第四章 時と枷の解放者
◆◆第四章・時と枷の開放者◆◆
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Intersect 4-1 in.
硬いベッドの上で芒生火堆は小さく身動ぎした。睫毛が瘡蓋のようにひっついている。泣きながら眠ってしまうとこうなるのは、経験上知っていた。手探りで小さな洗面台まで歩を進めて、カリカリとこそぎ落とす。
ようやく瞼を開けられるようになると、外界の様子は目を閉じていたときとそう変わらなかった――カーテンの裾から差し込む明かりを除けば。それに惹かれてカーテンを開けると、昼間の光が両の目を刺した。痛いほどの眩しさに思わず顔を背ける。
『明馬春詠は倒さなければならない』部屋へ戻ってきた火鎚は、ゆっくりとした、有無を言わさぬ口調で言った。髪をなで、幼子に言い聞かせるように。『わかってくれ、火堆』
眠りに落ちる直前の会話だった。
頭では、分かっている。春詠の能力は禁番から失われたはずの能力だ。禁番志術はもともと二つずつが対になっている。熱と冷、軽と重。そのバランスが崩壊している不安定な状態では、いずれ死凶血禁は崩壊する――現在進行形で崩壊しかけていないとは言えなかったが。しかし、心は拒否するのだ。あの人が死ぬところを見たくないと。兄に人を殺して欲しくない。殺しあって欲しくない。
――息を呑んだ。
「お兄ちゃん? ……お兄ちゃん、どこ?」
恐怖に頭が覚醒する。
いない。部屋にいない、ということは。
――強襲をかけたのか。春詠のところへ。
直感的に正当を引き当てたかづみはドアに手をかけ、
「あか……ない……」
押しても引いても、びくともしなかった。ノブを回す。思い切り力を込めて鳴らす。開かない。ならば、と体をぶち当てる試みも無為に終わった。体重が軽すぎる。非力すぎる。
「う、く――う。……開いてよ……開いてよ……っ」
扉に縋りついて嗚咽した。
「わたしが……強かったら……」
自分の力の無さが悔しかった。何を呪えばいいのか分からなくて、ただ火堆は手近にあった自分の無力だけを呪った。せめて、両者の争いを止められれば。それだけでいいのに。
火堆は、いつの間にか自分が血の繋がった兄と、まったくの他人を同じ天秤に載せていることに驚いた。そんなのはおかしい。かぶりをふる。本当に大切なのは、お兄ちゃん、の、はずなのに。春詠の、揺唄の、揺籠の、三姫の、節菜の、それぞれの笑顔が瞼の裏から離れない。舌が焦げるほど辛かったお好み焼きの味が蘇ってくる。作ってもらった生姜湯の温かさが胸の中にぼんやりと灯る。
止めたい。
止めたい。
止めたい。
大好きな二人の喧嘩を止めたい。
仲良くしたい。仲直りしたい。
振り向いて部屋を見回す。備え付けのベッドと毛布。――窓!
