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「……ひどい目にあった」
自宅までの道のりを一人歩きながら僕はぼやく。
あのあと冷静に取り乱す節菜さん――矛盾しているようだけど本当にそうなのだからしかたない――を三姫さんが宥めつつ、駅前の丁字路で二人と別れた。節菜さんがあそこまで取り乱すなんてよっぽどのことがあったんだろうけど、流石にそれを聞く蛮勇は僕にはなかった。
ああ、左手のやけどがじんじんする。自分でも顔を顰めているのがわかる。まぁ、こんな即物的な痛みは普段のあれよりマシだ。骨の髄を液化窒素に浸されているような痛みに比べれば。
「かづみちゃん、心配してるだろうな……」
痛みから逃避するために家のことを考える。おかえりなさいと言ってくれるかづみちゃん。玄関までちゃんと迎えに来てくれるかづみちゃん。お掃除もしてくれるかづみちゃん。勉強を教えて欲しいとせがんできたり、さらさらした黒髪をこてんと預けてくれたり、人懐っこく膝に乗ってきたり。ゲームで負けると目に見えてしょんぼりするのが可愛いけどちょっとかわいそうで、でも手を抜くとそれはそれで悔しいらしい。ほんの数日前、最初に会ったときの、今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気は随分と払拭されて、年齢相応の、普通の女の子になってきていた。あぁ、かわいい。癒される。家で迎えてくれる人があまりいなかった僕にとって、帰宅した時に誰かが家にいるというのは新鮮なきもちだった。
そうして僕は家へ着いて、鍵のかかっていないドアを開ける。
「ただいま」
声をかけて靴を脱いで――気付く。
人の気配が、ない。
「かづみちゃん?」
いないのだろうか。いや、しかし。こちらへ来てから毎日、寝泊まりは三姫さんの家で、それ以外のときは僕の家へ遊びに来ていてくれたのだ。今日に限って遅くなるなんてことが、あるのだろうか。無いとは言い切れないけれど、でも、引っかか――
あ。
と、思い当たった。
「あ……あ……」
ぞくりと背筋が跳ねる。
最悪の想像に、全身が強張る。
もし。
もしだ。
もし彼らが僕のこの腕を潰す以外の方法で、僕を殺す以外の方法で、武月の能力を封じようとしていたとしたら。もし彼らがもっと長期的な視点でもって、能力の囲い込みを狙って、これ以上武月の能力を広めないことも視野に入れていたとしたら。そして、かづみちゃんの存在を、かづみちゃんの目的を、知っていたとしたら。そして、かづみちゃんが僕の家に泊まったことを知っていたとしたら。
――敗因があるなら、潰すだろう。
それがたとえ些細な一点であっても。
僕の、落ち度だ。
自分だけが狙われていると思い込んで、安心しきっていた。
考えろ、考えろ、考えろ。まずはどうする。連絡。そう、連絡だ。節菜さんか。だめだ、今あの人はだめだ。なら三姫さんだ。そうだ、三姫さんに。携帯を取る。手が震えてうまくいかない。なんとか電話帳を呼び出して、三姫さんの名前を見つけて、コールする。一回、二回、三回。
『春詠くん?』
「三姫さん、かづみちゃんが」
受話器の先で息を呑む音が聞こえた。
『分かったわ。今行く』
携帯を閉じる。
意識して身体を抑えないと、何か、自分が自分でなくなるような気がした。自分で自分を許せなくなる気がした。三姫さんと節菜さんはすぐにやってきた。節菜さんは僕を見た瞬間、つかつかと大股で歩いてきて、パン、と頬を張った。痛みは感じなかった。ただ、耳鳴りがした。
「莫迦。春詠。右手まで壊したいの?」
「あ……」
節菜さんに手を外されて、気付いた。僕は左手で、自分の右手を握りしめていた。武月の能力が無自覚に発動していて、右手には青黒い手形が痣になっていた。人の首を締めたらこうなるのだろうかと思った。
「さっくり結論から言うけど」節菜さんは大袈裟にため息をついて、呆れ果てた声を出した。「かづみは無事だから、落ち着きなさい」
こんな状況で気休めを言う人じゃないはずなのに。かづみちゃんが大丈夫、だって? あのか弱い子が、浚われたっていうのに。放置しておいていいっていうのだろうか。助けなくてもいいというのだろうか。そんなはず――ないじゃないか。
「あぁもう、ちったぁ人の話聞きなさい!」
「春詠くん、落ち着いてってば!」
「これが……落ち着いていられるわけ……」
「無事な根拠は」節菜さんが叫ぶ。「芒生火鎚が、芒生火堆の兄だからよ」
……。
……うん?
