メレーヌ様
そうして、黙々と全ての授業をこなす日々が続く中――。
「背筋は、そう。顎も上げ過ぎず、歩幅はそれでいいわ」
メレーヌ様の声に従い、礼法室内を往復する。
教育棟にある礼法室は王族が礼儀作法を身に付ける場として作られた部屋。そこは磨き上げられた木床に、立ち姿や歩き姿を確認するための鏡があり、壁際には背もたれのない長椅子が置かれ、式典で使われる小物を収めた棚もある。
「では、もう一度初めから。裾は乱さないように」
指示に合わせ、部屋の端から端へ歩いていく。足音は響かせず、ドレスの裾が揺れすぎないよう自然に手を添え、歩幅を保ったまま進む。
「そこで止まりなさい」
足を止め、頭から爪先までを意識しながら、上体を沈めてカーテシーを取る。これは女性が行う形式的な礼なので、身分に関わらず一定の場面で求められるもの。
「……そのままで」
椅子に腰かけ淡々と指示を出していたメレーヌ様は、ふと視線を落とし何か考える素振りを見せたあと、立ち上がり私の背後へ回った。
「驚くほど、滑らかね」
そう小さく呟いたメレーヌ様は、トン……と私の肩を軽く押した。
「崩れることもないわね。そうね、問題があるとすれば……筋力かしら」
「……っ」
制止されたままなので、負荷のかかる足が微かに震えている。
ただでさえ筋力がないというのに、カーテシーで使う筋肉は普段の生活ではほとんど動かさないところばかりで、姿勢を保つだけで足が震えてしまう。
頭では理解していても、こればかりは知識だけではどうにもならないのだと痛感する。
「では一度、休憩を挟みましょうか」
「はい」
メレーヌ様が軽く手を叩き、その音を合図にカーテシーを解く。
ふうっ……と息を吐き、音もなく優雅に歩くメレーヌ様の後に続き、礼法室の一角に置かれているテーブルセットへと移動する。そこでは食事の作法の練習が行われ、すでに合格をもらっていた。
「お茶を」
メレーヌ様がそう告げると、控えていた侍女が冷たい紅茶の入ったグラスを運んでくる。この世界では珍しい冷やした紅茶で、メレーヌ様の領地ではよく飲まれるものらしい。
グラスを持ち、冷たい紅茶をごくごくと飲んでいると、リオルガが「こちらもどうぞ」とリタが持たせてくれたおやつをテーブルに置く。
「立ち居振る舞いに、挨拶と言葉遣い、食事の作法、どれも問題はなくお教えすることがないほどです。王女殿下には驚かされることばかりだわ」
そう言いながらも全く驚いていなさそうな顔で言われ、それに対してお礼も謙遜も口にせずただ微笑んで返す。そうすると無表情だったメレーヌ様の口角が、ほんの少しだけ上がった。
(正解だったみたい)
マナーと礼儀作法の授業が本格的に始まると、ある程度のことは出来るとはいえ細かな修正が丁寧に加えられていった。
足を運ぶ速さや止まる位置のわずかなずれ、礼をするときの角度、上体を沈める深さや裾の扱いなど、細かく調整をしていく。
それと並行して、舞踏では基本のステップ、楽器は音の出し方から簡単な旋律を弾き、刺繍は宗教的な模様や図案を元に布に針を通す作業を繰り返す。
社交関連では、客人の迎え方、食事の席での距離感、侍女への指示の出し方や視線の使い方、そして食事の作法といったことを一通り学び、式典で着る衣装や小物などの扱いに対しての説明も受けた。
クリスとソレイルに追いつくため、それらをひとつずつ順にこなしていくと、次の段階へ進むにつれて内容は難しくなり、速度も一気に上げられていった。
そしてここ数日は、最終確認へと入っている。
「初めから多くのことが身に付いていて、拙いところは指摘すればすぐに改め、分からないことや難しいことがあっても、翌日にはきちんと形にしてくる。教えれば教えるほど成長していく子など、そう多くはいません。きっと、王女殿下のお祖母様とお母様が素晴らしい方だったのでしょうね」
「……ありがとうございます」
マナーや礼儀作法は一度目の人生で身に付けたもので、祖母と母が教えてくれたわけではない。それでもあの二人の下で育ったからこそ、メレーヌ様が褒めてくれた今の自分があるのだと思っている。
だからこそ、自分が褒められるより祖母と母が評価されたことの方が嬉しい。
「座学を受けもっているオーバンからも、王女殿下は非常に優秀だと聞いています。基礎はおろか、応用までこなし、第一王子殿下が修めたところまでもうすぐ届くとか」
「はい。お兄様達を見習い頑張っております」
「次期王候補を目指しているのですか?」
あまりにも真正面から踏み込んだ言葉に、思考が一瞬止まった。
「そのような顔をしなくても、ただ訊いただけです」