飛びついて鍵を開けた。身を乗り出す。
「……あ……」
地面は遥か遠くにあった。ぽつぽつと草が生えただけの空き地。飛び降りて無事に済む高さではない。地面に叩きつけられる自分を想像して、ぞくりと背中が震えた。だが、他に手段はない。ベッドのマットレスを先に投げることも考えたが、窓枠を通りそうになかった。
意を決し、桟に足をかける。どう着地すれば最小の被害に抑えられるかを考えながら
『――嬢ちゃん』
背後から不意に響いた声に、びくんと身体が強張った。煙草と酒で焼け爛れたような銅鑼声。しかし不思議なことに不快感はしない。
「だれ――?」
どこから響いてきたのかも分からず、火堆は息を飲んだまま部屋を振り返る。
『ここだ、ここ』
虎猫の生首が畳から生えた。音もなく。超現実的な光景に火堆は息を吐くことも忘れてその顔を凝視する。虎猫は、猫のくせに、得意げにニヤリと笑ってみせ、前脚、胴体、後ろ脚、尻尾の順で畳の波の上へと身を乗り上げた。『その様子なら聞こえてるな』でっぷりと太った身体を横たえて、またニヤリと笑った。口は動いていないが、この声は確かに目の前の猫だ。
異様な光景ではあった。が、芒生火堆もまたその異様に住んでいることに違いはない。
「……だれですか」
『ただの怒羅猫だ』
喋る猫。笑う猫。意思疎通のできる猫。巨体。長い尻尾。不遜な態度。どのへんがただの猫なのか、火堆には判断できなかった。一つだけ分かることは、この猫は志術に関わる、超自然的な動物だということだ。猫又とか。もっとも、その尻尾は一般的な虎猫にしては不自然なほど長いだけで、二本に分かれてはいないように見えた。
『さて、話は戻るが――嬢ちゃん。オレと契約しろ』
「それって……どういう……」
『渇望していただろ、力を。オレと契約しろ。そうすればオレが力ァ貸してやる』
「……」
『オレ様ならその力を貸せるぞ。オマエにない力を、オレが補う。ただしオマエはオレの方向性を決定付けろ。オレは忠実にそれに従う。……ま、可能な範囲でだがな』
「それって、つまり……」
『止めたいものを止められる可能性が生まれるぞ。やめさせたいことをやめさせられる可能性が生まれるぞ。自分が最も望む結果を引き寄せられる可能性が、生まれるぞ』
「……」
『まだ確定はしてねえんだぜ。どうするよ、嬢ちゃん』
どうする。どうする? どうすればいいんだろう。その猫の言は、ここから飛び降りるよりはまだ分があるように思えた。しかし、こんな胡散臭い虎猫を信用するには、材料が足りなすぎる。悲嘆に埋め尽くされた頭で考えられることは、そう多くなかった。ここで膝を抱えて結末を待つよりは、何にすがってでも足掻いたほうが利口に思えた。
火堆の手が、徐に虎猫の喉の下を撫でた。縦瞳孔の金眼を細めてごろごろと喉を鳴らす。不良っけの混じった顔がきゅっと丸まる。
『いいぜ、よォく分かってるな。契約成立だ』
伸びてきた長い尻尾が火堆の細い腕に巻き付く。その尻尾が一瞬九本に増えた気がしたのは、涙の雫が光学的に生み出した残像だろう。
「……ところで、お名前は……」
『あ? あァ、オレか。オレはマークだ。マーク・シュレディンガー。見たまんまのやくざな虎猫だよ』
彼らのぶつかり合いで春詠たちが勝てば、火鎚と公は捕縛され、本局へ連行されて然るべき処断をされるだろう。火堆自身は或いは何の咎めも受けず、つまりそれは春詠のもとに身を寄せる生活が始まることにほかならない。一方火鎚たちが勝てば春詠は殺されるに違いない。そしてその後は火鎚と一緒に生活できる。また以前のように。
――生きてさえいれば、なんとかなる。
火堆はそう信じていた。
Intersect4-1 OUT.
体の結合の砕ける音がした。
目の前でシズヤが潰れる様子がスローモーションで見えた。頭からひしゃげ、腕が不規則に折れ曲がり、圧壊して、ばらばらに霧散する。
呆気に取られる僕の目の前に、巨大な質量の縞模様があった。黄色と黒。一般に危険色と言われる配色の壁が絶対的な威圧感を持ってそびえ立っていた。不思議と危険な感じはしない。
「あ……、え……?」
それは、巨大な虎だった。それも動物園にいるような怠惰を備えたそれではなくて、ぎらぎらとした金色の瞳を輝かせた、本物の肉食獣。不自然なほどに静かに筋肉を動かして、泰然自若とした様子で猛々しい威容を誇って。
そして、その背中にぐったりと抱きついてるのは。
「かづみちゃん!」
力なく横たわっているかづみちゃんの両肩を抱く。
『わりぃ、少し食い過ぎた』その虎が言ったと気付いたのは、しゃがみこんだ姿勢ぐるりと首を回されて目が合ってからだった。
「食い過ぎた、って……」
『このムスメ、もうちょっと鍛えたほうがいいぜ。よく食わせてよく寝せろ。もーちっと太りゃべっぴんにならぁよ。オンナぁ食わせンのはオトコの甲斐性ってえもんだ。それから食うのもオトコの甲斐性だがな』
いきなり何を仰るんだ。
『なんだ、まだか』カッカッカと大笑する虎。『とりあえずこいつ、預けるぜ』
「あ、はあ……」抱き寄せたかづみちゃんの体には、今度こそ違和感はない。本物のかづみちゃんだ。呼吸はゆっくりとしているけど、確か。少し汗をかいている。体や唇の震えは見られない。頬を撫でて声をかけると、うっすらと目を開いた。意識がある。「おはよう、かづみちゃん」
「はる……よみ、さ……」
「無理に喋らなくていいから。……あの虎に助けてもらったみたいだね」
「はい……ねこさん……に……」
……ねこ?
