1章 霧雨の夜の訪問者
◆一章・霧雨の夜の訪問者
1
僕はしっかりと安全を確認する。幸い交通量は少ない。クルマの助手席から外へ出て、傘を差した。
歩道側へ回って、カーウィンドウを開けていた先生に改めて礼を言う。
「わざわざありがとうございました」
「いや、これは俺の我儘だからね」
先生はさらりと流す。一つに括った長髪が揺れる。
「むしろ君に手間を取らせて悪いと思っているくらいなのだけど、こればっかりは投げ捨てる気にはないからな。それじゃあ俺は戻るよ、春詠君。帰り道も気をつけて」
「ええ。そちらも」
僕が応えると、先生は窓を閉め、ウィンカーを上げてクルマを発進させた。
僕がちゃんと見送っていると、ブレーキランプを五回点滅させてから、クルマは角を曲がった。
「……、……」
『愛してる』じゃないと思いたい。『気をつけて』辺りだと思いたい。僕は気を取り直すべくしばらく佇んでから、踵を返した。
そこへ、
「あの、きみ」
と声を掛けられた。振り向くと、サングラスをかけた私服姿の若い男性が一人。身長が随分高くて、傘分の間隔が開いているのに僕は見上げる形になってしまう。
「十世高校へ行きたいんだけど、道分かるかな?」
「ああ、はい。地図書きましょうか?」
「いえいえ、記憶力には自信があるから」
「それなら……えっとですね」と頭の中に地図を作成する。「ここの道を真っ直ぐ行っていただいて、川にぶつかったら、左に折れて川に沿って進みます。そしたら校舎が見えてくると思います。堤防が高いから大丈夫でしょうけど、見逃さないように注意した方がいいです」
「あ、成程ね。川を上流に行くのか。いやいやありがとう! 雨で人がいないから困ってたんだよ」
腑に落ちた、という反応をする男性。髭もなくて、洒脱なファッションに身を包んでいるところは、近所のかっこいいお兄さん、といった感じだ。
左手を差し出してきたので、左利きなのだろうか、僕も左手を差し出す。すると、ぎゅっと握られてぶんぶんと振られた。随分警戒心のない人だった。
ん? と男性は唐突に手を離す。
「……ごめん、痛かった?」
「いえ。大丈夫ですよ」
「そうかい。まあ、それじゃあ、ありがとう。――お大事に」
そう言い残して、男性は止めてあった車の方へ歩いていった。
……。
お大事に、か。
「僕、そんなに顔に出てるかな?」
確かめたいけど、生憎手鏡は持ち歩いていない。こんなことでケータイのカメラを出すのも嫌だしな。
僕は今度こそ、目的地へと足を踏み出す。
天気は雨。
少し肌寒い。
雨の日は少し憂鬱だ。七月に入って間もないというのに、今年は例年より早く台風が発生していて、このままの進路だと、ここ、詫船市の近くをかするらしい。梅雨から直接台風とかしゃれ込むつもりだったら嫌だな、と僕は考えるたりする。
四半年に一度くらいの経過観察。帰りはいつも先生が送ってくれることになっているのだが、今日は家ではなく、ツルヤ書店の近くに降ろしてもらった。贔屓の料理雑誌の発売が今日なのだ。多少ぼーっとしながら、駐車場を横切って行く。
――雨の日は、少し憂鬱だ。
シン、シン、と左手が疼く。
泣くように疼く。
寂しがるように疼く。
しゃくり上げるように疼く。
芯々と針々と深々と。
振々と浸々と侵々と。
ただ、疼く。
「――なーんてな」
色々やってみたところで、別に痛みが引くわけじゃあない。ちょっと気を紛らわせてみようと思っただけ。もっとも、こんなことに意味がないのは十年前から承知している。それくらいの付き合いだ。それに、疼くといったって行動に支障はない。少し心が沈むだけ。またはささくれ立つだけ。
――原因は、幼少期の事故。
僕はその事故で、トラックに左手をぐしゃりと潰された。二度と動かないかもしれないとまで医者に言わしめた損傷だったけど、幸いにも、僕の左手は今こうして傘を持っている。諸手を挙げて万々歳だ。なにせ諸手を挙げることすら不可能かも知れなかったのだ。
