1-2
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Intersect1-1 In.
初夏の午後三時だというのに、空は夜に似て暗かった。
貫禄太りした虎猫が、雨の当たらない場所から一人の少女を観察している。異様に長い尻尾がゆらゆらゆれる。
昼を過ぎた頃から再び降り始めた雨は、少女の小さな身体を冷たく包み込んでいた。ブラウスとスカート、たった二枚の布は防寒機能など望めない。短い髪からぽたぽたと雫が落ち、人体の輪郭をなぞって、体温を逃がすアースに似た役割を果たす。
根の合わない歯をぎちと食い縛り、少女は自分の身体をかき抱く。凍え死ぬかもしれないと想いながらも、それでも少女は、あそこにいるよりはマシな気がすると思っていた。
寒さもある。
不安もある。
恐怖もある。
疑問だってある。
それでも、あそこにいるよりはマシかもしれない。彼女はそう思う。あそこにいたら自分は本当に死んでしまうかもしれない。凍死ではなくて、閉塞感で死んでしまうかもしれない。何かよく分からないものに押し流されて死んでしまうかもしれない。それは体が死んでしまうんじゃなくて、何か、もっと大切なものが。
それならばまだ、この身体を使った方がいいような気がした。身体を乱暴に扱われても、まだ、生きていける。産むのは大変だろうけれど、その子は多分寵愛されるだろう。わたしも、死ななくて済む。
かづみ――。
すすきう・かづみ――。
頭の中に、時神大老公の声が響きわたる。
『芒生煉瓦と蘭花の娘、芒生火堆。お前を《試務》の任より解く』
死凶血禁本局の大広間。
膝をつき、こうべを垂れたかづみを前にして、時神の大老は言った。
『お前が聞いておるかは知らぬが、芒生煉瓦の父は芒生瓦礫、母は籐。そして藤の旧姓は殻月であった。殻月は武月の分家。つまり、お前は武月の血を薄くではあるが引いているという事になる』
……。
『先日、武月の志術を行使できるという不可思議な男が見つかった。手に入れた経緯は分からぬ。が、この血を失うはあまりに惜しい。なれば、火堆。お前も既に女であろう? その男の下へ遣わすゆえ――』
――血を、その身に受けて来い。
『断りたくば断るが良い。再び《試務》へ返すまでのこと。受けるならば、兄の件も容赦を加える。命を終えた後は万事任せよ』
――さて、返答や如何に。
「…………」
かづみは身震いした。雨は激しく降りしきる。
寒さもある。不安もある。恐怖もある。疑問だってある。
それでもかづみは耐える事に決めていた。
どんなことになっても生き抜こうと決めていた。
それは、再び見えたい人がいるから。
それにしても、とかづみは目の前の家屋を見上げる。雨の中黒々とそびえ立つ日本家屋。まだ見ぬこの家の住人は、いつ帰ってくるのだろうか。
そう、いつ帰ってくるのだろうか。
同じ言葉で、かづみは別の人物に想いを馳せた。
もう帰ってこないかもしれない。もう自分を捨てたのかもしれない。けれどあの人が自分を見捨てて出て行くはずがない。一度の失敗などで自分を置いて行くはずがない。もし置いていったのだしたら――それでも、もう一度、会いたい。
その一念だけが、この薄幸の少女に力を与えていた。
「お兄ちゃん……」
凍えた声で少女は呟く。
もう既に忘れられているのかも知れない。そう心の隅で思いながらも、兄の忘れ形見の小さな刃物を握ったまま。
…
「うっわぁ……ハルちゃん忘れてったんだ。やっば」
あんまりにも間抜けな友人の失態に、五付揺唄は呆けた声を上げた。
春詠が忘れていった『日々是料理 ~お弁当レパートリー366~』を片手に、居間のカーペットにごろんと寝転ぶ。
