第三章 愚者と報われぬ吊刑者
◆三章・愚者と報われぬ吊刑者◆◆
1
「あー……」
目が覚めた。
清潔な、掛け布団カバーの匂い。
夜の闇の中、携帯電話の光を使って、左手の火傷に巻かれた包帯を確認する。解けてはいないらしい。携帯電話のデジタル表示は午前一時半を示していた。
そのまま眠ってしまいたかったが、わずかな尿意が頭を中途半端に覚醒させた。仕方がないので出しきるために、僕は昼間の記憶を伝って厠(純日本風家屋のご不浄をトイレと呼称することなんて僕には出来ない)へと行くことにした。決して迷ったりはしなかった。
三姫さんの家の居住部分は境内の内側にあった。純和風の家屋で、結構な広さ。神主さんの家ってみんなこうなのだろうか。艶のある縁側や綺麗に貼られた障子戸は開放的で、それでいて木造独特のしっとりとした落ち着きがあった。荷物を持った僕たちはしばらく待たされてから、三姫さんの説得――中間試験が近いから勉強会だのなんだのと言ったのだろう――によって、涼しくて広い離れを貸して貰えることになった。
ちょっとした合宿気分。
と言っても、することは勉強ではない。いや勉強もしたいのだけど、とてもそれどころではなかったのだ。節菜さんがピリピリしていて、英単語も数式も全然頭に入って来なかった。お風呂をもらって、布団まで敷いてもらって、流石に節菜さんはその頃には落ち着いていて、僕はどうにかこうにか眠ることができた。
水洗式の厠を出ると、夜のくせに妙に明るいことに気付いた。空を見上げると半月が少し太ったくらいの月が出ている。雲はかかっていない。なんとなく、夜の散歩気分で縁側から戻ることにした。決して真っ直ぐ戻る道が分からなかったわけではない。ゆっくりと歩きながら角を曲がる。と、柱に背中を預けたまま、長い棒を抱えて座り込んでいる人影があった。
「なんでこんなところにいるんですか」
「なんであんたがここに来るのよ」
節菜さんだった。
床についたときそのままの、ゆったりとしたトップスに黒のホットパンツ姿。その太ももは月光の照り返しで神秘的なほどに真っ白い。
「道にでも迷ったの? 寝室は、あっち」
「……迷ってないですよ」
「なら、なんでここに来たのよ」
「少し月が見たいと思いまして」
「……ふぅん」
先ほど布団を抜け出たときに別室の襖が少しだけ開いていたのは目の錯覚ではなかったということか。流石に覗く気にはなれなかったけれど(多分好奇心に負けてそうしていたら、三姫さんの寝顔が見えていたはずだ)。
節菜さんは手にしていた携帯電話をパタンと閉じて、
「私がここにいちゃ悪い?」
視線を夜空へと投げたまま言った。
「悪いってことは、ありませんけど。……寝ないんですか?」
「夜型なのよ、私は」
夜型らしかった。
まぁ、朝に弱いとは聞いたことがあるし、そうなんだろう。
「あの……」聞こうか聞くまいか、また聞くならどういうふうに切り出せばいいかじっくり悩んでから、僕は口の中で何度か予行練習をして、「本当、なんですか。公さんがお兄さんって」
「本当よ。正真正銘、私の兄」
兄。
あに。
その単語は、本当はとても温かいもののはずなのに、節菜さんの口から出るとなぜか無機質なものに聞こえた。
「なによ、気になるの?」
「気にならなくはないですけど……すみません、節菜さんの口から聞きたかったので」
節菜さんは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、それ以上僕は突っ込まなかった。
本当は、昨日、公さんが言っていたことを、聞いてみたかった。節菜さんのわがままだとか、許嫁のことだとか、爺と呼ばれた人のこととか、『普通の生活』のこととか。考えてみれば節菜さんの身の上について、僕は全然と言っていいほど知らなかった。節菜さんはそういうことを語らない人だし、僕もあえて聞く必要はないと思っていたからだ。学校という組織で耳に入る評判はすこぶるつきで良かったから、それで充分だと思っていたというのもある。けれど、こうして隣にいる節菜さんを見ていると――凛々しささえ感じるその横顔に、等身大の女の子の姿が透けて見えるような気がした。
月光は冴え冴えとしていて、けれどまとった薄曇がときおりぼんやりと姿を覆い隠す。光の当たらない、陰の部分は、見えないだけで確かにある。ただの月光マジックかもしれないけれど。
突然、電流が弾けるような音がした。
心臓が跳ねる。
振り向くと、神社外郭に貼られている結界面が震えて波打っていた。
「……」
節菜さんは石畳の上にあったつっかけを足に引っ掛けると、つかつかと歩いて行って、結界の手前で軽くかんざしを振るう。
それだけ。
戻ってきた節菜さんはひゅんひゅんひゅんと髪をまとめ、何事もなかったかのように再び胡座をかいた。
「……なんだったんです、今の」
「シズヤ」
……はい?