その時、研修医としてぼくの治療に携わっていたのが、先の『先生』、河原川励先生だ。当時形成外科に出向していた先生は、その時の僕の治癒能力に驚愕したらしい。執刀の先生の腕も良かったんだろうけど、パッと見、普通の人とあまり変わりないところまで形が戻ったからだ。
実際は目を凝らせば、皮膚がいびつになっていたり、色が違っていたりするところもあるし、手術痕も四つ、これだと示せば明確に分かる(それに最近傷痕が一つ増えた)。
ま、ともかくそれ以来、時々こうして経過観察という名目で気にかけてもらって、色々と遊びに行ったりもしているのだった。それは、先生が自分の医院を持ってからも変わらず。職業に似合わずアウトドア派なので、山歩き(ヴァンダーフォーゲルと言うらしい)とか、釣りとか、時々連れて行ってもらったりしている。
もっとも――、理由に関して言えば、僕の方でおそらくの見当はついているのだが。
しかしこれは言うわけにはいかない。その辺りは、節菜さんとの取り決めだ。破ればどんな目に遭うか。恐くて考えたくもない。
「……」
あー……。
今日の左腕は酷いな。
ちょっとばかり、気分に悪い。
「最終手段、かな」
そう呟いて、僕は右手に提げていたトートバッグを、肩へと担ぎ直す。そして空いた右手で、Tシャツの長袖に包まれた左の二の腕を掴み、思いっきり握り締めた。
爪が肉に食い込む。けど奥歯を噛んで真顔のまま。二の腕の触覚が『痛い』とかいう悲鳴を脳に伝えてくるが、そんなもん無視だ。今まで主に疼痛を与えてやがったてめえが悪い。お仕置き。
四秒ほど爪を食っ立ててから、僕はそれをやめた。疼痛はとりあえず、看過できる範囲に治まった。代わりに痛いけど。
悪い癖だってことは分かってる。
母さんにも父さんにも言われたし、ペインクリニックの先生にも言われた。もう一人、言ってくれた人もいる。
けれど、僕としては、これで気付けになるのなら安いものだと思っている。雨の日毎にぼーっとしてたりイラついてたり、そんなのはあまりにも格好悪い。血は滲むにしても、位置は変えてるから傷跡が残るほどには握っていないし、おかげで右手の握力にも自信がある。
精神の安定を保てる代償としては、安いものだ。
なんて言ったら怒られたけどね。
僕は傘を閉じて、丁寧にたたんでボタンを留めて、ガラスのドアを開けて店内に入った。
真っ直ぐ雑誌コーナーに進んで、棚を物色する。
料理、料理と。『日々是料理 ~お弁当レパートリー366~』ってのがあるはずなんだが。しかしなかなかないぞ? どの辺だ?
足元から見回し、目線の位置へと視線を上げる。それからさらに最上段の棚へ。棚は僕の身長より少し高いくらいので、見上げる風になる。
と。
その棚の向こう側にいる人物を発見した時、僕は固まった。そして向こうも、ん、と僕に気付き、それから被っていたキャップの鍔に指をやって、短い髪を揺らして、
「あら。奇遇じゃない、春君」
そのお姉さん――五付揺籠さんは《にっ》と笑った。
なんて……タイミングが悪い。一瞬だけそんな思いがよぎる。
けれど、もう一つの声が、その感傷を忘れさせた。
「え? ハルちゃん? どこっ?」
「静かにしなさいウタ」「公共の場だぞ」
いつものようなきんきん声にダブルでツッコミを入れてやる。すると顔を下向けた揺籠さんの横でうぐっ、とカエルが潰れたような声がした。それから幾分声量を抑えて、
「ハルちゃん? そっちにいるんだ?」
「うん。奇遇だな、揺唄」
「へぇー。いたんだ。びっくり。こーんにち」
「はいよ。こーんにち」
姿は見えねど声はする。本棚に隠れていようが、このきんきん声は聞き違えようもない。
五付揺唄。
丸顔円眼に長髪低身長、クラスメイトのやかまし屋である。