本日の昼食は、しめじをたっぷり和えた中華風スパゲッティと、ゴルゴンゾーラのリゾット、そして体が芯からあたたまるジンジャースープだった。『ある物を利用するのが主夫の知恵』ということで、あり合わせの材料を見繕って、二人で共同作業したのだ。使い時を逃していた貰い物もなくなって良かった。もっとも、鮮やかな手際の春詠に対して、揺唄は半分見ているだけといった状態であった。
改めてレベルの差を見せ付けられて奮起した揺唄が春詠に講義をお願いし、テキスト(『日々是』以下略)片手にお勉強を繰り広げたのが二時間ほど前。それからティータイムと洒落込み、少々雑談などして、ついさっき、春詠が帰ったのだ。
そしてこの忘れ物である。
届けてやった方がいいのだろうか。雨が降っているし、走って追いかけても、道中で捉まるかどうかは微妙なところだ。
「あ、その前に電話か」
呟いて、ごろごろ転がってケータイを手元に引き寄せる。電話帳から『ハルちゃん』を選び出し、発信。
コールが一回、二回、三回……。接続した音がして、
「あ、ハルちゃん?」
『お客様がお掛けになった電話は、現在通話の出来ない地域にあるか電源が入っていないため、お繋ぎ出来ま――』
「あははー。ハルちゃん物真似上手になったねー本物の女のヒトみたーい……て違ぁぁうっ!」
「ぬわぁ!」
揺唄のノリツッコミに連動して、弾幕シューティングゲームをプレイしていた姉がパソコンの前で悲鳴を上げた。
「ちょっとウタ、いきなり何なんなの! 折角いい感じだったのにしくじったじゃない!」
「えと……留守番電話サービスになんとなくムカついたから、ノリツッコミ」
「なんでノリツッコミしてるのよ、この変人」
「お姉ちゃんに言われたくない」
「私は変態」
「そして変人じゃんか!」
堂々と変態を自称する変人な姉だった。
しかしこの大事な時にケータイの電源を切ってるとは……世話の焼けるハルちゃんだ。揺唄は反動をつけて起き上がる。届けてやるべきか、やらないべきか。面倒臭いけど、どうするかな。
「お姉ちゃん。この場合、呆れればいいと思う? それとも可愛いと思ってやればいいのかな? っていうか届けるべき?」
「んー? 個人的な意見を言っていいなら、ちょっとマイナスかな。やっぱりドジの頂点はコケでしょー。その場にいないと愛玩も出来ないもの」
「……」
「春君がコケたところから、食器やお鍋がガラガラ崩れるという連鎖……そして苦笑しながら『ごめんなさい』って言うのよ。ああ、抱きしめたい!」
揺唄は頭を抱えた。彼女の場合、かなりマジで返ってくる答えがこれだ。大抵の時はアテにならない。
「もう一つの質問には、『届けたいなら届けなさい』と答えるわよ、姉曰く」
「……。そうかなあ」
「今日のお礼の意味も込めて、とか」
「変に思われないかな……」
「思われない思われない。春君その辺は割と単純だから。大体ウタ、あんたも結構世話焼きタイプでしょ。春君なら分かってると思うな」
「そっかあ、そっかなぁ……じゃあ、行って来ようかな」スカートを長ズボンに穿き換えてきて、揺唄は一つ頷く。「うん。行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい。あんまり濡れないようにね」
「おっけー」
「濡れて帰ってきたら一緒にお風呂ね」
「げぇ……じゃあ行かない」
「うそうそ。行ってきなよ」
「絶対だかんね……もう」
それから雑誌をタオルで包み、小さめのバッグに入れて揺唄は玄関を出ていった。
一人室内に残された揺籠は、
「ふぅ……これでやっと極限まで集中できるわ。流石にキーボードじゃきついわねー」
指をぐりぐりと揉み解して、嬉々としてシューティングゲームを再開した。
