マナーと礼儀作法
王族の朝はとても早い。
「おはようございます、リスティア様。さあ、起きられてください」
「……うあい」
「ではお支度を始めます。ジーナ、お湯と布をこちらに。イルダは衣装の用意を」
「ふぐっ……っ」
まず、日の出とともにリタが寝室へ訪れ、身支度の準備が始まる。優しく起こされ寝ぼけ眼で身体を起こすも、頭をぐらぐらさせながら再び眠りに落ちかけ、漏れた寝息に自分で驚いて目を覚ます。
温かい布で顔を拭われ、髪を丁寧に梳かれたあと、長い前髪はふんわりとまとめて結わわれる。
「また、増えた……」
そして、日ごとに増え続けていく衣装がずらりと並べられ、その中からひとつだけ選び着替えていく。
いつもは動きやすさ重視でワンピース型を選んでいるのだけれど、午後からメレーヌ様とのマナーと礼儀作法の授業があるので、ワンピース型は排除されドレスが用意されている。
「普段よりきちんとした装いでお臨みください」
マナーと礼儀作法の授業では、王族が公式の場に立つことを想定して行われる。立ち方、座り方、挨拶の角度、歩く際の重心など、ドレスの重みや裾の広がり方を前提として身に付けなくてはならず、正装に近い衣装が最もよいとされている。
「その、右から二番目のドレスは……なしで。その隣のドレスに」
端から端まで眺めたあと、右端にあった純白のふりふりふわふわドレスではなく、その隣にある紺のドレスを指差す。
「では、こちらを。装飾品は小振りな物で、ドレスに合わせた……ジーナ、他のドレスを片付けてきなさい」
「……はい」
名残惜し気に純白ドレスを見つめていたジーナは、ガクッと肩を落としてドレスを片しにいく。
どうしたのだろうとその背を見送っていると、「あれは陛下が選ばれたものなのですよ」とイルダが教えてくれた。
黒の目立つドレスの次は、純白のメルヘンドレスとは……。
イシュラ王とは壊滅的に趣味が合わないと、紺のドレスに袖を通しながら首を左右に振った。
朝食は部屋で摂り、デザートの果物を食べ終える頃にはリオルガが控えの間へ顔を出し、教育棟は統括宮殿の奥にあるので少し早めに部屋を出ている。
授業は毎日行われ、午前はオーバンによる座学、昼食を挟んで午後からはメレーヌ様からマナーと礼儀作法を学ぶ。そして週に一度、乗馬と剣術の基礎訓練が組まれている。
座学だけだったときは時間を細かく気にする必要はなかったのだが、もうそうはいかない。詳しい授業の割り当てをローガットから渡され、それをリオルガやリタ達と共有して日々の課程を進めていくことになった、のだけれど……。
『乗馬と剣術が週に一度だけというのは、いかがなものかと思うの』
王族としての教育が最優先なので、座学やマナーと礼儀作法の日数が多くなるのは当然のこと。
――でも。
『絶対に足りない。あともう少し……そう、週に四日……は、駄目ですよね。じゃあ、三日!それくらいは乗馬と剣術も入れないと』
体力も筋力も基礎もなく、週に一度だけでは絶対に足りないのだと訴えてみたものの――。
『リスティア様は、まだお身体が成長途中ですので、本格的な訓練は出来ません。まず馬に慣れたら基本姿勢と軽い歩行訓練を。剣術は基本動作のみとなります。ですので、そう焦る必要はありません』
同年代の子供よりまだ小さいので、まずはよく寝て、よく食べることだと、リオルガだけでなくリタからも身体への負荷が高い訓練は制限されてしまった。
なので、それならと苦肉の策で編み出したのが、王子宮殿の階段の上り下りだった。
これくらいなら問題はないはずと軽い運動のつもりで始めたそれは、思いのほか過酷で……。生まれたての小鹿のような足で、手摺に掴まり階段を上っている姿をクリスやソレイルに見られ、何か言われることなく視線を逸らされるということが度々あった。
それがどんな嫌味より堪えたのは、秘密である。
「それでは、いってきま……す?」
午前中のオーバンとの授業を終え、いつものように他愛のない話をしながら昼食を一緒に摂ったあと、午後のメレーヌ様との初授業へ向かおうとする私を、オーバンと愛弟子達はまるで死地に送り出すかのような面持ちで深く頷き送り出す。