「ていうか、なんでそっちにいるの、ハルちゃん? オトコ向け雑誌ってこっちだよ? そっち女性でしょ?」
「ならなんで二人はそっちにいるんだ……」
と言ってはみたものの、理由は僕も知っている。揺籠さんが、その、美少年とか美少女とか二次元とか、そういうのが好きなのだ。だから男性向け雑誌コーナーの、主にアニメとか漫画とかゲームとか、美少女とか美少年とか、そういう雑誌を贔屓にしているのである(でも時々超本格的な銃器雑誌を読んだりもしているから分からない)。
ちなみに。姉のその嗜好は揺唄にも受け継がれつつある。小さなお友達と大きなお友達。そんなかんじ。
「あたしたちは……むぐ」
言いかけたところで、揺唄の声が途絶えた。動作から考えて、揺籠さんが口を塞いだらしい。続いて小声で何かを言い含め、
「春君。今そっちに行くから待っててね。さすがに棚越しじゃ話しづらい」
「あ、はい」
棚上経由で応えると、揺籠さんは移動を始めた。揺唄の足音も聞こえるから、きっと後ろに付いて移動した。
……ほんと、奇遇。
中学校こそ同じだが、五付家はここから遠いし、今までにこのツルヤ書店で会ったことはない。
揺唄と、揺籠さん。
二人は十世高校でも有名な凸凹姉妹である。
まず、身長差が二十五センチ。一五〇ない妹と、一七〇ある姉。そしてきんきん声の揺唄と、低くて艶のある、さしずめ姐さん声とも表現できる揺籠さん。さらに口さがない奴らの噂によれば、胸の大きさも凸凹だとかいう情報まである。
「……」
数年ほど経過を観察してきた僕としては、揺籠さんに肩入れする意味でノーコメントを貫き通したいところだ。女性ってそういうの気にするらしいし。揺籠さん、悟ってるようでいて弱点には弱いし。
揺籠さんの頭が棚を回り、続いて揺唄も姿を見せた。
服装がこれまた対照的で、揺籠さんはすっきりした佇まいの服装を好む。今日もジーパンにサマージャケット、前を開いて、アンダーウェアはタンクトップ。愛用のショルダーバッグは今日も一緒。キャップは黒で、『A LIVE』の刺繍が入っている。ヒップホップ的な匂いがするね。
僕はトートバッグを左肩に掛け直す。
対して揺唄は、Vネックセーターの重ね着と、プリーツスカート。トートバッグを肩に掛けている。最近髪型を変えることにしたらしく、髪を留めるリボンはない。背中の半ばまで届く髪をストレートに下ろしている。
うむ。今日は谷間とか見えてないな。重畳重畳。フェミニンかつゆったり系の服を好む揺唄なので、そういうことが間々ある。自覚しているのかいないのか、年頃の男子としては目のやり場に困ってしまう。ということで、僕は寄って来る揺唄に向かって親指を立てた。
「今日のお前は良識がある」
「うええっ? ハルちゃん、なんでさっきのこと知ってんの?」
「は? さっき?」
「交番に落し物届けたのよ。拾得物届けとかいうの、初めて書いたわ」
「なぬ?」
なんか変なとこで歯車が合ってしまった。
こうなると始末に悪い。
「何で知ってんの?」
「えっと……勘?」
「勘って、えー? そんなわけないでしょーに。ハルちゃん、ほんとは知ってたんじゃないの? んっ? てことはもしかして……お姉ちゃあん?」
と疑惑の眼差しを向ける揺唄に対し、「んー。どうかしら」と揺籠さんは首を傾げ、
「春君が言ってるのはそっちじゃなくてぇ……服のことじゃないのかなっ?」
だきっ、と揺唄の身体に抱きついた。身長差と長い腕に物を言わせたその様子は、揺唄の短い体躯に覆い被さったとも表現できる。
「ひやああっ! ちょっとお姉ちゃん!」
(うるさいよーウタちゃーん。ここ公共の場)
囁き戦法。
(だったらアンタも自重しやがれ! っていうかそんなんだったらハルちゃんに抱きつきなさいよ! ……ってぇ! ちょっとお姉ちゃんってば!)
