3-2
2
さて、ここでアンケートだ。
一般的に『壁ドン』という言葉から連想されるのはどんな行為だろう。
字面から言えば『壁』を『ドン』するということだ。この場合『ドン』はたとえば一族郎党の首魁であったりだとかストローハットを被った海賊団の団長であったりだとかではなく、壁を叩く音の方である。しかもコツコツとかトントンではなくドンである。多分グーだ。しかも近位指節間関節(っていうらしい。指の真ん中の関節)ではなく中手指節関節部分で殴っている。ちなみに似たような言葉に『壁バン』があるが、これは壁をバンすることの略だったり壁バウンドの略だったりする。
その『壁ドン』、しばしば少女漫画でかっこいい男子が意中の女子に命令を聴かせるためにする行為なのだけれど、ぶっちゃけた話よほど男子がイケメンであるかよほど女子がアレであるかその両方でない限り、そんなのはあんまりドキドキしないと思うのだ。
が。
「……」
今この時まさにそのシチュエーションでドキドキしている僕がいた。
ただし。
される側で。
恐怖と緊張で。
クラスメイトの月山さん――揺唄の友人で、節菜さんを野球部の先輩として以上に信奉している、ちょっとだけヤンデレ入った女の子に。
「……」
「……」
じっとりと、座った目で睨み上げてくる。あの、ツキヤマ=サン、怖いですよ。どことなく恐ろしげなアトモスフィアですよ。僕はカナシバリ・ジツにかかったように、その瞳から目を離すことが出来なかった。
「巴さんと今朝一緒に登校してたっていうのは本当? ひなりから聞いたの」
ストレートすぎる。球児の真っ直ぐよりストレートすぎる。ポップして腹を抉ってくる声音だ。どう答えたら事態が好転するのか、バントかヒッティングかエンドランか、今の僕にはそれを考える余裕なんてなかった。
「本当だよ」打ち返した。
「どうして?」
「どうしてって……」勉強会だったから? この場合、その答えも危ういように思える。後腐れなく節菜さんたちにも迷惑のかからない返答。何か、思い……思い……つかない。「その、ええと……相談事が、あったんだ」
「……どんな?」
「共通の知り合いについて」
「……そう」じっとりとした視線はそのままに、月山さんは腕を下ろした。引き下がってくれたようだった。「邪魔して悪かったね」興味を失ったようにぷいっと振り向いて、教室の中へ戻っていく。
助かった……。ほっとして教室へ入る僕の耳元に飛び込んでくるのは教室の喧騒と友人たちの野次馬な言葉――「なんだ、痴話喧嘩か」「修羅場? 修羅場?」「明馬君もとうとう刺されちゃうのかー」「いい気味じゃねぇ?」「面白そうだな」「おつかれさん」――だった。
女子連中は女子連中で月山さんを中心としたグループで何かこちらをちらちら窺いながらひそひそしてるし。揺唄と目が合った瞬間視線逸らされるし。
僕、なんか悪いことしたかな……。
消沈しながら自分の席へ着くと、前の席で読書をしていた片三つ編みが揺れた。白岡凛理女史だった。
「今日のあなたの運勢は」
「エラリィ・クイーン……」
Yの悲劇。
お弁当が作れなかったので、昼食は購買で済ますことにした。普段体験しない購買戦争に見事に敗北した僕は不人気度ナンバーワンの手捏ね風百味パンを片手にがっくりと肩を落として教室へ。
「ハルちゃん」
戻る途中で、横から声がかかった。
揺唄だ。
「ちょっと話さない? 分けたげる」
揺唄がぴらぴらと見せびらかすそれは……一番人気と二番人気の、本格焼きそばパンとミラノ風ゲルマンスペシャルパン!
くっ、しかしなんか菓子パンごときに釣られるのも負けた気がするぞ!