今なんて?
「かづみの本名は芒生火堆。死凶血禁、禁番四家が一家、熱の葛生の分家の子よ」
力が抜けた。それを確認したのか、節菜さんと三姫さんは僕の拘束を解く。尻もちをついた僕を、二人が見下ろす。
「でも……だからって、安全だとは」
「半分くらいは知ってるでしょう? あの子の事情ってやつを。私の口から言って補完してあげたほうがいいかしら?」人の身の上を語るなんて趣味じゃないけど、と節菜さんは面倒くさそうに付け加えた。
「つまり、あの襲撃は最初から陽動だった、と?」
「そう考えるのが妥当でしょうね」節菜さんは頷いた。
そう、なのだろうか。
ともかく僕は、かづみちゃんがお兄さん――火鎚さんと、恐らく無事に再会できただろうことを嬉しく感じていた。だってそうだろう。あんなにお兄さんのことを思っていたんだから、それが哀しいことであるはずがない。そこに僕個人の感情を差し挟む余地はないし、もしそれが許されたとしてもやはり僕は祝福しただろう。生き別れることも、死に別れることも、辛いことだから。
「美談でもなんでもないわ。本局より兄を取ったって話なだけよ。少なくとも生きていくことに不自由はない環境を捨ててね」
そう言う節菜さんを、三姫さんがちらりと見遣る。しかし、節菜さんはまるで気付いていないかのようにこちらを真っ直ぐに見つめたままだった。
「それで、春詠。あんたはどうするつもりなの?」
「どうするって……何をです?」
「かづみちゃんのこと」三姫さんが身を乗り出す。「だって、かづみちゃんが向こうへ行ったってことは、敵になっちゃったってことよ?」
「あの子を敵に回して戦う覚悟があんたにあるかって聞いてるのよ」
「あ……」全然考えてなかった。
「そんなことだろうと思ったわ」節菜さんは嘆息する。「春詠。あんたがどうあろうと、私たちはあんたを守ることに変わりはない。それは絶対の方針よ。あんたが――いえ、あんたの左腕を、媒介師団に渡すわけにはいかないの。あんたがどんなに拒否しても、私と三姫さんはあんたを守る。いいえ、守りすらしないわ。渡さないために、手段を選ばない」
それはつまり、僕自身には価値がないということだ。両者が本当に価値を見出しているのは、この左腕、この能力だ。けれど、僕はこの左腕の持ち主として、暫定的な能力の所持者として、決断を下さねばならない、のだろう。
「戦う気があるなら私たちと来なさい。戦う気がないなら、あんたはここでリタイアよ」
「行きます」
迷いはなかった。
元より、この左手を手放す気なんてない。
「良い返事だね」にっこりと三姫さんが笑う。
「じゃあ早速出発するわよ。春詠、支度しなさい」
え、えっ。どこへ?