揺唄が春詠を好いていることは知っている。春あたりから恋する乙女モードに入っていたように見えたからだ。相手が分かったのは、その少しあと。
恋する乙女は綺麗になる――妹萌えの姉としては舌なめずりで迎えたい現象だったし、同時に妹を応援したいという気持ちもある。妹の可愛さを、占有よりは、共有したい。だから不安を取り除いてやった。
『春君が揺唄と会う口実を作るためにそれを忘れていったんだとしたら?』
『運が良かったら春君ちにそのまま上がりこめちゃうかもね』
そんなことも言おうかと思ったが、そんなことを言ったら、揺唄の感情は逆方向に向かっていたに違いない。変なところで天邪鬼なのだ、うちの妹は。
「……あ」
雑念のせいで撃墜された。
「あ~あ。今日はもう無理かなー。集中力切ーれたっ、と」
揺籠は大きく伸びをして、椅子の背に身を持たせかける。それから自分の服の中身へと目を落とし、
「恋、か。私もした方がいいのかなぁ。女性ホルモン出るのかなぁ……」
その中身を覗きこんで、溜め息をついた。
自分の体格はそれなりに気に入っているけれど、やっぱり、妹のを見せ付けられるのは、なかなか辛いものがあった。
揺唄は傘を差して、雨の中を早足で歩く。
――揺唄には、隠し事がある。
それは揺唄にとっても春詠にとっても棘だ。
揺唄は、春詠がそれを隠していることを知っている。
春詠は、揺唄がそれを知っていることを隠していることを知らない。
そして、両者は口止めされている。
死凶血禁という組織。
志術という魔術。
春に出会った二人の上級生と、春に遭遇した不可思議な出来事。
揺唄はそれらの事柄について、然程核心的な情報を持っているわけではない。ただ、それらの事柄に関連するある想いを消されるのが嫌だっただけだ。だから、記憶を封印されるのを断った。引き換え条件として、それらの事柄について今後一切触れないことを約束させられた。後処理の偽装も全て任せた。
――だから、春詠は、揺唄が知っているということを知らない。一度も口に上したことなどない。
『春詠に油断があってはならない』
関係者の上級生、戸波節菜がそう言ったから。
『春詠は、わたしと三姫さんには心を許していない。少なくともあなたに対してよりは。今は、その緊張感からくる機密性を重視したいの。あなたに不自由はかけさせない。だから約束しなさい』
揺唄は了承した。
了承はしたが、そのことを脇に置いたまま、自分は春詠の心へ踏み込めるのだろうか。今の揺唄には自信がなかった。春詠が心の奥に仕舞っている、そして小さくないウェイトを占めているそれらの事柄を無視して、春詠の心を自分に向けられるのだろうか。さらに不機嫌なことに、その自分に向かない部分の春詠の心は、他の女(しかも二人)には惜しげもなくさらけ出されているのだ。それが揺唄の心に荊のように引っ掛かっている。
でも。
揺唄は水溜まりを飛び越える。
少なくとも、こうして少しでも多くの時間を共有することは、出来る。一緒に料理も出来るし、変な話で笑い合える。
そうだ。合流したら家まで付いていって、お茶かコーヒーを貰おう。春詠だって、ここまでして来た女の子をタダで帰すほど甲斐性無しではないはずだ。
タダ?
タダで帰す?
ちょっといい雰囲気とかになっちゃったりしたら? そしたらどうしよう。思い切って告白しちゃおうか。そんでもって軽くキスなんかしちゃったりして、いやいや、でもまだ早いかも知んないなぁ。最初はやっぱり、手を繋ぐ。これよこれ。二人で赤くなりながら手を繋ぐ。王道よねー。でもやっぱり雰囲気に流されちゃうのも手だったりして、そんでもってそんでもって――。
「く、くわーっ! ナニ考えてんだあたしっ!」
自分で爆走させた妄想に奇声を上げながら、雨の中で小躍りしている揺唄だった。
Intersect1-1 out.