「変な意地張らないで来なよ。お金取ったりしないからさ」
「それは前フリか?」
「ちーがーう! いい加減にしてよ、もう!」
「分かったよ、からかって悪かった」
憤りを吐息として処理する揺唄の後ろについていく。特別教室棟の廊下は、ワックスがきちんとかかっていないのか、内履きで歩くたびにギュ、ギュ、と悲鳴みたいな声を上げていた。かなり耳障りだった。
棟に渡った廊下から少し入ったところにある空き教室まで案内されて、招き入れられた。立地の関係か建材の関係か、涼しい風が吹き込む部屋だ。
「適当に座って」
……って、おい揺唄、なんでロッカーからクッションやら煎餅やら水筒やら出てくるんだよ。そんなの持ち込んでいいのか。
「見つからなきゃ大丈夫よ。あたしの専用じゃなくて、結構何人かで使ったりするんだよ。みんなで物を持ち寄ってね。ほら、この時計とか可愛いでしょ。三行ちゃんがゲーセンのプライズで取ってきたんだって」
完全に私物化していた。
ま、僕が怒る道理もない。無造作に置かれた日曜日の朝にやってるアニメキャラが描かれているクッションに、一礼して腰を下ろした。アニメキャラとはいえ人の顔に尻を乗せるのは、なんかこう、落ち着かない。
「はい。……あ、その手だと開けづらいでしょ。開けてあげる」
「ん? ん、あぁ、ありがと」
手の包帯はやや厚めに巻かれていて、傍目には動かしづらそうに見えるんだろう。志術を編み込んだ特別製のものだから、三日ほどすれば完治するだろう、と三姫さんは言っていた。
「あ~んする?」
聞いてくる揺唄に「そこまで重傷じゃねえよ」と言い返すと、肩を竦めて返された。冗談だったらしい。
包装されていたラップの上から焼きそばパンとミラノ風ゲルマンスペシャルパン、両方をほぼ半分こしたものを渡される。
揺唄は僕の隣に、パンダのクッションを広げて腰を下ろす。両足をWに広げた、いわゆる女の子座り。膝が浮いてるから三角座りを崩したようにも見える。スカートの裾が際どい。
「どこ見てるのよ、ハルちゃん」
「あ、いや、ごめ……」
「なぁにぃ? 動揺してるの? もしかして本当に見てた?」にしししと笑う。「まぁ、見られて減るものでもないよね。わざと見せるつもりはないけど」
「秘してこそ価値が出るものもあるからな」
「さっすが。よく分かってる」揺唄がもぐもぐと焼きそばパンを頬張る様はなんだか栗鼠とかそっち系の小動物みたいに見える。体格も小さいし各パーツも小ぢんまりとまとまっているからだろうか。ただ一点だけの例外を除いて。
「ハルちゃん、ハルちゃんってば。今度は胸なの?」
「あ、いや、ごめ」
「今度のはほんとにガン見してたなぁ。や~らし~」
わざとらしく両腕で胸を押さえて見せる揺唄。しかしその抱えるような動作は逆に形が変わる様をまざまざと見せつけていることになっているのを、はたしてこいつは自覚しているのかしていないのか。
「そんなのじゃねえよ、いやまじでない。絶対ないね」
「ほんとに? ほんとにない? 絶対」
「絶対だね。どのくらい絶対かというとそうだな、ドリンクバーの最後が必ずくそまずいミックスジュースになるくらい絶対かな」
「あーわかるわかる。もったいないよねー」
視線を逸らしてミラノ風ゲルマンスペシャルパンに口をつける。ウィンナーとチーズの脂っこさが腹に来る。これが若さのなせる業だ。
「はい、飲み物」と渡されたのは、ピンク色の水筒から注がれた琥珀色の液体だった。礼を言って飲んでみると、よく冷えた麦茶だった。こんなものも備えてるのか、この部屋。「そのパン、飲み物欲しくなるよね。美味しいしボリュームあるけど、ちょっと重い」
「たひかにほうらな」咀嚼しながら頷く。
「ハルちゃんは、さっぱりしたのとこってりしたの、どっちが好き?」
「うーん」飲み込んで。「どっちかというとさっぱりした方かな。後を引かない味って意味なら、そうだ。こってりしたのは後味が他の料理と混ざったりするし」
「へぇ、そうなんだ……。じゃあ、スレンダーな方が好き?」
「じゃあってなんだ、じゃあって。それは、えーと、女性の好みってことでいいのか?」
スレンダー。つまり身体が細くて、或いは背が高くて。さっぱりはっきりしているような。
「たとえば――節菜さん、とか」
「――」銀光に照らされた頬と太股が、脳裏をよぎる。「それは、ないかな」残像を振り払って、否定する。
「そっか……、ん、変なこと聞いて、ごめん」
「動機は想像ついてるよ。今朝のことだろ」
「……うん、実はそうなんだけどさ」
手の中のコップに視線を落としたまま、揺唄は頷いた。
「そんなに気になるのか?」
「ん……」
煮え切らない返事はしかし、揺唄の本音を顕著に表していた。気にならないなら気にならないと、否定するはずだから。
「事実関係としちゃ、ええと、ひなりさん、だったか、の言うとおりだよ。今朝は節菜さんと三姫さんと登校した」
「でも、ハルちゃんの家、その二人と全然別方向だよね」
「用事があってな。早朝にお邪魔したんだ」
「用事……ね」
「ほら、かづみちゃんの関係で、少し二人と相談があって」