「三姫さんの家、岡佐倉神社よ。神域は防衛に最も適した場所なんだから」
「それ、晩飯までに戻れます?」
「決まってるじゃない」片眉を上げて、「無理よ」
「……晩飯の準備してからで、いいですかね」
「いいわよ。私も服を取ってこなきゃいけないから」
「あたしはどうしよう。どっちか手伝おうか?」
「春詠についててあげて。こいつ一人じゃいざってときどうしようもないから」
「りょーかい」
酷いことを言われたが真実なので反論しないでおこう。
「どうしよう、春詠くん。晩御飯の準備手伝おうか?」と三姫さんが申し出てくれるも、僕は丁重に辞す。適当に有り合わせのものを揃えるならすぐにできるし。それにしてもなんか最近、パーティしたり出掛けたりで財布が痛い。
「身体が痛いよりマシでしょうよ」
「お金が飛んでいきますよ」
「命が飛んでいくよりましでしょうよ」
そりゃそうだけど……。
僕は三姫さんにこっそりと耳打ちする。
(節菜さんって、お金持ちなんです?)
(よくわかんないけど、お金には困ってないみたいよ。住んでるところは物凄いオンボロアパートだけど、金遣いは荒いし、多分本局に退魔報告を水増しして……)
「そこ。聞こえてるわよ。人聞きの悪い事言わないで、三姫さん」
「あ、あはは……」まぁともかく、と三姫さんは仕切りなおして、「三十分後に駅に集合、でいいかな?」
僕も節菜さんも、特に異論はなかった。
Intersect2-2 IN.
芒生火堆はずっと守られる側にいた。
芒生の家系は葛生の分家ながらさほど力を色濃く受け継いでいるわけではない。しかし志術使いの血が薄まり、技術が拡散し、断絶した家や離散した家系もある現代で言えば、そのさほど強くない力も禁番志術の貴重な素子として扱われていた。
火堆は、有り体に言えば箱入り娘であった。幼い頃は父に可愛がられ、母に優しくされ、兄の後をついてまわった。幼い頃から思い出すに、あまり何かに不自由したという記憶はない。そんな火堆が唯一欲しかったものが、友達だ。同年代の、同性の、異性でもよかったけれど、血縁でない、気のおけない知り合いが欲しかったのだ。父は年に一、二度死凶血禁の会合に赴くことがあって、火堆も何度か連れて行ってもらったことがあるのだが、そこには火堆より少し高い年齢の、お兄さんやお姉さんしかいなかった。幼い火堆はそれをたいそう不満に思ったものだ。
そのとき見かけた美しいおねえさんの姿は、今でも覚えている。月明かりを受けて輝く長い黒髪は、彼女が身動ぎをするたびにさらさらと流れた。それはまるで極上の絹をすり合わせて音を奏でる楽器のようでもあり、あらゆる艱難辛苦に苛まれようともしわやしみの一つもつかない無縫の天衣にも思えた。それが時神の末子の嫁、すなわち時神殺那だと知ったのは、後になってからのことだ。
幸せな生活は唐突に終わった。死凶血禁本部での内乱で父母が死んだのだ。芒生の家名は年端もいかない兄妹にのしかかった。その少し後から、火堆は試務の任を命ぜられた。兄の働きは目覚しいものだったが、しかし、それだけでは家名を支えるに足りなかったのだ。どんな効果があるのか分からない薬をいくつも飲まされ、よく分からない術をいくつもかけられ、体調は日に日に悪くなった。プライベートも何もない、詳らかな観察と検証ばかりがあった。髪質も悪くなって、あまり長く伸ばせなくなった。体力が無くなった。ぼんやりすることも多くなった。元から細いほうだった身体は更に痩せて、女の子らしい膨らみも得られていない。それでも、たまに会いに来てくれる兄は優しかったし、兄の役に立てていることが嬉しかった。たった二人の兄妹だから、一緒にいられるだけで良かった。