くしくしと鼻先を揺唄の頭に擦り付けるようにする揺籠さん。でもって両手は揺唄の胸に触れてたりする。動物(大型犬系)を愛玩するような動きに似ているが、よく見よ、これは姉と妹。
以前呆然と見ていたら後から揺唄に殴られたので、僕はそっぽをむいて、雑誌探しに戻る。あと、揺籠さんは止まらない。無理矢理剥がそうとすると揺唄にセクハラしなくちゃいけなくなる。
《好きなもの:美妹》
こういうとき、揺籠さんの中学の卒業文集にあった一文をいつも思い出す。一人っ子の僕にはよく分からないけど。
あと、そろそろいい加減にしないと……
ゴッ、と横で音がした。
どうやら今回も終わったらしい。見れば、揺籠さんがふらふらしながらどこかへ行く途中だった。
「どうなった?」
頬を上気させている揺唄に訊ねると、
「あんまりしつこいから頭突きかましてやった」
鼻息も荒く答えが返ってきた。
……、よく見れば、なんか、赤いものが点々とついてるような……いや付いている。確実に。床に。お店大迷惑。
「酷いなお前……手加減してやれよ」
「したらやめねーに決まってるです」
フン、と吐き捨てるように言う揺唄だった。少し翠色が入っていた。
《苦手なもの:美妹モードの姉》
同じく卒業文集の一文より。
それから、後頭部に血がついてないかを僕に確認させて、ちょっぴりそれっぽいのが付いてたのでティッシュで拭き取ってやって、結局見間違いだったけど、揺唄はその頃にはどうにか落ち着いてきたらしかった。
「でも、珍しいねー、ハルちゃんが雨の日に出歩くなんて。雨、嫌いって言ってなかった?」
「僕だって、用事さえあれば雨の日でも出歩くさ」
「用事?」
「雑誌。料理雑誌。贔屓のが出てるはずだから買いに来た」
「どんなの?」
「弁当特集なんだけどな」と僕は棚を見遣る。まだ見つかってないけど。
「うわー。マジで主夫だよねぇ……」
げんなり笑顔で言う揺唄。
「僕だってやりたくてやってるわけじゃない」
「嘘だ」
嘘だけどさ。もう趣味の領域。
「それより、そっちはどうなんだ。今までこの店、来てたっけ?」
なんとなく雲行きが怪しくなってきたので、僕は流れを変える。
「うん、あたしたちはこれ」
肩のトートバッグから揺唄がごそごそと取り出したのは、二冊の少女漫画だった。渡される。
タイトルは『sugar-coat Kiss』と『Sugar-Coat Kiss Bran&Branwen』。どうやらシリーズ物の本編と外伝らしい。なるほど。ペンネームからすると女性作家らしいけど、眼や輪郭が程好い大きさで描かれている。作画ポイントが高い。
「こっちがキス、こっちがBB。キスが本編で、BBが外伝なの。本編が月刊なんだけど、作家の人たちが速筆らしくて、週刊にも読み切りが卸される時があるのよ。漫画としては珍しいでしょ」
「人たち? ってことは、グループなの?」
「うん。クランプとかピーチ・ピットとか、そんな風なの」
「成程ね」栗井栄太みたいなもんか。「じゃあ、ちょっと」
揺唄にキスの方を返して、BBの方を飛ばし読みしてみる。ふむ、ふむ。なるほど。兄妹が主人公で、二人の視点で進んで行くわけですか。うん。割といい感じかも……。
と、ばらばらとめくっていたページが止まった。きっと印刷の関係でクセがついたりしていたんだろうけれど、それでも、なんでこんなとこでと思わざるを得ないところだった。
場面は、室内。
妹が、他の女性に惹かれそうになっている男を引き止めるため、ありったけの勇気を振り絞って、半裸姿で気を引く場面だった。
「……」
次のページでは、男が慌てて彼女に上着を着せていた。どうやら修羅場っちゃったりはしないらしく、少しほっとする。
少女漫画には、時々、こういうのがある。五付姉妹が読んでるのは対象年齢が高いものが多いし、僕もこういうシーンを見慣れていないわけではない。
ちょっと不意打ち気味だっただけで。
でもまぁ、実際問題、そうだよなぁ。こんな女の子が目の前に出てきたら、色気云々以前に胆を潰すよ。まったく。
「ん? どしたのハルちゃん?」
「いや……面白そうだと思ってな。一段落ついたら貸してくれよ」
素知らぬ顔で首を振って、僕はBBを揺唄に返した。
「おっけー」快い返事と共に揺唄は二冊をバッグへしまい、代わりにポケットからケータイを取り出した。「それからハルちゃん、いつか空いてる日ある?」
「なんで?」
「んー、なんかね、籠姉ぇの友達が、新しく開店したパスタ専門店のバイトに入ってるんだって」