目の前の巨虎は「うん?」とでも言いたげに首を傾げる。
ねこ、ねぇ。
「……マーク」それまで黙っていた公さんが頭痛を抑えるような仕草で言った。「昨日の友は今日の敵を地で行かれると、俺としても困るんだがね」
『言ったはずだぜ、オレは気に入らねェことは見過ごさねェ主義だってな』
「初耳だよ。……とにかく、これで俺の計画はおじゃんだ。このまま押し切ればうまくいくと思ってたんだが」
『そりゃご愁傷様だな』
「今から手を引いてもらうわけには?」
『行かねェな。もうこの嬢ちゃんから食っちまったもんでな』
「一宿一飯の恩義ってわけか」
『三食昼寝付きくらいだ』
「……そうかい」
落胆した様子の劫さんの背後で、シズヤの悲鳴が上がった。そこには――もう一体の虎が、いた。目の前にいるのとまったく同じ特徴の――おそらくは縞模様から毛の一本一本まで同一の――新しい虎が。
『それも私だ』
「誰ですか」
『すまねェ、間違えた』にやりと、それは虎とは思えない顔の動きだった。『アレも、オレだ。アレだけじゃない、アレも、アレも、アレも、全部、オレだ』
「……」
見れば。
校庭のあちらこちらに、巨大な虎がのっそりと歩いていた。その数はざっと数えて十。不遜な態度が底知れないプレッシャーとして機能しているらしく、火鎚さんも秋さんも動きを止め、劫さんの方へと近付く。瞬間的に散開と集中を即応的に切り替えられるポジションを取ったようだ。
そしてそれは、こちらの二人も同じ――。
「春詠。そいつから離れなさい」
……だというのに、節菜さんの第一声はそれだった。明らかな警戒――いや、倦厭の色。見れば抜き身を構えたまま迫ってくるところだった。
「大丈夫ですよ、この人……っていうか、虎」かづみちゃんを横抱きにして。「だって、かづみちゃんを食べずに連れてきてくれたんですよ。それにわざわざ真正面から姿を見せてくれましたし。悪いひ……虎じゃないです」
『さぁ、どうだろうなァ?』
一応あなたのために弁護してるんですから韜晦しないでください。
『わりぃわりぃ。いつもの癖でな』
「……」節菜さんの姿勢が少しだけ和らぐ。「久しぶりね、化猫」
『久しぶりだな、かんざしの』
えっ。
今知り合いっぽい会話が聞こえたような。
『どうした、狐に抓まれたような顔しやがって』
「猫に化かされたの間違いでしょう」
『違いねえ』
白々しいやりとりをする一人と一匹。
「……こんな化猫と、まだ手を切ってなかったんですか、時戸公?」
「こいつはこいつで利用価値があるんだよ」
『ヒデェ言い草だなぁおい』
「飼い猫に手を噛まれたくせに、よく言う」
『オレは野良猫だ! 間違えるんじゃねえ!』
……。
なんだろう、なんか。
「すごく居づらいね……」
「そうですね……」
愉快そうなやりとりの蚊帳の外で三姫さんと僕はぼけっと突っ立っていた。
まるで友人と遊んでたら友人の古い知り合いとばったり会ってその二人が昔の話で盛り上がってる横にいるような気分だ。
ていうか実際そうなのだけれど。
「うーん、困ったな。火鎚、秋さん、どうする? このまま続けても勝ち目がない」劫さんは明け透けな調子でそう口にする。
「ならば引くしかありませんわね」秋さんがそう受ける一方で、火鎚さんは黙ったままだ。
「火鎚」
「……分かった」
「殿を頼む」
「ああ」
火鎚さんが構える。
このまま引かれれば、ひとまずは防衛成功だ。これ以上打撃を与える必要性はない――少なくとも、僕には。節菜さんが追撃の姿勢に入りかけたそのとき、
「おにい……ちゃん」
かづみちゃんが、僕の腕の中から立ち上がった。よろける肩を支える。
「……火堆、お前は」
「おにいちゃん……ごめんなさい。でも、わたし……おにいちゃんにも、春詠さんにも、死んで欲しくない。殺して欲しくない。喧嘩してほしく、なかったの」