けれど、一年前にそれも終わった。兄が、媒介師団に――当時はそんな呼称は広まっていなかったが――加担して、死凶血禁を抜けたのだ。当然火堆の身にも疑いがかかった。結局その嫌疑がどうして晴れたのかは定かではない――その頃の記憶が、火堆にはないから。気付けば試務の部屋で、ただ泣いていた。一人ぼっちが寂しくて、兄のしたことが信じられなくて、誰にも聞かせずにすすり泣いていた。少女の心は確かに一旦壊れかけた。少女を繋ぎとめたのは、兄が戻ってきてくれるかもしれないという、極めて非現実的な希望だけだった。自分が死んだら兄が帰る場所がなくなってしまう。だから、生きなければ。そのために胎を差し出す命令を出されたときも、その気持ちが嫌悪感に勝った。そして――。
そして、今、兄妹は再会している。互いの存在を確かめ、互いの近況を確かめ、頬を寄せて互いの無事を喜び合った。そう、妹は、ここにいる。本局の軛の外、誰に憚ることなく互いの心中を吐露できる場所。火鎚は、この場をセッティングしてくれた劫に感謝せざるを得なかった。二人だけの、誰もいない部屋。『時間はないが一晩だけ、兄妹水入らずで過ごすといい』――そう言い残して、劫はこの部屋を出ていった。
「でも、春詠さんは良い人だったんだよ、お兄ちゃん」涙の跡を拭って、火堆は言った。「わたしのこと怒ってくれて、優しくしてくれて、お友達も、みんなでパーティしてくれた。すごく楽しかった。お兄ちゃんも絶対見つかるって、言ってくれた」
火鎚は何度も何度も頷いた。妹を肯定した。妹がここまで感情をあらわにしたのはいつぶりだったか分からない。
「お前が無事でいてくれた、それだけで、俺は……」嬉しい、と言い切れなかった。涙と共に飲み込んでしまったのだ。けれど妹には充分に伝わったのだろう、火堆は嗚咽しながらも頷いた。
「済まなかった。お前を本局に置いて……俺だけが」
「ううん、いいんだよ、お兄ちゃん。だってこうやってまた会えたんだもん。だから良かったんだよ。お兄ちゃん、わたしのためにがんばってくれたんだよね。分かってたよ。わたしも、お兄ちゃんのために、がんばったんだもん」
「そうか……」強くなった、と火鎚は思った。いや、火堆はもうずっと前から、火鎚が気付かないうちに強くなっていたのかもしれない。泣き虫で甘えん坊で、火鎚の後をちょこちょことついてきていたあの妹が。こんなに立派になったのか。俺はそれに気付いていなかったのか。喉の奥からせり上がってきた熱量が目頭まで上ってきて、とうとう火鎚はそれを堪え切れなかった。
「なぁ、頼むよマーク。今回は本当にまずいんだ。俺の命がかかってる」
『借りはもう返しただろうよ。おめえの命まで守るほどのもんじゃあなかったはずだぜ』
「そりゃあそうなんだけどさぁ……」
『それにだな、オレぁおめえのそのやり方は気に食わねえと言ったはずだ。加担はしねえ』
「うーん……困ったな」
『他に話がねえンならオレぁ帰るぞ』
「分かったよ、また会おう。今日はどこのお相手だい」
『二丁目の更級』
「あの毛足の長い子か。とっかえひっかえだね」
『チッ。あばよ』
「じゃあね」
酷いどら声の主が消え、薄暗い隠れ家は一瞬静寂に包まれる。ちびた蝋燭のおぼろげな明かりに浮かび上がるのは時戸公の苦笑、それとどことなく硬質な印象を受けるエプロンドレス。
「……猫の美人の基準というのはよく分かりませんね」
「香りがいいんだとさ」
「フェロモンですか。ならば分かります」
「人間も動物だからね」
「ところで、良いのですか?」
「うん? 何が?」
「襲撃は畳み掛けるのが基本です。昼に夜に、続けざまに。そうすれば相手も神経を張り詰め、より効率良く疲労させることができます。幸いこちらは、白黒様によって神出鬼没性を確保できていますし」
「んー、秋さんの言うことも尤もなんだけどね。色々と、積もる話もあるだろうから」
「そう仰るなら、強くは言いませんが」元より説得する気もないのだろう、秋は引き下がった。第一こんな程度の説得で動く人間なら秋を雇えはしまい。
