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二十発でカウントをやめた。それから……もう何発目だろうか。
頭が朦朧としてきた。叫ぶ気力はとうに失せている。ただただ、向かってくる黒い塊に拳をぶつける。飛びかけては意識を引き寄せる、引き寄せては飛びかけ、また引き寄せるを繰り返す。
どこも痛くはない。けれど、ただひたすらに体中がだるくて、重かった。眠い気もする。ミルク色の霧の中で拳を振るっている気分。生温い泥沼のなかでもがいている気分。前も後ろも分からなくなって、脳の活動が止まっている気さえしてくる。何も考えられない。何も考えられない。けれど、この拳だけは止めるわけにはいかない。
「あ――」
とうとう空振る。
けれど、それは脱力したからではなかった。当然あるはずの抵抗が無かったからだ。体勢を崩してつんのめる。べしゃ、と情けなく地に倒れてから、慌てて身を起こす。
巨人が、停止していた。
「センリ……?」
その巨体を微動だにせず、起き上がった僕の眼前にぴたりと拳を止めている。それはまるで、心臓と共にそれ自体の時の流れが止まってしまったかの如く。
「上出来……面黒いわ、明馬春詠」
降ってきたのは戸波さんの声。
どこから、と思う間もなく真っ黒な巨体が、ゆっくりとこちらに倒れてくる。逃げなきゃ。潰される。そう思いながらも足が利かない。力が完全に抜けてしまっている。頭の中もぼんやりとしてきた。逃げろ、という体への命令だけが脚を高速回転させている感覚。
視界が横から奪われて真っ暗に染まる。
「……あ」
意識が、飛んだ。
Intersect5.3
春詠の意外にも直情な説得を背に、戸波節菜は校舎目掛けて飛び上がった。
時神志術で上昇気流を起こし、自身の体重を極限まで軽くする。ブレザーと、そしてワイヤーを仕込んであるスカートが風を受け、一人の人間の体を宙に浮かせて、屋上まで一気に運んだ。フェンスに手を掛けて、着地。小さくたたらを踏む。
「さすがに――消耗していらっしゃるようだ」
屋上の全てが見渡せる場所、給水塔の上に、男は立っていた。
――白い紳士。
過去たびたび出現したときと全く同じ、真っ白な礼装。それに身を包んで立っているその男の存在感は何故か薄っぺらく、そして人混みに立っている等身大の人形に似て酷く場違いだった。
刹那は素早く視線を動かす。やはり男の体内以外に志術痕はない。この男は罠を張っていなかったようだ。それは余裕か諦めか、またはそのどちらでもないのか。
「……冗談」
唾棄するように言って、節菜は音もなく鯉口を切る。その動作は相変わらず常人の域を超えて鮮やかだったが、見る者が見れば明らかな疲労を押し殺している様子が見て取れたろう。
時神志術は〈速さ〉と〈軽さ〉の志術。短期決戦型。それを〈重さ〉で相殺されつつ、幾合も渡り合い〈吸収〉された。加えて、人間魂を取り込んだ『魔』との戦闘など、片手に収まる回数の経験しかない。いかな節菜といえど消耗は必定だった。
春詠に任せたのは、属性同士の『反発』を利用するためだ。あのまま節菜が消耗戦を繰り広げるよりは、勝率が見込める。その間に、節菜が志術の大本を断てばよい。
それが――この男というわけだった。
目には目を、歯には歯を。蛇の道は蛇、とも言う。
「名を名乗りなさい」
節菜は相手に告げた。言外に名乗らねば斬るという恫喝を含ませて。相手はそれを悟ってか悟らずか――恭しくこうべを垂れた。
「《堅牢なる魂牢》白黒功席。まみえること叶い光栄です、妹君」
ずきりと。
心が刺激される。
「……面を上げなさい」
「は」
白黒と名乗った男は顔を上げる。その流れるような恭しさが、今は節菜の癪に障った。自分に無表情を強いる。そうでなければ、暗澹たる苛立ちに負けてしまいそうだから。
「兄上の命令ね」
静かな口調で節菜は確認する。
おもむろに男は頷く。
分かっていた。〈媒介師団〉が、この周辺で活動していることの意味。それは確実に――自分へのメッセージだということを。
「あの方からはこう託っております。『そろそろ帰ってこないのか』と」
「……あんたはなんと言われた」
「ただ一言、説得して来い、と」
「……」
「部外者にして新参者のわたくしが言うのも難ですが――妹君。あなたは騙されておられるのです。許婚の彼を悪く言うつもりはありませんが、ほとんど人攫いのように定められた婚儀でありましょう? そんなものに義理立てする必要がどこにありますか」
「義理立てなんて……」
「ならば尚更です」
していない、と言い切れなかった。
「あなたがそちら側にいる理由は、ほとんどなくなる。それに――聞き及んでいますよ。あなたのせいで許婚の彼の立場も危ういと」
節菜は目を伏せる。
「わたしは……応じないわよ。何を言われようと。死凶血禁本局からは、手を出すなと言われて――」
言葉を、止める。
上層部に――任せておく?