「お前は……」
「ね、おにいちゃん……。また一緒に暮らそうよ。一緒に遊んでよ。一緒に寝て、一緒にお風呂入って、一緒にご飯食べようよ。から~いカレーとか、から~い麻婆豆腐とか、から~いお鍋とか、また作ってよ……おにいちゃん」
「……」火鎚さんの拳がわずかに緩む。
「僕からも、お願いします。――火鎚さん。かづみちゃんは、ずっと寂しがってたんです。それでもがんばって、役目を果たしてる、果たそうとしてるんです。だから火鎚さん。帰って来ませんか。……本局の方が心配なら、僕から口添えも――いえ、力添えも、します」
「春詠くん……」
「春詠。それがどういうことか――」
「分かってますよ」
「だったら!」
「節菜さんは、嫌ですか?」
「……なにがよ」
「一度は別れた兄と妹が、昔のように仲良く暮らすのは、嫌ですか? そういうハッピーエンドな結末は、嫌ですか? そういうのを願っちゃいけませんか? もし少しでも目があるなら――僕は、それを望みたいです。僕が力を尽くしてできることなら」
虎猫が囃し立てるように口笛を吹く。
「このッ――」節菜さんは殺意を込めた目で僕を睨んでから、視線を逸らした。苛立たしげに地面を蹴りつけて、刀を納める。「――勝手にしなさい、莫迦」
人の傷口を抉る、汚いやり口だった。
最低だな、僕。
「……火鎚さん」向き直る。「そういうわけです。僕たちにどこまでできるか分かりませんが……」
「……いや、いい。済まない」
「では、こちらへ」
拳を下ろした火鎚さんがこちらへ歩いてくる。かづみちゃんが僕の肩を離れて、覚束ない足取りで駆け寄っていった。その小さな背中を見送る。兄妹の再開に水を指すほど、僕は無粋なたちじゃあない。鼻がつんと痛む。
「火鎚にもフラレてしまったか……いよいよ手詰まりだな」
「劫さんも、投降したらどうです? 待ってる人もいると思いますよ」
「それは魅力的な提案だがね。まだ悪あがきは続けさせてもらうよ。――殿は頼んだ、と言ったはずだ、火鎚」
劫さんが指を鳴らす。
火鎚さんの足が止まった。
「おにいちゃん……?」
不思議そうに尋ねるかづみちゃんの頭の上で、火鎚さんの口元から、朱い雫が垂れた。火鎚さんが足元から崩れ落ちる。かづみちゃんが下敷きになる。悲鳴が上がる。血を吐く。火鎚さんが不思議そうに口元に手をやって、劫さんを見て、何事か言おうと唇を動かして。三姫さんがそこへ駆け寄る。
「また会おう」
『あァっ! 待ちやが――糞がッ!』
劫さんと秋さんの姿が掻き消えた。同時にねずみ色の空が晴れ渡る――それは遮断結界が解けて、現実世界が戻ってくる合図で。校舎から校庭を見ていた人の視界を借りてその光景を見たら、血溜まりの中の人間と、それを取り囲む数人が、突如として現れたように見えただろう。もっとも、そんな人間がいれば、の話だが。
『おい岡佐倉の! 早く診ろ! 心得くらいあンだろ!』
「言われなくても見るわよ!」三姫さんが火鎚さんの服を開いて状態を確認する。表情は険しい。「体内から破壊されてる……なにこれ、志氣がめちゃくちゃじゃない。いったいどうやって……」
『ンなこと気にしてる場合か!』
「わ、分かってるわよ! とりあえず止血と行使の停止だけでも……春詠くん、救急車!」
『ンな暇ねェぞ、オレに乗せろ!』
「じゃあ伏せなさい!」
虎の背へと火鎚さんを載せようとする三姫さんに手を貸す。火鎚さんの表情は苦悶すらも浮かべずに、穏やかですらあった。顔が土気色で、口元から血が溢れていなければ。
「……ったんだ……たしが……っぱり……こう……るんだ……やっぱり……だめだったんだ……おにいちゃん……いま――」
その言葉を聞いた瞬間、僕は左手を伸ばしていた。
激痛が、包帯を貫通して手のひらに突き刺さる。