雨足が僕を急かしていた。
傘を持っている左腕は、爪を立てる代わりに継続的にマッサージ。こうしておくと少しは疼痛が和らぐ。温もりってのも大切なのだと、現代医学が言っていたんだよ。現代医学が。現代医学すげー。
そうしてようやく自分の家の通りに足を踏み入れたところで――僕は足を止めた。
「ん……?」
誰かが、家の前にいた。
家の階段のあたりに、この雨の中、傘も差さずに座っている。当然ぐしょ濡れ。小柄な女の子のように見えるけど……幽霊とか? まさかね。僕に霊感はない。
小走りに駆け寄って傘の下へ入れてあげると、女の子は顔を上げた。しゃがみこんで、様子を見る。
「大丈夫か、きみ?」
聞くまでもない。一見して分かる精気のない顔だった。長く雨に当たっていたのか、唇は色が悪い。頬から察するに痩せぎすで、短めに切られた髪が頬に張り付いている。
顔に翳を作る長い睫毛が微動して、切れ長の瞳が僕を見上げた。視線を絡ませたまま、女の子が立ち上がる。
「……はい。お帰りなさい」
ともすれば雨音にすら負けそうなほどの声音で言って、そのまま、倒れこむように僕の方に身を預けてきた。水を吸った衣服がこちらの体までじわりと冷やす。
タスケテ……クダサイ……。
よく聞き取れなかった声は、そう言っていた。
「なんなんだ、あの子……」
火にかけた薬缶を見ながら、僕は独りごちた。顔も見たことないし、今時、雨露を凌げる場所なんていくらでもある。それが何故僕の家の前にいたんだろう。何故僕の家の前なのかが謎だ。
とりあえず彼女をお風呂へ放り込んでから、もう十分くらい経つ。様子も窺ったけど、意識を失っているような感じはなかったのできっと大丈夫だろう。
飲み物くらい出そうってことで今作っているのは、定番だけど生姜湯。生姜はもう卸してあるし(ちゃんと使い回しのラップもかけた)、蜂蜜、砂糖も揃えてある。あとはお湯が沸くのを待つだけだ。そういえば、『お湯が沸く』って表現は間違いなんだとどこかで聞いた覚えがある。関係ないけど。
手持ち無沙汰になって居間に移動すると、家電話の留守電ランプが点滅していた。件数は一。母さんからだ。時間は四時三二分。そして用件内容が流れる。
『おーっす、ハルー。母さんよー』
声で分かるし番号出るっての。
『今日も同僚と飲み行くことになったから、帰り遅くなるわー。もしかすると帰れないかもしれないな。ごめんねーいつもいつも。てことで、あたしの分の夕飯いらないから。そいじゃね、愛してるよー』
それから同僚に向かって言ってると思しき『んー? そうですよー。いつも言ってますよ、毎日言ってますよ。母親が息子愛さないで誰が愛してやるんですか。がっはっは』みたいな台詞が聞こえてから、ぶちっと通話が切れた。
「…………」
どうやら今日は新顔さんがいるらしい。
そんな推測の付く自分が嫌だった。
ていうか嫌な親だった。
ふむ。まったく。電話の最後の言葉が『好き』から『愛してる』に変わったのは、何年前の話だったか。正確な記憶はないけど、多分、母さんの中での優先順位一位が空席になった時から、だったんだと思う。
まあ、いい。
お湯が沸く直前の音がしてきたので、僕は台所に戻る。
廊下に顔を出すと、脱衣所に人の気配。どうやら上がったらしい。少し早いと思うけど……どうだろうな。
カップにお湯を入れて、一度捨てる。熱くなったカップに砂糖、蜂蜜、生姜を投入し、お湯を入れながら混ぜる。目分量だけど失敗はあるまい。自分の分は麦茶をセレクト。二つをお盆に載せて、廊下に顔を出し、「飲み物用意してあるから」と声を掛ける。小さな返事が返ってきた。
居間のテーブルに着く。
ふと窓の外を見ると、まだ雨は降っていた。かなり暗い。これは……カーテンを閉めて電気を点けた方が得策か。そう思って膝で移動してカーテンを閉じ、一時的に部屋が闇に閉ざされたとき――背後でドアが開く音がした。ん、と振り向いて、
「ぐわああああっ!」
僕は胆を潰した。
上下。
四肢。
全部。
隅々。
肌色。
つまり。
すっぽんぽんの。
おんなのこ!