どうせ結果は同じだから。今までと同じように。
自分と彼の不利を、あの石黴が生えたような老人たちに任せておく?
今まではそれが利口なやり方だと思っていた。今でもその意識は変わらない。だってそうではないか。物事は効率良く進めなくてはならない。長い物に巻かれろなどと、寄らば大樹の影などと言うまでもなく、権力と権威は大きさ相応に物を言う。組織の力、数の戦力、それを頼って何が悪いのか。死凶血禁たちはそうして通常人に迫害されてきた――そうして生き長らえてもきた。だからこそ――不干渉命令に従っていた。
けれど。
もう、そろそろ、時間なのか。
「……白黒とか言ったわね」
「『しらくろ』ですが。なにか?」
「帰って兄上に伝えなさい」
言って――節菜はゆらりと重心を前にずらした。ゆっくりと、ゆっくりと広がる時間のなかで、節菜は自分の方針を変更する。何度も行く末を反芻し、これでよいのかと自問し、そのたび確信はないと自答する。それでも、そろそろ、自分で動かねばらないと思うから――
「『近いうち、妹がその首取りに参ります』、と」
次の瞬間、屋上に一つ旋風が吹いた。
男の白いスーツが、腰の辺りから真っ二つに裂けていた。
血振りの風鳴り。自分の背後から聞こえるその音へ、白黒功席は褒言を投げ掛ける。
「お見事な《疾さ》で」
「そちらこそ。何もないはずないとは思っていたけれど――」
きん。納刀の音。
「投影札とは参ったわ。隠蔽、上手いじゃない」
「数少ない誇れる技術ですから。紙ですがね」
白黒功席はそう嘯く。彼の言葉通り、その体は紙か張りぼてかという二次元的な厚さで出来ていた。スーツも革靴も、体も腕も脚も顔も、全て。横から見れば一目瞭然であるその奇怪な特徴も、正面及び背面から真っ直ぐに見れば、さながら騙し絵のように立体的に観察者の目に映る。
この術の高度さが『誇れる』程度のものではないことは、志術を学んだ人間ならば誰もが解ることだった。
これならば、確かに罠を張るまでもない。投影札は非常に高度ではあるが、所詮自分の体ではないのだから。
「……では、その旨、しかとあの方にお伝えします。よろしいですね?」
「構わない」
男の二言目はなかった。
節菜が振り向くと、足元に紙幣程度の紙が落ちていた。千切れかかっていて、真ん中がかろうじて繋がっている程度だった。それをポケットにしまって、節菜は屋上からグラウンド上空へと跳びだした。
してやられた。
本体がいないのなら、元からこちらを狙うしかなかったではないか。
普段なら滑空するところだが、今日は『浮姫』があるためそうはいかない。校舎から三十メートルほど離れた地点に着地。
巨魔と春詠の殴り合いは佳境に入っていた。互いが動きを止め、春詠は互いに足を止めたその状態を維持し、そそり立つ汚濁した背面がこちらに向けられる。
「では、とどめと行きましょう」
『紅雛汲簪朝桜』を解いて左逆手に、鞘を置いて『浮姫』は右順手に構える。『浮姫』の刃先を左手で支え、いわゆる『牙突』の構えを取る。
属性同士が反発した際の震動現象を一波躱してから、
(今)
節菜は疾駆を開始する。
イメージを練り上げ、引き伸ばし、〈風〉の禁番志術を起動する。
目標への距離は五十メートル。
その距離を三十倍に思える一秒で駆け抜ける。
常人離れしたその速度を真っ直ぐに維持したまま、節菜は飛んだ。巨魔の背中の中央、心臓部へと左手のかんざしを先に突き刺し、
「時神流・重ね突き変式」
一刹那の間を置いて、かんざしの柄を『浮姫』の切っ先で突き入れた。
確かな手応え。
突き立った刀を軸にして体勢を変え、巨人の肩に降り立つ。
下を見れば、春詠が腰を抜かしていた。呆然とした、何が起こったのか理解できないという表情。彼にしては――「上出来。面黒いわ、明馬春詠」と、節菜は小さく呟いた。相手に伝えることは意図せずに。
直後、核からの供給を失ったゴーレムが繰り糸を失いぐらりと傾く。バランスを失うような真似はせず、節菜は地上へと舞い降りる。
振り向く。
倒れている二人の人間の頭上に、黒い霧が燻っていた。人間と同じくらいの大きさ。
「――消えなさい」
『浮姫』を逆袈裟に振り上げる。霧はかき消えた。残心。血振り。納刀。
「……、……ん」
鞘を掴もうとして、目的の物を五十メートル先においてきたことに思い当たる。そこまで自分が消耗していたとは、と自分の事ながら驚く。精進が足りない。嘆息。
核になっていた男子生徒の心臓部に刺さったかんざしを引き抜く。突き入れる以前そのままの『紅雛汲簪朝桜』を、ひゅんひゅんひゅん、と風鳴りさせながら、時神刹那は戸波節菜の髪を巻き留めた。
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