「かづみちゃん、あれからどうしたの?」
一応、嘘はついていない。僕は情報を整理する。全てを話すのはまずい。揺唄は記憶を封印されているはずだ。僕の――『明馬春詠の胸の傷』に関する記憶のすべてを、三姫さんの志術によって。その施術には僕も同席していたし、そのせいでひどい目に遭ったこともある。思い出したくは、なかったけど。
「もう帰ったよ。言わなかったっけか」
「えー、聞いてないよ!」
「お兄さんも嬉しがってた」そうであって欲しいと、僕は願望を口にせざるを得なかった。
「お兄さん?」
「うん、かづみちゃんのお兄さん。自宅を離れてたらしくて……しばらく会ってなかったんだとさ。かづみちゃん、相当なお兄さんっ子だったんだぜ」
「ほぇー。あーあ、もっと可愛がってあげたかったな。妹ができたみたいで嬉しかったのに」
「まぁ、お前も妹だしな……」
「……ねぇハルちゃん」
「僕は妹じゃないぞ。兄も姉もいない」
「じゃあ女の子になろう」
「目を輝かすな」
「TSでいいよ」
「Fを忘れてるぞ」
「フィーメールのFだよね?」
「フィクションのFだ!」
「じゃあ百歩譲って男の娘で」
「女装もしねえ!」
「Pは残るから大丈夫だよ?」
「いやらしいなおい!」
「というわけで、だ・め?」
「可愛く頼まれてもだめなものはだめだ」
「えー。素材はいいのになー」
「嬉しかねーよ……」
どこの世界に女の子っぽいって言われて喜ぶ男の子がいるんだ。
いるかもしれないけど。
「ところで、連絡先は? 聞いたの?」
「……いや、聞かなかった」かづみちゃんの、か。
「もったいないなぁ」
「流石に、なんというか、犯罪だろ」
「江戸紫という有名な例もございますよ、旦那」
「飯でも食うのかよ」
「若紫だった」
「そんなイケメンじゃないし、僕はロリコンじゃない」
「そこ否定したら、もっと酷いところが残るよ……?」
「……」
マザコンだった。
しかも重度の。
「まぁその、なんだ。そういうわけだから。あんまり心配しなくていいと思うぞ」
「うん……やっぱり家出するって、いろいろ事情があるだろうしね。解決したなら良かったと思うよ」
「揺唄は、一度やったんだっけ」
「うん……まぁ、うん」
「どんな気分だったんだ?」
揺唄は力なく笑って、「それを聞くかなぁ」とか呆れた声を出していたけれど、それでも思い出してしまったらしく、宙を見て眉を寄せた。「うん、寂しかったよ。腹が立って、ムカついて、頭がカッカしてて……でも、寂しかったっていうのが一番かな。自分が消え入りそうだった。あんなに心細い気持ちは、生まれて初めてだった気がするなぁ。カゴねぇとは仲良かったから……今もいいけどさ、数日口利かなかったんだけどね、あのあと」てへへ、と舌を出して見せる。「まーほかにも、自由ってこういうことなのかなーとか、やってやったぜざまあみろとかもあったけどね」
「……そんなもんかな」
「そんなもんだよ、家出なんて。あたしの家は、別になーんも問題無かったしね」幸いなことに、と付け足してから、「あ、ごめん……」と顔を伏せる。
「そんな気ィ回すなよ。僕もあんまり気にしてないし。むしろ謝られるとこっちが困る」そういう気不味さの種になりそうな部分をストレートに謝れるところは、揺唄の美点だとも思うけれど。
「そっか……ごめ……あーっと、うん、わかった」
「それでいい」
母と息子の二人暮らし。
如何な理由があるにせよ、世間はまだまだまだ受け入れないことも多い。
「で、」
「うん?」
「結局揺唄からの話ってのは、さっきのでいいのか? 今朝節菜さんたちと、っていう」
「あ、うん……それで充分かな。ごめんね、変なこと聞いて」
「いいよ。パンももらったし。揺唄にだけははっきりさせておきたかったし」その言葉は、自分で思っていたよりさらりと出た。悩んでいる姿を見たくなかったからか、はたまたこれから告げることの罪滅ぼしか。
「それと、僕からも、一つ。いいか?」そして僕は。
「なぁに?」
「こないだ約束した、パスタ食べに行くって話だけどさ」
「明後日だったよね。どのメニューにしようか悩んでたんだけど、全然決まらなくて困っちゃって困っちゃって――」
「あれ、悪いけどキャンセルにしてくれないかな」
ぴたりと、揺唄が停止する。「都合悪くなった? 延期?」
「いや、中止」
「そっか。ちょっと残念かな。次いつにしよっか」
「次も、しばらくナシでいいか?」
「……どういうこと?」
顔を向けてきた揺唄と視線がかちあう。
丸い瞳に胸が締め付けられる。
「ん、と。しばらく時間取れそうにないのと……財布の問題だ」
用意していた言い訳をそのまま流す。平静は保てた、と、思う。
「……そう、なら、仕方ない、ね。うん」視線が泳いで、まるで錘がついたかのように、リノリウムへと落ちる。目の前で携帯電話のスケジュール帳を操作するような根性は、僕にも揺唄にもなかった。
「悪いな、反故にしちゃって。パンと麦茶、ご馳走様」
「ううん、いいよ。お粗末さまでした」
