のひんやりした空気が足の甲を撫でた。月夜は敷居を跨ぐ直前、一度だけ後ろを振り返った。部屋の中は、ついさっきまで三人で飲んでいたお茶の熱のせいで、まだ少し温かかった。
そして月夜は思った。
今夜だけは、道に迷わない気がした。
その! 正直に言うと、二十歳までは毎年のように行ってはいたのですが……巫女のバイトをしていたとか、そういうことがあったわけでもなくて、ただお賽銭を投げに行っていただけなので、そこまで専門的な知識があるわけではないのです!