「それ以上はだめだ、かづみちゃん」
「あぁ……あ、ぁ……」
かづみちゃんの手に握られていたのは、忘れ形見としてずっと持っていたナイフだった。震える唇で、震える手で、刃物を持って、その刃を自らの首に向けて、何を為そうというのか。答えは明白だった。
握りしめて左手を引くと、かづみちゃんは何の抵抗もせずそれを手から離した。
「お兄さんが目覚めたとき、君がいなくて、誰が笑ってあげるんだい」
「春詠さん……手……」
「僕のことは気にしなくていい。志術のせいで、あんまり痛くないよ」
「でも……」
「それより、だ。僕、言ったよね、かづみちゃん。自分を大切に、って。自分の体を投げ出すようなことは二度としちゃだめだって、言ったよね、かづみちゃん」
「は、はる、よみ、さ……」
ぼろぼろと涙をこぼして、かづみちゃんは嗚咽していた。決壊寸前の心が痙攣しているのが手に取るように分かった。僕の手のひらでその漏れ出る水が受け止められるなら。僕の手のひらでその崩れかけた器が支えられるなら。僕は喜んでこの手を差し出そう。その心を抱きしめよう。
『おら、掴まれオメエら!』
「いこう、かづみちゃん」
「……はい」
かづみちゃんの細い体を抱いて、巨大な虎の背に手をかける。ふさふさとした毛皮は確かな熱を持っていて、その下に脈打つ鼓動が手のひらを通して伝わってくる。
『言う必要はねェらしいな。――飛ぶぞ』
『拡散』。
鼓動、が、ずれ、て――分散し――離散し――拡散し――僕たちは、四散した。
2
『収縮』。
Intersect4-2 IN.
移動速度を徐々にゆるめ、時戸公と宇西秋は足を止めた。
「こちらへ来たか、殺那」
「――外道がッ!」
足を止めるなり、戸波節菜――時神殺那は大声で一喝した。
「外道! 外道! 外道がッ! 自分の盟友を背後から刺すなどと、私の兄はいつからそんな外道になった! トカゲの尻尾切りなどと、どこまで堕ちた! 私の兄は、私の知る兄は、どんなに腐ってもそのような恥知らずな真似はしなかったはずだ!」
「嬉しいな、またそう呼んでくれるのか」
「う――うるさい! うるさい! うるさいっ!」
時神殺那は怒り狂っていた。何が自分をそうさせるのか分からない。十数年に渡って醸成された兄という人物像への漠然とした期待と失望がそうさせたのか、それともその本質を見抜くことができなかった自分の無力に対して激昂しているがための八つ当たりか。
「そうだな、なぜやったかと問われれば、必要だったから、としか言えない」
「そうですわね」秋も調子を合わせて頷く。
「考えてもみろ、殺那。あの本局が、キーパーソン二人と本家の末弟の嫁の口添えごときで考えを変えると思うか?」
「それは――でも――やってみなければわからないでしょうっ」
「ああ、そうかもしれないな。だができなかったとしたら……俺の大切な友人は妹と死に別れてさっくりと処理される。許せないだろ? だから手を打たせてもらった」
「だからと言って、あのような!」
「非道な所業、か? 本局側のお前がそれを言うか?」
「でも、だからって……」
「ああ、分かってるよ。俺だって、言えない。だからここはもう、なしだ。手打ちにしよう、殺那。この兄妹喧嘩、口だけじゃ終わらない」
「う……くっ……」
「泣くなよ……相変わらず泣き虫だな」
「……ろします」
「うん」
「あなたは……兄さん、あなたは、絶対に私が殺します。絶対に、他の人になんか殺させない」
「そう。それでこそ俺の妹だ。――春詠くんにもよろしく言っておいてくれよ。またすぐに会うことになる」
「では、ごきげんよう」
背を向けて周囲の風景へ溶け込んでいく二人を、殺那は見送らなかった。ただ必死に、自分の意思とは無関係に零れ落ちそうな涙をこらえていた。
Intersect4-2 OUT.