それっきり、僕も揺唄も何も言わなかった。唾を飲むのさえ躊躇われる、痛い沈黙の中で、呼吸の音さえ殺していた。続けるべき言葉はなにもなかった。僕は口を開けば謝罪の言葉しか出てこないと思ったし、揺唄はこれ以上聞いても何も得られないと思ったのだろう。
「……先、教室帰ってるね」
「ああ……うん」
「悪いけど、クッションは適当に片しといて。今日はあたし貸切って頼んであるから、ゆっくりしてていいよ」
「うん」
揺唄は早足に空き教室を後にした。
やっぱ……まずかったかなぁ。
誰も来そうな気配がないのをいいことに、僕は長くしかれた茣蓙の上に寝転ぶ。ドアの前に頭が来る形になるため、誰かが来れば蹴っ飛ばされかねない位置だったが、まぁその前に廊下が鳴る音で気付くだろう。
『人の多い場所では、比較的危険は少ないでしょうね』節菜さんはそう言っていたけれど、更に続けてこう言った。『ただし、絶対安全である保障はない。傷つけたくない人がいるなら、少しでも遠ざけておきなさい。少なくとも公がいなくなるまでは』それがいつになるかまでは、誰にも分からなかった。
だから僕は、今一番傷ついて欲しくない人を、遠ざけた。結果として約束をやぶることになったのは胸が痛いけれど、それでも、何も知らないはずの揺唄が巻き込まれるよりは良いはずだ。事情を話したら、揺唄はどんな顔をするだろうか。理解してくれるだろうか。理解できないだろうか。よく分からないけど分かった、と変な答えを返してくるだろうか。でも、言えば揺唄が再び巻き込まれることになる。そんなのは、僕が、御免被る。だから、言えない。言わないと、決めたのだ。
でも、それは僕のエゴ、いいかっこしたいだけの行為に過ぎなないのもまた事実だった。
「ま、あっちを立ててこっちも立てられれば、誰も苦労しねえよなぁ」分かってはいるけれど、ため息をつきたくなる。僕の能力じゃ――僕程度の強さじゃ、誰かを守りながら戦うなんてことは出来っこない芸当だ。それこそ節菜さんくらいなら違うのかもしれないけれど。……でもあの人の性質もかなり攻撃ガン振りだった気がするぞ。三姫さんのほうが防御力高そうだ。
ああ、早いとこ終わらせて、また揺唄とどこか行きたい。試験が終われば夏休みだし。
「うー……」
少し眠かった。昨晩変な体勢で変な寝方をしたからだろう。人が来ないなら、少し寝るのも手だろうか。
窓から差し込む日光を避けてドア側へ寝返りを打ちかけたその瞬間、それは訪れた。
「いたのね、春詠」
がら。
ドアが開く。
その声はとても聞き覚えのある、気怠げな声で。
「……」
「……」
「ど、どうも、節菜さん」
「そこでなにしているの?」
「はっ。あ、いや、あの」
夏用スカートの生地を裏から見ると透けるということを、僕は初めて知った。ぎりぎり、見えない、けれど。間近に見るすらりと伸びた長い脚は、普段以上に惚れ惚れする美しいライン。プリーツがほっそりしたふとももの中ほどで踊り、ギリギリのラインをむしろ強調していた。
「……へ~ぇ。面黒いじゃない春詠。この私相手に喧嘩を売る気。この私相手に下着を覗く気。私相手に、この・私・相手に・狼・藉・を・はた・らく・気」
「ぶへっ、うあっ、ちょっ、いた、痛いです戸波さんっ! 踏まな、へぶぅ」
「うるさいわね、この下衆豚。痴漢。覗き魔。変質者。変態性欲者」
「のぞっ、ぐへっ、覗いてませんってば! ほんとに! ほんとです!」
実を言えば見えたと言えばむしろ足蹴にされながら翻るスカートのせいで中身が見えてしまっているのだが、そんなことを言ったら本当に斬り捨て御免されそうなので言わないでおいた。しかも節菜さんの足は結構いい匂いがした。だがそんなことを言ったらやっぱり斬り捨て御免されそうなので言わないでおいた。さっぱりとした凛々しいローライズだった。
ガードし続けていたら、突如首筋に悪寒が走った。「――っつ!」反射的に床を叩いて転がって退避する。目を上げると、一瞬前まで自分が寝転がっていた位置に節菜さんのかんざしが刺さっていた。
おっかねえ。
「勘は鈍ってないようね」飽きたのか、節菜さんはつかつかと歩いて、ひゅんひゅんひゅん、と髪をまとめながら窓際のロッカーの上へ腰掛けた。
「ええ……お陰様で」それを横目に確認してから体を起こす。相変わらず歩く殺気発生装置みたいなひとだった。
「ここへ来る途中で揺唄を見かけたわ」
「あぁ、会いましたか」
「一方的にね」顔を会わせたくない、と言外に言っているようだ。
「どうでした?」
「どうって、どういうことよ」
いじわるな質問だ。
「つまり、その、落ち込んでたとか、怒ってたとか、そういう」
「さぁ。両方ハズレだと思うけど」
「そうですか……」どうにも煮え切らない、いつもの節菜さんらしくない返事だった。「ところで、節菜さんはどうしてこちらに? 貸切だって、揺唄から聞いてたんですけど。節菜さんもここ使ってるんですか?」
「私は使ってないわよ。他の部員は少し」女子野球部繋がりらしかった。「五付妹が使うって聞いたから、あんた以外の理由はありえないと思って来てみたけど、当たりだったわね」
「そうですね……当たりです。そういえばこの廊下、すっごいうるさかったと思うんですけど」
「この程度の足音くらい消せるわよ」