色気以前に、胆を潰す!
どこだ、どこだ、どこを見れば僕は犯罪者じゃなくなれるんだ! 壁か! 壁に頭を打ちつけといてそれで気絶でもしてればそうすりゃ少なくとも変な悪戯したとか疑いをかけられないはずだ!
僕錯乱。
「――お願いがあります」
対して、少女の声は冷えていた。
「ナ、ナに、カナっ?」
僕の声は裏返っていた。
「抱いて下さい」
心臓が止まった。
息も止まった。
「抱いて、下さい。わたしを」
「……な、なんで」
「なんでも」
「ど、どうして」
「どうしても」
「ど、どうやって」
「お兄さんの、好きなように」
く、狂ってる。
何か、何か変なものが狂ってる。
「そ、そそ、それより、服だ、な? 服を着よう。ほら、それ、きみ持ってるじゃない。それ着て。ね? 冷静になろう?」
言われて彼女は服を着た。
「ぐわあああっ!」
裾がえらい位置だった。自爆だった。
「お願い……します」
声。
彼女の声に、涙が混じっていた。弾かれるように目を上げれば、もう瞳が潤んでいた。
「お願い……します」
今にも泣き出さんばかりの顔が宙を滑るように寄って来る。気圧されて後退りしても、背後にあるのはカーテンとガラス。逃げ場はない。
「お願いします、お兄さん。わたしを抱いて下さい」
「……う」
「お願いします。ね。お願いします。わたしを、抱いて下さい」
とす、と少女が胸に納まる。柔らかい上半身が僕の胸の上で潰れる。眼の直ぐ下にある湿った旋毛が奥へ流れて、年齢不相応の色が浮かぶ顔が、潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。睫毛が、濡れている。
「ね。お兄さん。わたしなら大丈夫ですから。好きなようにしてください。わたしを、好きなようになさって下さい。ね。……ね? お金もあります。なんなら幾晩でもお相手しますから……」
両脇の下に腕が差し入れられる。自然、腕が上がる。二つの圧迫感が背中へ回る。抱き合うような形になる。
下半身も、押し付けられる。
それで僕が感じたのは――
「震えてるな、きみ」
昂奮ではなく、彼女の身体の震えだった。
「寒いんじゃないよね。なんで震えてるんだ」
「……寒いです、少し。だから温めて下さい。お兄さん」
「それは、嘘だと思う」
この位置からなら、彼女の裸体はほとんど見えない。それも一因だろうが、僕の心の温度は急速に低下してきた。寒くないのに、震えている。その意味するところは一体何なのか。想像したら――一瞬で萎えた。
「なんで震えてるんだよ、身体」
「震えて、ません」
「嘘つくなってば」
「震えてないです」
少女は言い張る。
「さっ――ぱり分からない」
「え……?」
意味が分からない。
意味が分からないな。
こんなことをするのが、本当は恐いんじゃないのか、この子。大体女の子がこんなことを見ず知らずの男にするか。初対面の男に、するか。僕の住んでいる世界の常識では、しない。なのにそれをやらされているんだとすれば。たかだか中学生程度の女の子にこんなことをさせている奴がどこかにいるんだとすれば。
そいつは、げすだ。
「ならさ」
「はい」
「名前を教えてくれ」
「……なまえ」
「そう。名前。きみの名前。僕に呼ばせてくれよ」