「つまりまた『店巡り』か。テストも近いってのに気楽だな、おい」
「打ち上げの予定よん。ほらほら早く」
揺唄にせっつかれて、僕もケータイを出した。
店巡り。
ここ一月ばかりで始まった、僕と揺唄の趣味の一つである。要するに、この辺の飲食店を巡って、自分たちの試験場としようという試みだ。僕は言わずもがなだが、揺唄も性格に反してなかなか料理が上手い。今回でまだ四度目くらいだけれど、舌で味わい、舌戦を繰り広げ、そして分かったのは、
『ハルちゃん。そちもなかなかやるよのう』
『いえいえ、揺唄様ほどでは』
ということだった。
……うん。少しふざけた。
実際は僕の方が腕は上。なんてったって、もう五年は実践(実戦)をしているのだから。演習中の揺唄に負けるわけにはいかない。
「その店、どこにあるんだ? オープンはいつ?」
「じゃあケータイ、赤外線にして」
「え? なんで」
「データ送るから」
ピ。
実際音はしないけど。
そうして送られてきたのは、土地情報やアクセス、オープン日、店長の顔写真やオススメ料理などの情報だった。ふーん。便利だこと。
と思ったら、電池が赤になっていた。そういえば昨日は放置しておいたんだっけ……。電源は切ってしまっておこう。
「で、どうよ? それ見て」
「そうだな……」
しかし、この季節は母さんの帰宅が不規則だ。仕事が小康状態だとかで、早く帰ってくることもあれば、同僚さんたちと飲みに行くこともある。時々うちに呼んでパーティもしたりする。昨日とかな。あんだけ飲んで、よく連日出勤できるもんだ。一升瓶空けたんじゃないか、あの人。
「しばらくは断言出来ないな。母さんの方の都合も聞かなきゃいけないし。夜にまた連絡するから、それでいいか?」
「うん、じゃあそれで」
僕は電源を切ってケータイをしまってから、
「あとさぁ……、いつものことだってのは承知なんだけど、揺籠さん、大丈夫なのか……?」
いい加減心配になってきたことを切り出した。
「だいじょぶよ。自業自得だし」
「でも流血までは久しぶりだろ?」
「時々ある」
「そうかも知れないけど、心配じゃないのかよ? 僕は心配だよ。今頃、どんな表情で血を拭いてるんだか……」
「それは、少しは、そうだけど」
美妹モードの揺籠さんには辛辣極まりない揺唄だが、僕としては流血まで来ると少し心配になってくる。背伸びして見回してみても、黒いキャップは見当たらない。
「揺籠さん……どこに駆け込んだんだろうな?」
「トイレでしょ。たぶん」
なんだか棘のある口調に視線を戻すと、揺唄は口を尖らせてそっぽを向いていた。拗ねているか反省しているか、どっちかな。
「なあ、揺唄?」
「……なに」
「確かに、揺籠さんも悪乗りが過ぎてるけどさ、って僕が言うまでもないだろうけど、とにかく、本気の喧嘩だけはしないようにな。揺唄まで血ィ流すなんて、ぞっとしないし」
この姉妹が喧嘩している図なんて想像も出来ないが、想像も出来ないだけに、その想像は空恐ろしかった。
「それは分かってる。今だって別に本気じゃないしさ。あたしだって籠姉ぇは好きだけど。でも、やり過ぎなのよ……」
「やり返すとか」
「……それも手なのかなぁ」
逆に泥沼の一線越えそう……と揺唄は溜め息をつく。何の一線なのかはツッコまないでおく。
「でもま、そろそろあたし、様子見に行ってくる。ティッシュ足りなくなってるとアレだし」
「おう。行ってやれ」
揺唄は一つ頷いて歩き出す。が、すぐに何か思いついたように足を止めて、怪しいにやにや笑いで振り向いた。
「――ハルちゃん」
「なんだ」
「籠姉ぇが鼻にティッシュ詰めてる写真、いる?」
「いるか!」
滅茶苦茶どーでもいいことだった。
つうかお前姉をなんだと思ってる。
と思ったら。
揺唄を見送ってからすぐに、揺籠さんが後ろからやってきた。なんと美しいすれ違いだろうか……、キャップも脱いで、カモフラージュばっちり、鴉漆の短髪がさらさらと揺れている。どう見ても狙ってたとしか思えない。
「……、どうも」
そして美女の鼻から覗く小さな小さな紙片がここまでシュールなものだとは正直思わなかった。面白いを通り越している。
「春君」
「……はい」
僕は軽くこうべを垂れた。
この状況からしたら、言われることは一つしかない。
観念するしかないのだ。
「春君」
「……、はい」
「私の鼻からティッシュ出てる写真、いる?」
「いるわけないでしょう!」
なんだそれーっ!