「さいですか」
ですよねー。
「特に重要な話じゃないのだけど」そう前置きして一旦切ってから、節菜さんは少し考えるようにしながら続ける。「近いうち、時戸公に対して――こちらから打って出るかもしれないわ」
「隠れ家とか、見つかったんですか?」
「まだよ。可能性の話。或いは、囮、とか、罠」
「……なるほど」
「相手は準備万端整えてくるでしょうけれどね。……幸い、一枚岩じゃないらしいし」
「一枚岩どころかバージェス頁岩みたいになってますよね、あれ。公さんの話を聞くに」
「正直、思った以上にバラバラだったわね。だからこそ、三姫さんと相談して、私たちで反攻に出た場合の勝機も考慮してみたのよ」
結果として、勝機は皆無ではなかったということか。
「とりあえずそういうわけよ。気を引き締めておきなさい。志術に必要な道具は常に持っておくように。って言っても、あんたはそんなの持ってなかったわね」
「ええ。僕の場合はこれ一本です」左手の拳を握って軽く掲げてみせる。「そういえば、三姫さんは札とか色々アイテム使ってますよね。節菜さんはかんざしと……刀でしたっけ」
「紅雛汲簪朝桜と、小太刀よ。それと浮姫」
日本の治安は良いと聞くが、現代社会で一人の女子高生が――ひとつは日用品とはいえ――殺傷武器複数本を秘密裏に所持できている日本が怖かった。
「これ、あげる」節菜さんはポケットから丸い球を出して、ぽんと放ってきた。おでこを射抜くように飛んできた球をキャッチする。金属のような光沢があるのにさほど重くない、まんまるな球。手の中に握りこんで人を殴るには手頃な感じだ。僕はそんなことしないけど。
「なんです、これ?」
「アイテムよ。武月志術を補助する」
「はぁ……まぁ、ありがとうございます」目の高さまで持って行ってみると、吸い込まれそうになる錯覚に囚われた。徐々に巨大になっていくような、或いはどんどん迫ってくるような。ポケットに入れると少し目立つ。とはいえ入らないほどではない。「どうやって使うんです?」
「握って殴る」
握って殴るらしかった。
「シンプルでいいでしょう? どうせ他のことなんてできないんだから」
「そりゃそうですけどね」
あんまりにもシンプルすぎないかなぁ、それ。
といって、今の僕の技量では、志術を利用するにはそのシンプルな動作が精一杯だった。生身の身体に付与して運動エネルギーを加算する、それだけ。もっともっと熟練すると人間を遠隔操作したり、宙に浮いたり、逆に降りたりできるらしいけど、それは僕が主人公補正に目覚めてラスボス前に覚醒イベントが挟まれるとかがなければ絶対に無理だろう。節菜さんやら三姫さんやらの長年の努力を全部すっ飛ばすほどの飛び級だから。
「あといいですか? そろそろ教室に帰らないと」
「――春詠」
「はい」
節菜さんの声音が、変わった。怠惰だったはずの声が、鋭く低く。反動をつけてロッカーから立ち上がる。その動作だけで、声音だけで、何が起こっているのか見当がついた。
「どうやら向こうのほうが痺れを切らしたらしいわ」
Intersect3-1 IN.
五付揺唄は、これまで羨望という羨望、嫉妬という嫉妬をほとんど感じたことがなかった。勿論まったく一度もなかったといえば嘘になる。たとえば姉と比べて全然伸びない身長だとか、姉と比べて上達しないゲームの腕だとか。それでもそういうたぐいの感情には鈍感だという自覚もあったし、きちんと折り合いをつけてきた自信もあった。仲の良い友人には「揺唄ってほんとイイコちゃんだよね」と冗談半分に評されることもある。自分がイイコであるなどとは微塵も思わない。単に自分と他人の悪意に鈍感なだけだ。
そう思っていたはずなのに。はずなのに。
「あたしって、こんな面倒臭い女だったかなぁ……」
口に出すとますます頭の中に反響して、自嘲がよりはっきりと頭を支配した。
鈍いはずの感情は、今やどんな刃よりも鋭く揺唄の内側を抉り続けていた。ざりざりがりがりと心が切り刻まれて、傷口が熱い血潮を流す。叫びだしたくなるほどに熱くて、泣き出したくなるほどに震えている。考えれば考えるほど、考えまいとすればするほど、お腹の奥が灼熱に焦げる。
これは嫉妬という感情だ、と揺唄は断定している。それ以外に該当しそうな感情を、揺唄は知らない。だって、そうだろう。好きな男の子が他の女と仲良くしていて、気分が悪くなるって。浅ましくて愚かしい独占欲。春詠が誰と仲良くしようと、誰の家に泊まろうと、誰と緊密になろうと、それは春詠の勝手ではないか。
なのに、それが自分じゃないというだけで、どうしてこんなに哀しいんだろう。
好き、って。一緒にいたい、って。言えればいいのに。臆病な自分を呪う。引け目を感じて強気に出られない自分が嫌だ。
でも――一緒にいたいなんて言ったら、きっと春詠は困るだろう。さっきのあれはそういうことだ。『お前は部外者だ』と、『関わるな』と、そう通告されたのと同義だ。それは揺唄を思ってのことに外ならない。その気持ちを土足で踏み倒してまで自分の意見を押し通すことは、揺唄にはできなかった。自分を思ってくれている春詠と、春詠を思っている自分。及ぼす影響の多寡を考えればどちらを殺せばいいかなんて一目瞭然だ。『あたしだ』、そう言った――理性が。