「……かづみ、です」
「かづみ? かにアクセントを置く、かづみ? 字は?」
「……平仮名。平仮名で、かづみです。そう呼んで下さい、お兄さん。いっぱい、いっぱい呼んで下さい」
「分かったよ。そうさせてもらう」
そう答えて、僕はかづみちゃんの身体を軽く抱きしめた。一瞬の硬直が僕の予測をますます裏付ける。少なくともこの子に関する予測を。後頭部に手を回して、ぐ、と顔の横に引き寄せる。
「いいかい、かづみちゃん」
「はい……お兄さん」
「僕は、きみに何もするつもりは無い」
耳元で宣言する。
「そんなこと……言わないで……」
「いいや、言うね」
逃れようとするかづみちゃんを締め付ける。これなら、何もされない。
「どうして、ですか……」
「いいかい、君の身体は一つしかないんだ。男はどうか知らないけど、女の子にとっては、身体ってのは、大切なものだと思うんだよ。ロマンチックな言い方をするなら、宝物だ。宝物。それをそう簡単に人に委ねちゃ駄目だ。本心で嫌がってるならなおさらだ。そんなので巻き込まれる僕の気持ちも考えてくれ。僕には全然訳が分からない。そんな大切なものをいきなり渡されたって、驚くだけだ」
とにもかくにも言葉を重ねる。言語は理性。間隙は冷却。水をかけるようなお説教。
「だから、僕は何もしない」
「……」
「それにもう一つ――」
きみの裏にいる野郎の思惑に嵌まるのは嫌なんだ。
その言葉をかき消すようにして、
《ぴんぽーん》
間抜けな電子音が家中に響きわたった。
「あ?」
「え?」
緊張感が全てぶっ飛んで、二人も間抜けな声を出す。
来、客……? このタイミングで? 折角格好つけてたのに。いい感じで緊張してたのに。
呆気に取られているその間隙に、ガチャ、という玄関扉を開ける音が入り込む。それからごそごそ、靴を脱ぐ音。
「こーんばーん。ハルちゃん、いるんでしょ? 上がるよー?」
「うげっ!」
この声は……ゆ、ゆ、ゆ、ゆゆゆ揺唄ぁ!
このタイミングで。
最っっっ悪のカード。
神様。
あなたは馬鹿ですか?
「なんだ、やっぱりいるんだ」かちゃりと開くのは居間の扉。「ハルちゃーん? なんで電気つけてないの?」顔を出すのは揺唄。
その手が伸びるのは居間の電気。
ぱち。
そして、揺唄も固まった。
「…………」
あっちから見たら、丁度、この子――かづみちゃんのお尻が全体ばっちりはっきりくっきり見えていることだろう。ついでに背中に回している僕の腕もきっちり。そしてもしかするともっとやばいところも見えているかもしれないがそれは男の僕の与り知らぬ領域であるからしてカマトトぶって『知らん』と言っておくことにしようと思うんだ。
「ハルちゃん。誰、それ」
笑顔――ではない、本気で顔の筋肉を引きつらせて、揺唄が言った。
「あの、待て、これには複雑な事情があってだな」
「とりあえず、その子、放せ」
「……ハイ」
放す。横に置く。
「そんで、コッチ、来い」
「……、ハイ」
行った。
「歯ァ食い縛れ」
「…………!」
僕、ムンクの『叫び』化。
「ナニを…………、幼女連れ込んでハダカにして抱きしめてナニさらしとんじゃワレはあああああああああああああああああああああ!」
Intersect1-2 IN.