「狼狽えない。ただの牽制よ。使い魔を持っていないから、小さなシズヤを使役して結界を撫でているだけよ」
「破られたりは、しないんですか?」
「そうはならない。私が止める」
「……」
「さっさと寝なさい、春詠。用は足せたんでしょう」
どうやらばれていたらしい。
「そうはいきませんよ」と僕は格好つけて寄りかかっていた柱の麓に腰を下ろした。
「……どういうつもり?」初めて節菜さんがこちらを見た。
「僕も見張ります」
「……」邪魔だ、とその目が言っていた。怖い。しかしすぐにどうでもいいと思ったのか節菜さんはすぐに視線を前へ戻して、「勝手にしなさい」と投げやりに吐き捨てた。
よし、勝手にする。
節菜さんばかりに見張りを任せるわけにはいかない。
僕は節菜さんのよりかかっているそれの、一本隣の柱に肩を預けた。初夏の夜の空気が肌を撫でる。
節菜さんはそれ以上何も言わなかった。
お気楽に囀る雀の声とは対照的に僕は暗澹たる気分だった。
「寝てしまった……」
何が僕も見張りますだ全然見張れてねえぞあほんだら。しかも目が覚めると節菜さんはすでにおらず、肩にかけられたタオルケットが更に敗北感に拍車をかけていた。
「……」
いやありがたいけどね?
時間を確認すると、一般的な朝食の時間まではまだしばらくあった。早朝の空気が肌を温めるにはまだ季節が早い。深呼吸すると、肺の奥が冷たく張り詰めるのが感じられた。
厠に足を運ぶと、先客がいた。掛かっていることを示す錠のマークが赤いのだ。トイレのドアを開けた途端に誰かと鉢合わせ、なんてのは相手が誰であっても気まずい、それが男女なら殊更。なので、僕は廊下の角まで一旦取って返し、じっと中の人が出てくるのを待った。といっても、離れにあるトイレをわざわざ母屋の人が使うわけもなし、どうせ二人のうちのどちらかでしかない。つまり僕の予想が当たる確率は半々だったのだけれど。
トイレから出てきたのは三姫さんだった。理由は分からないがそろりそろりと音を立てないように出てきて、音を立てないようにドアを閉める。そしてきょろきょろと左右を見回し、抜き足差し足で廊下を行く。その様はまるで、何か見られてはいけない何事かをしてきたかのような――いや見られてはいけないから個室になってるんだけど――不自然さを感じる。なんであの人あんなに忍んでるんだ……。そして手に持っていた小瓶は何だったのだろう。
よく分からなかったけど、それ以上気にしている暇はなかった。僕もお客様をおまたせしているのだ。
三姫さんのお母さんの手料理は美味しかったし、お父さん(神主さん)も昨日と同様に暖かく迎えてくれた。山盛りの白米、大根菜の味噌汁、焼き鮭、菜っ葉のおひたし、納豆。純和風の献立は僕の舌にぴったり合って、危うくおかわりまでお願いしそうになってしまった。特に神主さんなんかは奥さんと娘三人に囲まれて大変だったようで、男の子ができたみたいでなぁ、と嬉しそうにしてくれていた。普段はむっつり不機嫌で朝に弱い節菜さんも、このときばかりは外面全開で朗らかに会話を交わしていた。普段からこんな調子で接してくれたら、僕はころっといっていたかもしれなかった。
岡佐倉夫妻に見送られながら、僕たちは学校へ向かった。二人が見えない位置まで来てから、節菜さんは大きく息を吐いて、作っていた笑顔を、デフォルトの気だるげなそれに戻す。「……」
「ごめんね、節菜。パパもママも世話焼きで」
「ううん。いいお二人じゃない」かすかに口角が上がる。これが節菜さんの、飾りのない笑みだ。「三姫さんの親、って感じ」
「えー。なによそれ」
「さぁ、なんでしょうね」
「節菜のいじわる」
「悪い意味で言ってるんじゃないわよ」
「それじゃまるであたしまで世話焼きみたいじゃないの」
世話焼きな辺りや包容力があるところなんかは、この親にしてこの子ありだな、と思う。三姫さんのお母さんは髪こそあまり長くなかったけれど、目元や口元のふんわりした感じは三姫さんそっくりだったように感じた。
「あら、違うの?」