誰にも言えない記憶。誰にも言えない気持ち。誰にも言えない想い。抱え込んだときはへっちゃらだと思ったのに、案外、首を絞めてくれるものだ。今の自分はナイーブになっているだけだと、自分に無理やり言い聞かせた。春詠の言うとおり、しばらく彼から距離を置くべきだろう。自分がしなくても、春詠がきっとそうするだろう。一緒に登校したり、一緒にご飯を食べたりも、できなくなる。さっきのパンを最後の晩餐にしたりはしない、絶対。もう少しの辛抱だ。
でも。
「う、ぅ……うぇ……ハルちゃぁん……」
言葉の代わりに、涙が溢れてきた。
ごめんなさい。
ありがとう。
大好き。
それらの感情は、何の願いにもならずに膝へこぼれ落ちていくだけだった。
五時間目には間に合わないな、と頭の冷静な部分が言っていた。
…
「効果覿面だなぁ。ぴったり静まり返った」
「お前な……自分の作ったものだろう。何故信用出来ないんだ」
「いやね、ここまででかくて複雑なのは初めてだったから」
「……」
「わたくしもくらくらしてしまいますね」
「気をしっかり持ってくれよ、秋さん」
人払いと意識沈殿の志術で包まれ、十世高校は灰色に染まった。その校庭の中央、やや外縁寄りに立っている人影が四つ。二つは男性、二つは女、ただしその片方の身長はかなり低い。男性の片方は背の低い側の女の影に寄り添うように立っている。
「……なぁ、火鎚。ここまでやってまさか気付いてないってことはない、よな?」
「俺が知るか」
「一も二もなく飛んでくると思ったのにな……あ、見えた」
「正面から来たか」
律儀にも校舎に面した出入口から出てくるのは、劫のよく見知った黒髪の少女だった。その後ろに紅白の巫女服をぴしりと着込んだ少女がもう一人。さらにその後ろについてくるのは細身の少年。
三人はゆっくりと歩いてきて、校舎に背を向けて、劫たちに相対した。その距離およそ四〇メートル。殺那の能力ならば一歩にも一秒にも満たない距離だ。しかし、それに対処するにもまた余りある距離だった。
なんだかんだで頼みを聞いてくれるお固い友人がいる。謝礼次第とはいえなんでも乗り気に愛想良く応じてくれるメイドがいる。お陰で自分が好き勝手やれるのだと改めて自覚する。殺那と相対して無事で済む自信は、劫にだってないのだから。
傍らに立つ肩を叩く。「さ、出番だよ。『かづみちゃん』」
Intersect3-1 OUT.
僕たちは校舎の外で、たった四人の媒介師団と相対した。
時神劫――時戸公。芒生火鎚、火堆姉妹。そしてメイドさん。
ん? メイドさんは媒介師団としてカウントしていいのだろうか? あの人はただの被雇用者じゃ?
「集中しなさい、春詠」
節菜さんは疑念を見透かしたらしかった。
「ごきげんよう、殺那。そして三姫さん、それから春詠くん」校庭のトラックの対岸から公さんが声をかけてくる。「さて、本日の要件は分かってるね。春詠くん、君の腕と志術を貰いに来た」
ごくりと唾を飲む。左手を握る。目的は、この腕。
「一応交渉はしておこうと思う。殺那、岡佐倉さん、今ここで明馬春詠を殺してその死体をこちらへ引き渡してくれれば、俺たちは去ろう。どうかな」
「お断りします」口すら開かない節菜さんの代わりに、三姫さんがきっぱりと答える。「春詠くんはあたしたちの仲間ですから」
胸が熱くなる以上に背中がこそばゆくなる台詞だった。三姫さんをちらりと盗み見ると、小さくウィンクを返してくれた。どうやら三姫さん自身は大真面目らしい。
「第一の交渉決裂か。では第二。情に訴えてみよう」
それを合図にして、両陣営の両翼が動いた。
火鎚さん、メイドさん。
三姫さん、節菜さん。
敵側の二人は小手先の攻撃を仕掛けてきてから、距離を取るような動作を見せた。巧妙に押し、誘導するように引き、あっという間に僕は孤立する。
味方側の二人の様子を伺う。三姫さんが戦闘向きでないぶんだけ分が悪い……ようだ。
「横槍は入らないし、入れさせないからね」公さんは傍らにいたかづみちゃんの背中をトンと押し出した。
かづみちゃんが前を――僕を見た瞬間、何かが胸を突く。
肩を出したベアトップのワンピースは、かづみちゃんの可憐な印象を更に強めていて、手折ろうとすれば容易く逝ってしまいそうなほどだった。一、二歩進んで、かづみちゃんと向かい合う。
両肩を小さく縮こまらせて頼りなく俯くその姿は、どうしようもなく庇護欲を刺激された。駆け寄って支えてあげたくなるくらいに。
「はるよみさん。――春詠さん」
小さな唇が開いた。長い睫毛を震わせて、その瞳が僕を見上げている。かづみちゃんの声だ。とても遠くて、か細い。震えている。
「……ごめんなさい、春詠さん」
「何のことかな」
「わたし、兄を選んだんです」
「だからそっちにいるんだよね」
「……はい。でも……春詠さんと、戦いたくないです。わたし、春詠さんと戦いたくないです。本当は殺し合いなんてしたくないんです。兄と会えれば、良かったんです」
「うん、その点は、おめでとうって、言っておきたかった」