「え、あの……」
どうしてそんな顔を……?と尋ねる前にそっと扉が閉められ、唖然としながらリオルガと顔を見合わせた。
「何だかとてつもなく嫌な予感がする」
取り敢えず礼法室へと向かい、扉の前に立ち一度深呼吸をする。
何もないはずだと己に言い聞かせ、いざ!と扉をノックし、そっと中へ入った先には――。
「遅かったね、リスティア」
礼法室の奥にあるテーブルセットにはメレーヌ様と、そして目の錯覚でなければクリスとソレイルの姿もある。
二人とはこれまで一度も授業が重なったことはなく、ローガットからも何の知らせも受けていない。そっとリオルガを窺えば、彼も知らなかったらしく隅に控えているノクトへすぐさま確認に動く。それを横目に私は急いで部屋の奥へと進み、メレーヌ様に頭を下げた。
「遅れて申し訳ありません。本日はよろしくお願いいたします、メレーヌ様」
「遅れてはいませんので、謝罪する必要はありません」
「それならよかったです。ごきげんよう、クリスお兄様。それとソレイルお兄様」
「ごきげんよう、リスティア」
「……ごきげんよう」
ふわりと微笑むクリスと、それとは対照的にむすっとした顔で挨拶を返すソレイル。
午後の授業にこの二人が揃って現れることを、彼等の授業を担当している愛弟子達も、それらを統括しているオーバンも、あらかじめ知っていたのだろう。だからあのような面持ちだったのではと、口元を引きつらせる。
「ごめんね、どうやら勘違いさせてしまったみたいだ。私達が早く着いただけなので、気にしないようにね」
(わざと勘違いさせるような言い方をしたくせに)
愉快そうに笑うクリスを見て、本当に性格が悪い……とうんざりしながら、「お兄様方も授業ですか?」と敢えてソレイルに尋ねてみると。
「手本」
答えにならない答えが返ってきた。
「手本、ですか?」
「……ん」
それは何かと尋ねたのに、ふいっとそっぽを向かれ会話を強制的に終えられてしまう。
手本というのが私の知る手本の意味で言っているのだとしたら、それは間違いだと教えてあげたい。誰よりもマナーと礼儀作法が必要なのは、ソレイルなのだから。
そんなことを考えながら小首を傾げていると、メレーヌ様が代わりに言葉を引き継いでくれた。
「王子殿下方には、王女殿下のお手本としてご同席いただきました。私も手本をお見せしますが、初めて学ばれる方には少し分かりづらいところがございます。こうしたものは、幼い頃から周囲の所作を見て育つことで、自然と土台が身につくものです。その土台がないまま学び始められる場合、いきなり細かな動きを真似ることは難しく、負担が大きくなってしまいます。その点、王女殿下と身体つきが近い王子殿下方のお手本であれば、動きを理解し再現しやすいかと」
ああ、それで……と頷く。
「私も一度見直すべきだと思っていたので、こうして授業を受けられて光栄です。ソレイルも、メレーヌ様に教わると聞いて楽しみにしていたのですよ」
「あ、はい、そうです!」
「それは何よりです。とはいえ、お二人に改めてお教えすることはほとんどないと思いますが、今日の時間が少しでも有意義なものになれば嬉しく思います」
「妹のためでもありますから……ね、リスティア」
軽く肩を竦めて笑うクリスに、「ありがとうございます」と微笑む。
表向きは優しい兄そのものだが、裏では半分血が繋がっている妹に平然と毒を吐く政敵。メレーヌ様に頼まれたのもそうだけれど、きっと何か思惑があってこの場にいるに違いない。
「それでは本日は、日々の場で求められる作法から始めましょう」
イシュラ王と同じく無表情が常のメレーヌ様が微かに口角を上げ、椅子から静かに立ち上がると部屋の中央へ歩み出す。
「表情も所作の一部です。挨拶の際には相手への敬意を示す程度の微笑みを添えます。ただ形だけを真似ても意味がありません。理由と流れを理解したあと、何度も繰り返すことが大切です」
背筋はまっすぐに伸び、肩の力はほどよく抜け、顎はわずかに引かれている。その立ち姿は晩餐のとき以上に美しく見えた。