「違う違う。断固違う。あたし、自分のこと世話焼きだなんて思ったことないし。世話好きだとは思うけどさ」
「それ、同じ意味じゃなくて?」
「え? そう?」
「私には同じ意味に取れるけど」
「かな?」うーん、と鹿爪らしく顎に指を当てる三姫さん。と、途端にげんなりした様子を見せる。「……あうう、朝から自己分析のこと思い出した」
「世話好きは立派な長所だと思うわよ。前に言ってたじゃない、友人からの意見を聞いてみてもよいでしょう、みたいなのがあるんでしょ」
「あはは、ありがと」力なく笑ってから、「あたしの長所……そうだなぁ。目的に向かって努力するとか、よく気がつく……とか書いたら、もっと突っ込んだこと書けって言われてさ。困っちゃって」
「気になったことは独学でもやる、とか」
「独学?」
「志術」人差し指と中指を揃えてみせて、ぴっ、と払う仕草。三姫さんの使う札のことを示しているのだろう。
「あれねー。独学って言えば独学ではあるけど」
「実際、古文書から発掘してそのクラスへ持ってこれたのは凄いと思うわよ。私なんて、幼い頃から鍛錬してこれだもの」
「これだものって、節菜のは飛び抜けてるじゃないの」
「敵わない人も多いわよ」
「そんなもんなのかな。本局の人たちって強いんだね」
「……まぁ、ね。そのために色々やってきた人たちだから」視線が道路に落ちる。
「まぁそれはそれとして」飽くまで変わらない調子で三姫さんが続ける。「節菜の案は取り入れようと思うんだけど、問題がひとつ」人差し指が立つ。
「なに?」
「『具体的には何を独学で学んだのですか』って聞かれても答えられない」
……そりゃそうだ。
「まさか志術式を学びましたなんて言えないしね」
「流れ文字、で良いんじゃないかしら」
「あ、いいねそれ。アピールポイントにはなるかな。草書体をひらで読めます。いいね。……実際にいつ使うかっていうと、微妙だけど」
「いいのよ。努力した証なんだから。実績の半分でしかないのが惜しいところね」
「うん、でも、一つネタができたよ。ありがと、節菜」
「ちょっと三姫さん、こんなところで抱きつかないでよ……」
「いいじゃないの、お礼お礼。うりうり~♪」
楽しそうだなぁこの人たち。
「ごめんね、春詠くん」
「はっ、はい?」唐突に謝られた。
「さっきからずっと黙ってたから。話に入れなかったかな、と思って」節菜さんの腕を抱きしめながら、三姫さんが言う。節菜さんはちょっと赤くなっている。
「いえ、ちょっと、なんていうか、驚いちゃって」
「驚いた?」
「お二人がガールズトークしてるところって、初めて見ましたし」
「やだなー春詠くんってば。本物のガールズトークはもっとどぎついよ?」
どぎついガールズトークってどんなのだろうか。二色刷りじゃなくて赤やら紫やらで文字が構成されているとか、マーブル色の背景になったりとかだろうか。
興味と恐怖が半々だった。
「やっぱり仲いいんだな、って思いました」
「ふふふ、まぁね。ドクターサイエンスだからね」
「ドクター?」
「理科医者」
理解できなかった。
「節菜はずっと一人でやってたあたしの、最初の理解者だから。誰にも言わない言えないことを共有できた、初めての人だからね」
「ははぁ、なるほど。大切な人ですね」
「そ。とっても大切な人」
……三姫さんが何の衒いもなく眩しい表情で言ってのけるその横で、いよいよ節菜さんの頬が真っ赤になる。追撃成功である。節菜さん、こういうストレートな感情表現はするのもされるのも苦手っぽいからなぁ。そのくせクールぶってるふりして激情家だから尚更なんだろう。
「いくわよ三姫さんっ」
「待ってよ節菜、そんなに急がなくてもいいじゃない」
「歩きづらいから腕も離して。誤解されちゃうじゃない」
「あたしは誤解されてもいいけど」
「私はそういう趣味はないの」
「そういう趣味ってどういう趣味かな~?」
「わ――分かってて言ってるでしょうっ!」
「あははは」
「……お願いだから、冗談はほどほどにして」頭を抱える節菜さんだった。