「今夜が山場だ」
河原川励先生は、僕と三姫さんを交互に見てから、そう言った。
火鎚さんの容態は最悪の一歩手前らしかった。肺と腎臓が潰れ、他の臓器の損傷も激しい。神経も大半が焼き切れている。志術式に介入して焼き切ったのだろうとは励先生と三姫さんの見立てだった。助かったとしても身体が以前と同じように動くことはないし、記憶喪失の恐れもある、と。
励先生が去ったあと、僕と三姫さんはしばらく言葉が出なかった。僕の膝に頭を乗せているかづみちゃんの寝息だけがロビーを支配していた。この子が起きたら、僕が火鎚さんの容態を伝えるつもりだった。
「それにしても、驚いた。河原川の家の人がこんなところにいるなんて」三姫さんが言った。
「そう、ですね。僕も驚きましたけど」
『血』や『傷』への対抗を旨とする血番六家が一家、河原川。数世代前に血番を返上し一般社会に溶け込んだことになっていたと、三姫さんは節菜さんから聞いたことがあるらしい。
『文献は読んでおくものだね』河原川先生は医者としての表情を崩さないままそう言っていた。『まさか俺――の家系――がまた死凶血禁に関わることになるとは思わなかった』
「志術式って、こんなに危険なものだったんですね」
「危険だよ。禁番は特に。身体の一部のようなものだから。人が作ったもので人を造り変えているから。そして、人が作ったものなら、たとえ他人のものであろうと手を加えられない道理はない。……それは極論で、実際に出来るひとは、ほとんどいないけど」
「でも、いる、んですよね」
「うん」
たとえば、おそらく、時戸公。
僕は左手を握りしめた。新しい包帯がきつく巻かれているその手は、大怪我にはならないものの、傷は残るということだった。
眠るかづみちゃんを優しく撫でる。
かつて僕を救ってくれたこの手は、かづみちゃんを救えただろうか。彼女の心を、彼女の体を、彼女の人生を、忍び寄る魔の手を振り払い、少しでも好転させられただろうか。できた、と胸を張って言うことはきっとできない。でも、できなかったとも、まだ、言えない。その答えは短絡的に出すべきではないし、短期的に出るものではない。かづみちゃんと火鎚さんはこれから、血を吐きながらでも、涙を流しながらでも、生きて生きて生き抜かなくてはならないのだ。そのとき誰かが傍にいれば、応援してくれる人がいれば、そのぎりぎりの添え物のせいで耐えられることだって、きっとあるだろう。僕のこの手は、本当に誰かを救えたのだろうか。これからも、誰かを救えるのだろうか。滲んだ視界では何も見えないから、僕は強引に両目を拭った。
OFF Limits –Rest Out Restart -
お疲れ様でした。読んでいただけてありがとうございます。
これにてオフリミッツ2ndは閉幕です。
3rdを書き上げたらまた続きとして投稿すると思いますので
その節にまたよろしくお願いします。
こっそりとルビ機能を使ってみたんですが
火狐で見てる自分じゃ分かりませんねこれ。
あと傍点が欲しい。切実に。