「ありがとう、ございます……」律儀に頭を下げて。「それで、春詠さん。お願いがあるんです。……一緒に、来てくれませんか? わたしと兄と、一緒に来てくれませんか。そうすれば、わたしたち、戦わなくて済むんです。だから」
僕は答えない。
「お願い、です。お願いします、春詠さん。決して悪いようにはしませんから。あたしと兄が約束しますから。だから、一緒に来てください。お願いします」
いつの間にか目の前まで来ていたかづみちゃんが、僕に抱きついた。
「今なら、まだ、間に合います。……わたしには、お兄ちゃんや秋さんを止めることはできませんけど、春詠さんが一言、一緒に来るって言ってくれれば……きっと。劫さんだって鬼じゃないですから」
薄い胸板を、細い腕を、軽い体を、押し付けて、預けて。
遠くから節菜さんと三姫さんの声が聴こえる。
罵詈雑言、とまではいかないけれど、今の僕にはただの雑音だ。
「春詠さん、言ってくれましたよね。いつでも抱きついていいって。嫌がらないって、言ってくれましたよね、傍にいるって。兄は、もういますけど……でも、春詠さんさえ良かったら――」
「――うん、分かった」
「じゃあ……!」
僕は抱きついている、笑顔のかづみちゃんをひっぺがす。
「は、春詠……さん……?」
イメージは。
イメージは、投網の回収だ。左腕を少し引いて溜めを作り、左半身に、左手に、意識を集める。左半身にくまなく広がっている網を――血流にたゆたって広がっている網を、絞り、まとめ、引き上げ、丁寧に巻いて、畳んで、畳んで、小さく、小さく、圧縮。圧縮。圧縮。
左手を握りしめて。
殴り飛ばした。
目の前のかづみちゃんの形をしたものは紙屑同然にひしゃげて、吹っ飛んでいった。
「あ。あ。はる、よみ、さ」
「黙れ」
地面へ倒れこんだかづみちゃんの形をしたものを踏みつける。真っ直ぐに顔を踏み抜いて、次に肩を踏みつけて、腹を踏み荒らして、足を踏み砕いて。何度も何度も何度も。出来損ないの絵画を消し去るように。踏み散らす。踏み拉く。踏み潰す。踏み躙る。踏み殺す。陵辱して蹂躙して、原型を留めないところまでバラバラに。
「……あーあ、自信作だったのに」
脳天気な声が。
僕は深呼吸して、紙屑から目を外した。
「こんなものが自信作なんて、ちゃんちゃらおかしいですよ。笑っちゃいますよ。ジンバブエ・ドル札より紙屑じゃないですか。こんなもの、全然かづみちゃんじゃない。見た目を似せただけのオモチャじゃないですか。子供銀行券より価値がないですよ」
「でも、よくできてたろう? 体の温かさとか、重さとか、柔らかさとか、骨格から髪質、呼吸、随意・不随意の別にかかわらず、あらゆる体の動き」
「だとしても、です。やっぱり志術でも魂ってやつを作るのは難しいみたいですね」
「それは認めよう」肩を竦めて。「演技をさせてた可能性は、考えなかったのかい」
「考えましたけど、あえて外しました。あんなことを言うかづみちゃんなら、どうせ一回引っ叩かないといけない」
「あはは、なるほどね」劫さんは肩を揺すって笑った。「正直、ちょっとうまく行きそうな気はしてたのになぁ。君のことを甘く見てたらしい。謝るよ」
「どうも」
「じゃあ最後の手段、三度目の正直といこうか」
劫さんは気障ったらしく指を鳴らした。同時に劫さんの背後――グラウンドの敷地の半分以上が闇に包まれた。
……いや、少し違う。闇に包まれたんじゃなくて、黒い無数の円が埋め尽くしたんだ。
「第三の交渉――暴力だ」
シズヤが、ずらりと並び揃った。
その光景は体育祭を思い出す。全校生徒が、前へ倣えと間隔を取って整列する、その様を。はたしてこれから始まるのはどんな競技やら。
三姫さんと節菜さんを交互に見遣る。依然として苦戦しているようだ。こちらへ気を使ってくれてはいるが、助けは期待できない。
一人で、か。
止められるかな、これ。
「君を殺すか倒してお持ち帰り。死凶血禁の妨害はできるし、君の血も能力も手に入って丸く収まる」
「男の人に持ち帰らえる趣味はないので、全力で抵抗しますよ」
「……普通、そういう意味に捉えるかい?」
「知り合いにBL好きがいるんで」
「そうか……妹はそっちに引きこまないでくれよ」
「伝えておきますよ」
「頼むよ。――かかれ、シズヤ」
号令一個で一斉に動き出す、それは質の悪いマスゲームだ。
足を開いて腰を落とす。ポケットから鉄球を取り出して、左手に握り締める。いつの間にか、手にはじっとりと汗をかいていた。にも関わらず、鉄球は滑ることなく収まる。
――イメージは、金属の球。固く握りしめた拳が真の硬さを持ち、固く掲げた腕が芯の硬さを持ち、固く誓った意志が心の硬さを持つ。高く鳴った心臓が全身の血管を固く引き締め、全身に規則性も方向性もなくたゆたっている鉄を、纏め、巡らせ、漲らせる。濃く、強く。硬く、固く、高く。鉄の塊を、纏う。
備えろ構えろ心掛けろ。ビビるな退くな臆するな。
「集団で殺す……これがほんとのまsさつ……抹殺、なんてな」
死地だというのに僕のギャグは冴えなかった。
Intersect3-2 IN.