ひとしきり笑ってから、三姫さんが立ち止まった。まだ腕を抱かれている節菜さん、その後ろに続いている僕も、一緒に立ち止まる形になる。
「? どうかしたの、三姫さん?」
「ん。……やっぱり気分晴れないのかな、と思って」
「放っておきなさいよ」素っ気ないふうに節菜さんは言う。
「そういうわけにはいかないよ。……ね、春詠くん」
「……」
「気になってるんでしょ、かづみちゃんのこと」
「……まぁ」
そうか、バレてたのか。
「バレバレよ」「バレバレだよ」
異口同音に言われては、正直に答えないわけにはいかなかった。僕は素直に頷いた。
「気に、なってないといえば嘘になります。かづみちゃんは、きっとあれで良かったんだと思いますよ。僕なんかがどうこう言っていい話でもないですし」それは、節菜さんのことについてもそうだけれど。「かづみちゃんはお兄さんと再会できた、それでいいって、思ってます。二人が幸せなら」
「殊勝な物言いね。――わかってるの、春詠?」
「分かってますよ。いずれ戦うことになるかもしれないってことは」
そうだ。
かづみちゃんが敵に――火鎚さんの味方に回ったということは、すなわち媒介師団側に加担したことにほかならない。それはつまり、僕の命を狙う目的を同じくしたということだ。非戦闘員としてカウントされて、実際に前線で剣を交えることはないかもしれない。けれど、相容れない同士になったことには変わりない。
「そのときに、あんたは立ち向かう覚悟があるの? その甘っちょろい精神で」
「節菜、言い過ぎだよ」
「いいえ、三姫さん。ここではっきりさせておいたほうが、春詠にとっては後々のためよ。――ねえ春詠。どうなの? 『敵』として、一度仲良くなった女の子を殴り倒せるの? 兄を思う妹を討ち倒せるの? 相手の命を、二人分か、それよりもっと奪うことになっても、自分の生を押し通せるの?」
僕は。
「言いなさい、春詠」
僕は、無言で左の拳を振りかぶり。
節菜さんの顔めがけて。
真っ直ぐに。
撃ち込んだ。
「ちょっ、だめっ――」
三姫さんの制止は、やはり僕に向けてのものではなかった。
渾身の左ストレートはまるで予期されていたかのように最短の動作で上ってきた節菜さんの右手に運動軸をずらされ、同時に節菜さんの顔が横へスライドしたために、彼女の右耳の更に外側を通り抜けた。運動エネルギーを移す場所を失った身体は前のめりになり、そのタイミングで左脇の下を支えられ、僕の左半身はぴったりと沿った節菜さんの背中の上を滑る。そして腕を引かれるまま、腰を軽く上げられて体勢を崩されば、一丁上がり――いや、一本上がりだ。
僕は空中で半回転して、背中から地面へと叩きつけられた。それはつまりよくやられている組手の再現をまたワンシーンやってしまったということになる。
つまり、美しいまでの一本背負い。
「乙女の顔をぶん殴ろうなんて、いい度胸してるわね」
すっくと立ち上がり僕を見下ろす節菜さんの表情が、サディスティックな笑みに彩られている。
「それ、オトコのコをかるがる投げて、とどめ刺してるひとの台詞じゃないっす……」
三姫さんが助け起こしてくれたものの、まだ少し咳き込む僕だった。
「一応、それを答えと受け取っておいてあげるわ。それで済んだのをありがたく思うことね」
「はい……」
どうせ当たらないでしょうあなた、とは言わないでおいた。流石の僕も二回連続で地雷を踏みに行くほど勇気はない。
三姫さんが背中をぽんぽんと払ってくれる。天使の様な人だ。巫女だけど。
「気は済んだ、節菜?」
「まあ、ね」
制服のタイを直す節菜さんの手を、三姫さんが取った。「じゃ、いこっか」更に僕の手も握って、まるで仲の良い三人兄弟みたいに歩き出す。
「ちょっ、三姫さん……」
「こうしてると、なんだかきょうだいみたいだね」
「もう……」
「う、うーん……」
節菜さんは複雑な表情――多分に羞恥と伊達に満ちたもの――をしつつも、三姫さんの笑顔に押し切られてしまっていたらしかった。僕はといえば、そう、綺麗なお姉さんと手を繋げて、嬉しくない男子高校生はいないと答えておこう。