不意に一定のリズムでドアを叩く音が響いた。この符丁は火鎚のものだ。入室を促すと、ぼんやりとパーカーに包まれた長身が炎の橙に照らされる。劫は目を細めて、「話は終わった?」
「ああ。……泣き疲れて眠った」
「君も目が赤いよ」
「うそをつけ」この程度の薄明かりで見えるわけがない。
「せっかく場を和まそうとしたのに。ノリツッコミくらいしてくれてもいいじゃないか」
「……悪いがそんな気分じゃない」
「そうだね。無神経だった」律儀に答えるのは、参っている証拠なのだろう。普段の火鎚なら即座に本題に入るというのに。「それで、さっき言っていた用事というのは?」
「一つは妹のことだ。あれの身柄を匿ってくれないか」
「お安い御用だ。どうせ君もいるし、他にも後ろ暗い――様々な事情を持つ者や、居場所がない者はたくさんいる。君の妹一人くらい増えたところでわけない」
「恩に着る」
「気にしないでくれ。むしろ媒介師団とか呼ばれてても、僕の頼みを聞いてくれる奴の方が少ないんだよ。火鎚はよく動いてくれるから、むしろ俺の方から礼を言いたい気分だ」
よく言う。火堆のことをチラつかせて自分を呼び寄せる手管を、火鎚はよく覚えていた。むしろ慣れっこだった。とはいえそれを差し引いても、劫が色々とよくしてくれたことは事実だ。
「あとは?」
「二つ目は――明馬春詠、のことだ」発音を確認するように、ゆっくりと一音ずつ火鎚は言った。「なんとか殺さずにはおけないのか。どうやら妹の恩人らしい。彼が死ねば妹が悲しむ」
「それは、出来ない相談だな」火鎚を見る劫の黒い瞳の中に、ちろちろと揺れる火が映っている。「君も知っているだろう、火鎚。志術使いは血の一滴を絞り尽くすまで志術使いであることを。彼の血は俺たちにとっても――死凶血禁にとっても――重要なものなんだよ。彼の血を全て利用し尽くすか滅ぼし尽くすかことしか、僕は考えていない」
「その割には、今日は随分のんびりしておいででしたね」と秋。
「……まぁ、今日は特例だよ」痛い所を突かれたとでも言いたげに口調が濁る。「そういうわけだから、二つ目の頼みは聞けない」
「分かった」火鎚は素直に頷いた。「用事は以上だ」
「あ、待った」
「なんだ」
「こいつを渡そうと思っていたんだ。特製の視力増強剤だよ」
放られた小さな小瓶を受け取る。小さな明かりに透かして見ると、数粒の錠剤が入っていた。「なんだ、これは」
「志術的に視力と瞬発力を強化できる」
「また怪しい薬か。アリス、マッドハッター、ダンプティと来て、今度はどんな副作用があるんだ? マーチヘアーか?」うんざりした様子の火鎚。「お前の人体実験に付き合うのも楽じゃないんだぞ」
「今回はさしずめクイーン・オブ・ハートといったところかな。大丈夫、今回は副作用は抑えてある」首を振って劫は笑う。「そもそも志術というのは志氣をスピンさせ、それを一定の方向へ向けて効果を生み出すものなんだ。つまり理論的にはスピンを助長してやれば効果は上がるし、新しいベクトルを生み出してやれば効果が増える。普通は無意識レベルでやっていることだけど、意図的にやるか、人為的に引き出してやるかすれば能力の万能性はさらに広がるはずなんだ。さらに通常単一ベクトルのみのスピンを幾つかの理論を複合させて多ベクトルに重ねあわせ状態を作るとかして相殺しないスピンを持たせられれば、まったく新しい能力や現象が発現する可能性だってあるのだけれど、その反動だって当然あるわけでね。系がシフトする際の歪みというのはなかなかどうして無視できなくて――」
「もういい。お前の技術論は政治家か宗教家にでも聞かせておけ」
「そうだな、技術論はやめておこう。妹のところへ戻ってやりなよ。気を張るのは明日以降。また相談しよう」
「朝にまた来る」