完全に不意を突かれ、取り繕う間もなく戸惑いが顔に出てしまったらしい。
王女が王位に就くことをよしとしていない人が、どんな意図があって訊いてきたのか。
ここ数週間で、メレーヌ様がどういう人なのかだいたい分かってきた。
一見冷たく見えるけれど、冷酷なわけではない。ときどき感情を表に出すこともあるし、思ったことはすぐに言葉にする。どこかイシュラ王に似ていて、とても不器用な人。
だから、この人がただ訊いただけだと言うのであれば、本当にそうなのだろう。
悪い人ではない――だからこそ、ずっと引っかかっていた疑問をそのまま口にした。
「どうして、王女殿下方に王位継承権を放棄させたのですか?」
メレーヌ様は一瞬だけ驚いたように目を見開き、数度瞬きしたあと苦笑を浮かべた。
「そのようなことを訊かれるとは思いませんでした」
「すみません。気になっていたことだったので」
「構いません」
そう口にしたあと、メレーヌ様は笑みを消しまっすぐ私を見据えた。
「子を産む女性に、国王は務まりません」
政治的な思惑や派閥の争い、貴族とのいざこざなど、そういった複雑な理由があってのことかもしれないと思っていたのだけれど――。
「子を産むから、ですか?」
「王の務めは一日たりとも途切れることが許されません。政務は長時間に及び、各地への視察、式典や外交行事は続き、何か起きれば即座に判断が求められます。それらは、想像している以上に心身を削るものです。跡継ぎとなる子を産めば、こうした務めから長く離れることになるでしょう。その間、国を伴侶に任せるわけにはいきません」
「どうしてですか?」
「国王が手を放せば、その隙に伴侶の実家や派閥の貴族達に実権を握られます。肩書きだけが王であっても、国を動かす力を奪われては意味がありません」
「国王には絶対的に忠誠を誓う矛と盾がいるのにですか?それらにはありとあらゆる権限が与えられていると聞きました」
「国王の矛と盾は、王の意思を実行するための者です。矛は騎士団を動かせても、国の行く末は決められません。盾は政務を進められても、最終決裁は下せません。どちらも王の代行者ではないのですから」
「王の代行者……」
「それが、次期王候補です」
だとしたら、次期王候補のいないこの国の王の代行者は王妃様ということになる。
「お飾りの国王であればまだしも、この国は絶対王政国家です。国王が全ての実権を持つ国で、女性がその座に就くのはとても難しいことだと、おわかりいただけましたか」
「それなら何故女王が認められているのですか?今までに、女性が国王になった例があるからでは?」
「認められてはいますが、王女が王子を差し置いて国王になった例はありません。貴族社会は男性が中心ですし、外交的にも女性は侮られます。そして、先ほどの理由です」
小さく息を吐き、ゆるく顔を左右に振ったメレーヌ様は、目を伏せ説明を続ける。
「跡継ぎが王女だけならまだしも、男児が生まれれば状況は変わります。どれほど優秀であっても、王子を差し置いて王女が国に立てば納得しない者が必ず現れるでしょう。絶対王政国家であっても、それは男性の上に立つのが男性だから成り立つものなのです」
だから王女殿下方に王位継承権を放棄させたと、そういうことなのだろう。
「私にも、継承権を放棄するべきだと、そう言いますか?」
そう尋ねると、メレーヌ様はくしゃりと顔を歪ませた。
「娘達は厳しい教育を受け、本人達が望んで次期王候補になるつもりでいました。期待も、覚悟もあったでしょう。それなのに王位継承権を放棄させられ、歩んできた道を突然閉ざされてしまったのです。きっと、私に裏切られたと思ったでしょう……王妃の座を譲り、王宮を去った私を許せなかったのでしょう。二人共他国へ嫁ぎ、式典にも来ず、手紙も返事もなく、交流を完全に断たれてしまいました」
悲しげな顔で微かに声を震わせているのは、後悔しているからなのだろうか。
「ですがもし同じ状況に戻ったとしても、私はきっと同じ選択をするでしょう。不幸になると分かっていて、大切な娘を国に差し出すことはできません」
これもまた、メレーヌ様なりの母としての想いなのだろう。
でも、それを本人達が望んでいなかったのだとしたら、その選択はメレーヌ様の想いを優先しただけになってしまう。
「私は王女殿下の親ではありません。お祖母様とお母様がどう考え、育てられたのかは、ご本人達にしか分からないことです。ですので、私が王女殿下に継承権について何かを言うことはないでしょう」
その言葉に対して、私はゆっくりと頷いた。