「なんだ、春君なら欲しがると思ってたのに」
「…………。大体、本当は撮ってないんでしょう?」
「えっと、実は……」
ポケットに手をやる揺籠さんだった。撮ってたらしい。
うわぁ……これこそなんて美しい姉妹シンクロナイズ。ていうかあなたたち姉妹は僕を何だと思っているのですか。僕にそんな破廉恥な性癖があるとお思いなのですか。ていうかどんな性癖ですかそれ。
僕たち三人の今までの付き合いは何だったんだろうか……。
暗澹たる気分だ。
「なんて前置きを置いてると、ウタちゃんが帰ってきちゃうよね」
「前置きで僕の精神を破壊しましたか……」
恐るべし。
「だから、私は端的に言うよ」
僕の戯言を無視して、揺籠さんは、じっと僕の眼を見た。
さすがに、息を飲む。
吸い込まれそうな円かを描く小さな瞳。深い色。どんなに荒れた心でも、どんなに砂塵の立った心でも、奥底まで透過して見詰められているような気分になる黒。
さながらそれは、水を打ったような止水を生み。
さながらそれは、鏡の如く明鏡を映し出す。
自覚させるという、傷の抉り方。
それは、きっと、もしかすると、最もえげつない反省のさせ方なのかもしれなくて――
「約束を破る人は、きらい」
「すいません。今日はつい……」
「自分を傷つけないって、約束したよね」
「……はい」
「腕。出して」
言われた通りに、僕は左の袖を目一杯に捲くる。現れるのは、三つの手術痕と、五月に付いた傷痕、そしてうっすらと血の滲んだ爪痕。揺籠さんはその傷痕を一つ一つ、目視だけで確認してから、
「もういいよ」
「……はい」
僕に袖を戻させた。
もう何度繰り返した儀式だろう。
僕のこの悪癖を、家族と医療関係者以外で唯一見咎めた人、――見咎めて、くれた人。それが彼女だった。中学一年の、六月、体育祭の日。雨天順延になった日。雨を眺めながら無意識的に折檻していた左腕に、手を置いてくれた人。それがこの人、五付揺籠さんだった。
なのに。
僕はまた。
深く自己嫌悪。
「あーあ。これで私、またちょっと春君を嫌いになっちゃったな。残念残念。どうしてくれるのかしら」
「……約束、しましょう」
「やくそく?」
揺籠さんが首を傾げて、僕は視線を絡ませたまま左の小指を出す。
「やくそくです。もう、やりません」
「絶対?」
「絶対です」
「なら、しようか」
つ、と揺籠さんは小指を出した。
僕はその指に、自分の指を絡ませる。やわらかくてひんやりした長い指に。
「少しでも、君が自制できるように」
祈るように呟いて、
「指切った」
揺籠さんは、指を切った。
なにが可笑しいのか、揺籠さんは切った小指を見てくすくす笑う。
「これで左手の指、全部なくなったね」
「ああ……そうですね」
確かに。五回目だ。
「これ破ったらどうするの?」
「んー……、右手に移りますか」
「そんな感じかな。まぁ、いいけど。それより、」ちら、と揺籠さんは僕の左腕を見遣る。それから視線を本棚へ振る。「まだ疼くんだ、それ」
「これでも、一時期よりはマシになったんですけどね」と僕は言う。「やっぱり雨の日になると、なんだか。ペインクリニックの人にも相談したんですが、こればっかりはどうにもならないそうです。冬になると関節が痛むのと同じレベルだとか」
「見た目はすっかり治ってるのにね」
「中身までは元に戻らないってことですよ。使えなくなるかもしれなかったんですから。これくらいどってことないです」
「厄介だね」
「かもしれません」
すっ、と揺籠さんは本棚から雑誌を一冊取り出す。『ミシン縫いの極意・フリル編』。洋服のハンドメイドは、揺籠さんの趣味の一つだ。