明馬春詠が芒生火堆を殴り飛ばすのを、三姫は信じられない思いで目撃していた。その直後、カラクリを悟ったあとですらも。
「三姫さん!」
「――っく、ぅ」
かすめるように飛んできた火球に手をかざす。甲高い破裂音がして、火球と、手のひらにあった札が同時に弾けた。第二撃もかろうじて避ける。三姫の身長ですら体全体が飲み込まれる巨大な火球が巫女服の袖をかすめた。僅かながら焦げた袖先を見て三姫は顔を強ばらせた。(この服、五序令術クラスでも傷ひとつつかないはずなんだけどなぁ……)
体勢を立て直した直後、ナイフの風切り音。節菜に肩を抱かれてさらに横ベクトルの跳躍。完全に回避しか意識していない行動。
秋と火鎚の連携は即席らしい粗こそあったものの、そこに付け入れさせる間隙を与えなかった。あるときは双方が接近戦を仕掛けてくると思いきや秋が前へ出、火鎚が下がり、また火鎚が前へ出てきたときには秋の牽制や搦め手が節菜の足を止める。三姫はその都度妨害術を発動させて節菜をフォローするのだが、三姫のマスターしている志術類は即応性に著しく欠ける。かといって接近戦に持ち込むには、三姫の身のこなしはあまりにも拙すぎた。
即座に受け身をとって、着地と同時に新しい志術札を口に咥え、破く。飛びかかってきたメイドのナイフを受け止めた節菜の側面に沙代の『盾』を構成、自分もその影に身を隠して飛来した葛生志術を相殺する。追加で印契を結び、『盾』の形状を分厚く。
「《挟め》! 《割れろ》!」
志術札でほんの一音令まで短縮した言霊で発動を叫ぶ。局所的に極寒を再現した不可視の万力が秋を襲う。が、範囲内8立方メートルの水分がダイヤモンドダストと化すより先に秋の体は後方へ飛んでいた。体全体を使った打ち込みから体全体を移動させる反転まで、一秒にも満たない超速。無論のこと、滞空時間は決して長くはない。
だが――秋を超速とするならば、節菜は正しく神速だった。極寒の万力が霧散するその瞬間を見計らって志象を展開し――金の糸を無限遠まで引き伸ばす――、時神志術を発動させる。筋肉の硬直、体幹の重心、視点のブレ、隙という隙を縫い、針の穴を通すより精密な動作で刀の先端を突き刺す、はずだった。
火道に防がれるのだ。絶妙なタイミングで。
眼前に現れた炎の道を大きく切り払い、狙った地点と好機を大幅に行き過ぎて速度を殺す。舌打ち。
「埒が明きませんわね、こんなのじゃ」硬そうなメイド服の裾をふわりとひるがえして、女が言う。「ご主人様の命令ですから、春詠様をスルーしていますけど……位置が位置だけに、そして相性が相性だけに、春詠様をさっくりと始末した方が早いと思いますのに」
「第三の交渉も佳境のようだしな。……ふん」
「あら、ほんと」
節菜も釣られてちらと見遣ると、春詠が黒い荒波に揉まれていた。殴られては殴り返し、切られては殴り返し、体当りされては殴り返し、一匹を掴んで振り回し、放り投げ、また袋叩きにされる――とにかく酷いケンカスタイルだった。頭痛がするほどに。それはどうやら三姫も同じ気持ちらしい。
「火鎚様は、複雑な気持ちなのではなくって?」
「何故そう思う」
「だって、妹君がフラれたということですよ、あれはつまり」
「……妹をどこの馬の骨ともつかん奴にやる兄はいねぇよ」
「お美しいですこと」
秋は肩をすくめる。
「……」節菜は与太話を聞き流しながら、呼吸と志氣の流れを整え、刀を構え直す。春詠のあのでたらめな戦闘方法では十分と持つまい。根性と体力だけはついたらしいから、次は技術の方を叩きこんでやらなきゃいけないな、と節菜は思う。それにはまずここを切り抜けなければ――そう、切り抜けなければならない。しかし、どうするか。
…
「だああぁぁぁ!」
殴る。
「らぁぁぁぁぁ!」
殴られる。
「いってぇぇえ!」
刺されたので殴り返す。ついでにぶん投げる。さらに投げつける。
春詠の孤軍奮闘は続いていた。開襟シャツは無数の傷でぼろぼろになり、血の赤色で染まっている。両腕も両足も、例外ではない。顔への攻撃は量が多かったが、どうにか防ぎきっている。視界を奪われれば一巻の終わりだ。
シズヤが次々に消えていっているのは確認していた。数も最初よりは心なし減っている気がする。つまり春詠の奮闘は無為でも無限でもなく、いずれは終わるはずなのだ。それがいつになるか見当すらつかないのも、また確かだった。知っているのは距離を取って腕を指揮棒のように振っている男ただ一人だ。
負ければ殺すという劫の宣告は、確かに耳に残っている。
兄と妹がこれ以上離れているのは、忍びない――そんなのは、ごめんだ。死に別れずに、生き別れただけなら、まだやりなおせる。彼らにとってもう一度、幸せな日々が始まればいいと願う。
かづみちゃんのニセモノの言葉がリフレインする。
――一緒に来てくれれば、戦わずに済むんです――
もし、本物のかづみちゃんもそう思っていたとしたら。
僕の命と目的を捨てるだけで、二人の兄妹が幸せに暮らせるとしたら。
それは、とても。
「――あ」
雑念は体を鈍らせる。或いは、肉体の疲労が精神の支柱を失ったか。それとも春詠の体内に巣食う志術の因子が彼の志をひとりでに汲み取ったか。
シズヤの闇色の爪が春詠の目を正確に狙っていた。
体の結合が砕ける音がした。
Intersect3-2 OUT.