身を冷やす霧雨は一向にやむ気配はない。そんな雨に辟易してか、一匹の虎猫が家屋の軒下で不機嫌そうにしていた。尻尾が異様に長く、不規則性を持って揺れている。
そして、その猫が遠く眺めているのは、六畳一間で顔を突き合わせている二人の少女だった。
双方とも、非常に特徴的な髪型をしている。片や、凝った意匠の艶やかな唐紅のかんざしでまとめ上げた長髪。片や、髪を二束に分け、両耳の上で束ねた、いわゆるツインテール。どちらも昨今の女子高生にはあまり見ない。
二人とも正座で、頭を突き合わせるようにした膝の中間点には、古ぼけ色褪せた小冊子が開かれている。このノートは先ほどかんざしの少女が立ち上がって持ってきたものだ。ということは、この部屋はかんざしの住居。ツインテールは訪問客。友人同士、といったところか。
話を始める二人。
虎猫は、半眼で一部始終を見ている。
「これで『百一物語』は終了。丁度一年ってとこかしら」
かんざしの少女の、安堵が混じりつつも冷ややかな声。この低温は彼女の性格から来るものなので、実質は安堵、やり遂げた感が強い。
不機嫌そうな三白眼に、堅固な意志に基づいて結ぶ唇。その表情は、達観じみた冷徹さと共に、そこはかとなく高貴な印象を漂わせる。その割に、服装はジーンズにジャケットと一般的なものであるが。
「そういうことで、封典はあなたに任せるわ、三姫さん」
「任せといて。ばっちりやっておくから」
二条の髪を揺らして、対面の彼女が頷いた。
「節菜こそ、夜はお疲れ様だったわね。一晩中追ってたんでしょ?」
「まったくよ。臆病な鎌鼬なんて、本当、しゃれにならなかったわ。おかげで昼まで寝ている破目になったし」
うんざりした様子を包み隠さずに、節菜と呼ばれた少女は言った。三白眼の不機嫌さは、どうやら寝不足から来ていたものらしい。その様子を見て、ツインテール――三姫は、黒目がちな瞳を同情に細めた。
「それにしても、臆病な鎌鼬って珍しいね。説得にも命令にも応じなかったんだっけ? あんな成し損ないの儀式で、そこまでの自我が発生するなんて」
「気になるの?」
「式を組む人間としてはね」
「研究熱心ね」
「式を組む人間だからね」
ある人物が過失から中規模の不完全な喚起魔術を行使し、百一種類の妖怪が、周辺地区に時間・場所とも無作為に出現するに至った事件。――それが、『百一物語』の概要である。
戸波節菜。
岡佐倉三姫。
死凶血禁に所属する志術使いである二人はつい昨日、その後始末、つまり百一の魑魅魍魎の封印を完遂させたところであった。
――死凶血禁。
正式には、〈死凶血禁十六番〉という組織である。
それは、志術を行使する人間たちが形成した組合だ。志術とは呼んで字の如く『志』を体現する『すべ』であり、予め行使者が組み上げておいた志術式に則って、行使者の『意志』や『祈願』をより限定的に増幅・集束させて着火源とし、超常的な現象を起こす能力である。
西洋で魔術や魔法と呼ばれているものと似た概念であるため、彼らと同様、志術の使い手達はその能力の有用性を科学に取って代わられた。かつて集めていた崇敬や畏怖の念は崩れ、忌避や迫害の対象へと貶められたのだ。超常的な能力の宿命とも言える運命に、志術使いたちもまた宿命ともいえる選択肢を選んだ。それが、当時各分野で名を馳せていた名家を主軸として結成された、死凶血禁十六番という組織だった。
死への抵抗を究める死番一家。
不幸への対抗を究める凶番六家。
傷病への対処を究める血番五家。
害魔への討滅を究める禁番四家。
――以上四種の家々を、占めて死凶血禁十六番。
もっとも、先述の通り、彼らの『領域』はこの近代社会においてほとんど地位を持たない。十六番のうち半分以上が、市井に散るか、断絶するかの末路を辿っている。