「手くらいまた握ってあげても、私は、いいんだけどね」
「いえ。それだと、僕がまずいですし」
「まだ気にしてるんだ、あのこと」
「そりゃ……一応、初めてでしたし」
「ふぅん。でも結構格好良かったけどね、あのとき――」
「揺籠さん」思わず遮る僕だった。
これ以上は、少し、なんというか、居たたまれなくなってくる。勘違いから始まって、勘違いで終わった記憶。揺籠さんにとっては、思いやりから始まって、思いやりで終わらせた記憶。なんともかんとも、甘酸っぱいなんてレベルじゃない。胃酸のように胸を灼く。これが甘く熟すには、まだ時間がかかりそうだった。
「できればそういうのって、胸にしまっておきたいんですけど……。男ってそういうとこ、デリケートに出来てるもんなんで。ね?」
「なのかなぁ? 男の子のことはよく分からないけど」
「じゃあ、そういうものなんです。メンタル面では弱いんですよ、男って」
「へぇ。じゃあこんなのはどうかな?」
そう言いつつ揺籠さんが腕を伸ばしたのは、僕の頭上の棚。そこから一冊取り出して、表紙を確認して、渡してくれる。ピンク色のポップな文字で、『日々是料理』、以下略。間違いなくこれだった。
「頭越え。どう?」
「これもある意味きついです。かなり」
「あっははっ、やっぱりそうなんだー」
朗らかに笑う一七〇センチオーバーの女性。……。恩のある人だから言わないけど、揺籠さん以外だったら指摘してやっているところだ。
すると、揺籠さんが何かに気付いて、素早くキャップを被り直した。その動作から少し遅れて揺籠さんとは反対側からやってきたのは、捜索隊の揺唄小隊長。プライベート・ユリカゴさんはここでした。
「お姉ちゃん、どこ行ってたのよー? トイレ行ってもいないし、他の売り場行ってもいないと思ったら、こっち戻ってたの?」
「ごめんねー。なんか入れ違いになったみたい。春君の雑誌探してたのよ」と揺籠さんが僕を示すので、僕もそうだと同意する。
「じゃ……、目的のもんも見つかったし、僕は帰ろうかな」
「え? 帰っちゃうの?」
いや、他にどうしろと。
「用事終わったし。もうすぐ昼だし」
「あ、そっか。それもそだね」と所在なさげに毛先に指をやる揺唄。
その時、ぽむ、と揺籠さんが手を打った。
「なーんだ。だったら、春君。このあと、ウチに来ない?」
「は?」「はえ?」
揺籠さんの提案に、僕と揺唄、二重奏で疑問符を出す。
「十一時二十分でしょ?」右手の腕時計を見て、揺籠さんが言う。「うち、今日は両親がいないの。だから、春君、うちで一緒にご飯食べない? っていうか作ってくれないかな? 揺唄も下手じゃないけど、春君の手料理の方がやっぱり美味しいしねー」
「そういうことですか」僕は納得。
その横で、どーせあたしはハルちゃんより下手ですよーだ……などと呟きながらしゃがんで『の』の字を書き始める揺唄がいた。分かりやすいいじけ方は結構だが、そう落ち込むなって。揺籠さん御自身は論外なんだから。言わぬが花だけど。
「春君、今日、お母さんは?」
「仕事です。例によって」だから今日も僕は一人だったわけで。「じゃあ、そうですね、お邪魔しちゃってもいいですか?」
「むしろ私達からお願いする感じ。いいでしょ、ウタ?」
返事なし。
でも『の』の字が変化して『い』になって二つ並んでいた。
「そう言ってもらえるなら、料理人冥利に尽きるって奴ですよ」
「じゃ、よろしく」
にっ、と笑う揺籠さんに頷いて、僕はレジへ向かった。
横書き用の改行ってこうでいいんですかね……。
慣れてないと非常に入れるのが大変な上に加減がわからない。




