狂気
後宮の静けさは心が静まり、心地良さまで感じていたというのに、今はそれがとても重く暗い。
室内には高価な家具や珍しい調度品が並び、他国から取り寄せた絵画、宝石、装飾品が置かれ、どれも値段を聞けば貴族ですら青ざめるような品ばかり。それら全てが王妃という地位の象徴であり、虚しい日々を慰めるための娯楽でもあった。
「まるで、牢獄ね」
けれど今は、室内にあるものがゴミにしか見えず、心が動かない。
鈍く光る破片の上に片足を下し、靴底の下で砕け、乾いた音が静かな部屋に響く。
メレーヌが王宮に戻ったことで謹慎は解かれたが、権限は取り上げられたまま。それは王妃として生きてきたルイーダにとって、耐え難い屈辱だった。
「私は、王妃よ……」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ自分の胸の奥にある怒りと屈辱を押し出しただけ。
王妃となり全てを手に入れたはずだったのに、今は何もない。
それでも、まだ希望はあった。
「クリスかソレイル、どちらかが次期王候補となれば」
窓際に立ち、夜の王子宮殿を見ながら低く呟く。
「平民の子供が」
オーバンとメレーヌがリスティアを教育するという事実は、ルイーダにとって受け入れがたい現実だった。自分の息子達が築いてきたものを、あの女の娘が奪おうとしているのだから。
けれど、ルイーダにはひとつだけ安心できる材料があった。
「あの子達に敵うわけがないのよ」
クリスの侍従であるノクトからの報告。
王子宮殿でクリスの身の回りを管理し、ルイーダが求めれば素直に情報を渡す立場の男。クリスに絶対的な忠誠を誓い、裏切ることなど決してない。
だからこそ、ルイーダはノクトの言葉を疑わなかった。
ノクトが伝えてきた内容はいつも同じ。
王族教育の基礎が中々進まず、理解も浅い。語学も拙く、覚えが悪いと。
ひと月、ふた月と経っても報告は変わらず、未熟な子が教育を受けたところで息子達の敵にはならないと、そう思っていた。
国王の矛であるクラウディスタは押さえられたが、まだ盾であるゴルジが残っている。あれがそう簡単に陥落するはずもなく、リスティアがどれだけ国王から寵愛されようと、次期王候補など夢を見ているだけだと、嘲笑っていた。
リスティアが分不相応にも抱く夢は、決して叶うことはないのだと。
それを分からせるために開いた、王子宮殿での大規模なお茶会。
ルイーダが権限を取り上げられる前から進めていたもので、侍女達への指示、貴族達への根回し、そして王子宮殿という会場の準備まで終えていた。謹慎となっても既に動かしていたものは止まらず、国王が苦言を呈したところで強行するだけ。
招待客も、いつもの高位貴族だけではない。第一王子が運営する社交クラブの者達に加え、王都に滞在できるほどの財力を持つ下級貴族も招いた。噂に敏感で、王妃派の影響を受けやすく、権力に弱い者達。それらと教育し直したメリアを使えば、リスティアなどどうとでもできる。
それは、ルイーダの予想に反してとても上手くいった。
下級貴族の子供達が王子宮殿内に入り込み、リスティアを見て騒ぎ立てた。王女だと明かすことのできないリスティアを身分不明の不審者として扱い、王妃と王子が庇護するメリアが怯える姿を見せたことで、リスティアを良からぬ存在として認識させた。
まだ王女として公表されていないリスティアは、限られた者達にしかその存在を知られていない。だからこそ、今のうちに王子宮殿で高圧的に振る舞っていたという噂を、嘘も交え誇張して広めておけば、正式に王女として公表されたときに、皆が抱く新たに現れた王女の印象を崩すことができる。
身分を伏せた状態で悪評を流す方が、王女として名を明かしたあとに流すよりもずっと効果が大きい。正体が分からないからこそ、噂は尾ひれをつけてどこまでも広まっていく。
それを、メリアが裏で誘導した。
どうあがいても勝てるわけがないのだと、思い知らせるつもりだった。
――けれど、昨夜。
『ジル・ゴルジ卿が、忠誠を誓われたそうです』
侍女が震える声で告げた。
『……何を、言っているの?』
どんな戯言だと、ルイーダは乾いた笑いを零した。
あのジル・ゴルジが忠誠を誓う?あり得ない。どれほど優秀だとしても、クリスを一顧だにせず、オルダーニの圧力にも屈しなかった男が、未熟な子供に忠誠など誓うはずがない。
だが、侍女は震えながら続けた。
『第一王子殿下の侍従であるノクトから、そのように報告を受けました』
『……嘘よ』
『オルダーニ侯爵様からも、貴族会議が開かれると……そう』
『嘘よ!』
矛と盾。次期王候補の選定権を握る二人が、リスティア側についた。
『そんなこと……あり得ないわ。そうよ、これは嘘に決まっているわ!』
――ガシャン。
手にしていたグラスを壁に叩きつけると、粉々に砕け散った。赤いワインが壁と絨毯に広がり、まるで血のような染みを作っていく。
『どうして……どうしてよ……っ』
ルイーダの震える声が室内に響き、その声は次第に大きくなり、怒りと焦りが混ざった叫びに変わる。手当たり次第に物を掴み、壁や床へ叩きつけていく。陶器が砕け、ガラスが割れ、絵画に傷が入り、王妃としての地位の象徴であったものが見るも無残な姿に変わった。
『許さない、許さないわ……』
まるで怨嗟のように同じ言葉を繰り返しながら、ルイーダは床に膝から崩れ、泣き叫んだ。
「クリスもソレイルも、何をしていたのかしらね」
王子宮殿をジッと見つめていた瞳には、先ほどまであった怒りも焦燥もなく、ただ深い闇だけが残っている。
「消さないと」
「王妃殿下」
「あれを、消さないと……」
「あの子供はまだ次期王候補に指名されたわけではありません。まだ他に何か手があるかもしれません」
侍女がそう口にすると、ルイーダは肩を震わせ声を上げて笑った。
「矛と盾を揃えた今、あれより次期王候補に近い者などいないわ」
「王女を王宮へ連れて来たのはクラウディスタ卿ですし、ゴルジ卿も国王陛下の側近です。王女に付いたのは仕方のないことで」
「仕方のないことですって……?私の息子が何も出来なかったことを、仕方のないことだと?」
ゆっくりと振り返った王妃に、侍女は慌てて膝を折り、深く頭を下げ「すみません」と謝罪した。
「役立たずが」
それは侍女ではなく、息子達へ向けられた言葉だった。
「あれを消す方法を考えなくてはね……」
ソファーへ倒れ込むように座ったルイーダは、天井を見上げながらふっと笑みを零した。
「そうね、まずは貴族会議だわ。止めることは出来なくても、やりようはあるわ」
ルイーダは足元にある割れたグラスの破片を爪先で転がしながら、「それと」と楽しそうに言葉を続ける。
「王家が主催する狩猟会があったわね……それも利用できるわ」
「ルイーダ様、まさか……」
「罠を仕掛けるのよ」
獲物は、ジュリアマリアの子。
「あれを消す機会としては最適だわ」
ルイーダの狂気は再び動き始め、その矛先は、リスティアへと向けられていた。