足音もせず、人の気配だけが遠ざかっていく。
それが感知できない距離まで行ってしまったあと、劫は大きく伸びをした。
「今日はもう寝よう。秋さんも休んでいいよ。火堆ちゃん誘拐ご苦労様」
「あの程度なら目を閉じていてもできますわ。軽かったですし」
「……並の人間とは思えない台詞だなぁ」
「メイドですから」
メイドという種族は全員こうなのだろうか。
劫は秋以外のメイドを秋葉原でしか見たことがないから、本職のそれは全員こうなのかもしれなかった。
φ
時神殺那は――戸波節菜は、ぱたんと携帯電話を閉じた。正座の姿勢から、力なく横へ倒れる。色褪せた畳の表面に頬がこすれて、少し痛かった。頬に跡がつくのは嫌だったので、緩慢な動作で仰向けになった。
自宅アパートへ帰った節菜は、なるだけ嵩張らない衣類を選んでデイパックに詰めた。あとは愛刀を持って家を出るだけだったが、その段になって、本局への報告を忘れていたことを思い出した。他にも問いただしたいことはあった。かづみのこと、公のこと、自分のこと、疾のこと。
かづみのことについては、ほぼ彼女の言った通りのことが本局からも聞けた。すなわち春詠の胤をかづみの身に引き受け、その子を宿すという――下衆なやり方だ。それを義祖父の言葉で聞いたとき、節菜は思わず引きつった笑い声を漏らしかけた。思い出し笑いだった。懐かしささえあった。
次に公についての伺いを立てた。静観しろ――それが本局の通達だったが、節菜は強硬に反駁した。自分がとどめを刺す、必ず殺す、と。結論から言えばこの要求は通ったと言っていいだろう、ただし本局はそこへ条件を付加してきた。時戸公討伐隊なるものがこちらへ到着する、その時まで。予定では、後三日。それまでに。
節菜の脳内では様々な情報が目まぐるしく渦巻いていた。自身の目的と、知人の目的と。全てを果たして丸く収めるにはどうすれば良いか、否、場合によっては丸く収めることすら放棄してでも、目的を達成せねばならない。
「どんな犠牲を払ってでも……」声に出してみてから、違う、と心のなかで否定した。犠牲として払っていいコストは、自分の持てるものだけなのだ。正しくはこう言うべきだ。(私の命に換えても)
「――兄さんは、この手で、必ず」
それにしてもなぜ公は私の元へ来たのか。私の周辺が見張られているのは分かっていることだろうに、なぜわざわざ。見つかりに来たのか? それとも本当に春詠の力を欲しているのだろうか。あんなの、ただの迷信だろうに。
あぁ、と気付く。
自分は兄より本局を取るんだ。
かづみとは、逆だ。
その対比が何故かとても可笑しく思えて、笑いがこみ上げてきた。それを小さく吐き出してみると、自嘲に聞こえた。ばかみたいだ。
自分が死んだら、どうなるだろうか。考えてみる。三姫さんにはきっと怒られそうだ。大抵のことは笑って許してくれる人だけど、カンカンになるだろう。部活のみんなも悲しんでくれると思う――私が抜けても、チームは大丈夫だろうけど。春詠はなんと言うだろうか。普段いじめてるけど、嬉しそうにはしないだろう、多分悲しそうな顔くらいはしそうだ。本局の連中は……よく分からない。思い出したくもない、たった一人を除いては。――時神、疾。許嫁にして、夫。部屋の隅へ投げ出していた紅雛汲簪朝桜を手に取って抱き寄せた。
「私が死んだら、あなたは、悲しむ? それとも、次のひとを探すのかな」
あの表情が脳裏によぎる。時折見せる、申し訳なさそうな、泣き出しそうな顔。普段は凛々しさを感じる涼しい無表情をしておきながら、彼はほんの時々、その表情を見せてはすぐに消すのだ。その表情は好きではなかったけれど、少しだけあの時に似ていて、それを思い出した節菜の精神と肉体は、敏感にその時の反応を再現した。節菜は時計を見てから、甘美な自己嫌悪に身を任せた。
Intersect2-2 OUT.