そんな中にあって、禁番が一家・時神の血脈を組む節菜の才能、そして市井に下りて久しいとはいえ凶番が一家・岡佐倉の末裔の存在。若年とはいえ、決して軽くないものではある。
とはいえ。
節菜の方は事情があれど、この二人の肩書きは今のところ、高校二年生と同三年生。さほどの重責を負わされているわけでもない。本日のこれも、会合とは名ばかりの座談会である。――否、であるはずだったのだが、
「ん? 電話だわ。ごめんね」
不意に、三姫の携帯電話が鳴った。ポーチから取り出すと、着信先は『カゴ』と出ていた。五付揺籠。三姫の友人である。
「もしもし?」
『あ、ヒメ? 今どこ?』
「友達んち。――ああ、節菜のとこ」
『巴ちゃんとこ? あ、丁度良かった! 良かったらさ、その子も連れて春君ち来てよ、明馬春詠君ち』
「はい? どういうことよ?」
揺籠の話は大体以下のようなものだった。
妹が春詠の家に行ったところ、家出娘が転がりこんでいたのだが、頑として口を割らない。それで、説得と元気付ける意味を兼ねて、多く人を呼んでパーティとお泊り会を開きたい。そんなことを言われたので、とりあえず三姫に電話してみたのだ。と。
三姫は苦笑するしかない。コメントし難過ぎる。
節菜に了解を取ると、まあいいでしょう、と二つ返事。
「おっけーだって」
『じゃあ途中で合流して買出ししよ。経費は一人千円くらいまでで――』
合流場所や時間など細々したことを話してから、三姫は通話を切った。
「折角だべろうと思ったのに、ちょっと残念かな。それに着替え取りに行くのめんどくさい」
「たまにはこういうのもいいわ。なんなら三姫さん、わたしの服を貸してあげても」
窓の外へと視線をやりながら、節菜が言った。
「へ? いいの?」
「ええ。下着は上下とも新品があるし。服も、ワンサイズ大きければきつくはないでしょう」
「だね。節菜細いし。でも……、う、えっと……」
「なに? なにか問題でも?」
非常に言いにくそうにしている三姫を、節菜が促す。
「うん、あっ! つまり、ほら、あたしと節菜じゃアンダーが全然違うから、ブラの方は借りられないなと思って!」
我ながら上手く誤魔化したものだ、と三姫は胸中で思った。割と女性的な三姫と、割と細い節菜、その違いである。
「そっちは今のやつを使ってもらうしかないわね」言ってから、節菜はぼそぼそと付け足した。「あとその気遣いにはお礼を言うけどどっちにしろ傷つくわ」
固まってしまう三姫だった。
地雷を踏んだらしい。言わなきゃ良かった。
「さ、さ! ま、そういうことならちゃっちゃと準備しちゃいましょ! ね、荷作り荷造り!」
「……」反応のない節菜。視線は窓の外。
一度臍を曲げると節菜は難儀なのに、怒らせちゃったかなぁ……? と三姫が心配になったとき、
「三姫さん」節菜が小さく呼びかけた。「さりげなく外を見てくれる?」
三姫は言われた通りに外を見る。
霧雨の降る灰色の空。道路上の空間があって、向こう側の家。その庭に植わっている槐が一本。動くものは特に無い。
「何か感じ取れる?」
「ん……」三姫は志術感覚を拡大する。禁番の節菜は直接戦闘に向く狭域で精度の高い察知能力を持っているが、広域索敵は凶番である三姫の方が得手だ。五感の優先順位の違いである。「んー、よく分かんないかな」
「そう……」
「でも、考えすぎじゃない、節菜? 誰かに見張られてる?」
「……そうね。意味もないし。せいぜいわたしの目付けくらいかしら」
「かもね。一応カーテンは閉めちゃって、さ、荷造り荷造り!」
シャッ、とカーテンを閉める三姫。その後ろで節菜が洋服箪笥を開け、服の品定めを開始する――。
やはり胸の辺りがきつかった。
というか、やけに強調される形になった。
「…………」
「…………」
微妙な雰囲気になる年頃の少女二人だった。
Intersect1-2 OUT.




