5章 決滅
◆◆五章・決滅◆◆◆
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志術式。魔法陣。加えて詠唱。
三つの条件を満たした魔術が今、月明かりの照り渡る十世高校のグラウンドに完成した。
その魔術の種類を考えれば、内容は典型的と言っていい。
小動物を供物に捧げ、志術式を組み上げることによって肉体のない存在を作り上げる。惨殺された動物たちの身体はソレの肉となり骨となり血となり、惨殺を怨嗟する声はソレの咆哮となり、あらかじめ志術式を伴って呪縛されていた被殺怨霊たちは、その怨みを持ったままソレの実存核となる。
――悪魔召喚。
そう呼ばれる儀式である。
材料は、軒並み欠陥まみれだったが。
…
手遅れだった。
グラウンドの中央に人影が一つ、魂を抜かれたようにへたり込んでいた。そして――次の瞬間には、本当に魂を持っていかれていた。
その人影の前方空間に生じた真っ黒いもや。その一部が手のように変化したかと思うと、彼を握り、瞬く間に靄の中へと引きずり込んだのだ。悲鳴も上げられぬまま。否、悲鳴を上げる力が果たして残っていたかどうか。
途中で合流した節菜、三姫、春詠の三名は、高校の正門から駆け込んできたところだった。節菜は肩に背負っていた刀の梱包を解きながら、それでも先陣を切って走る。
真っ黒い靄に対して直線的に距離を詰める二人に追随しながら、春詠が呟く。「あれが……悪魔」
呟くと、身体に架せられた重圧が一層重くなったかのように感じる。氷の拘束具を全身に嵌められているようだ。春詠の体内の志術式が反抗反応を起こしていなければ、動くことさえ叶わなかったかもしれない。
あれが何なのか、その正体と仕組みを、春詠は走りながらのレクチャーである程度は聞いていた。
――悪魔。
すなわち『魔』。禁番の敵。
志術的見解では、冷と重の化合『闇』を身体にまとった怨霊の集合体とされる。『闇』は冷と重のほかにも、吸収を司るという。存在自体は、春詠にも信じられた。信じられたが、あんなものと目の前の女性二人は戦おうとしている、という事実が信じられなかった。
真っ黒いもやの形は悪魔には見えなかった。むしろ吸血鬼が霧に変化しましたと言われた方が近い。だが、もや、と一言で言っても、それは巨大だった。目測で測ってみても、校舎の二階程度はある。
黒いもやは、徐々に輪郭を形成していく。
――事態に感づいたのは節菜だった。それでさえ、あるいは勘が良かったと褒められることかもしれない。だが、日常的に《こちら側》に関わっている二人にとっては、それは、遅過ぎた。
動物が殺され、魂の半分が呪縛されていた位置は、いずれも十世高校から一キロメートル、誤差は数メートルの地点。地面を歩く人間には分からない、高空から俯瞰しなければ分かりようもないその事実に、一人黙々と作業をこなしていた節菜は気付いたのだ。
悪魔召喚――とはいっても、実際には、西洋で扱われるようなデーモンではない。が、不幸や不吉という概念を背負った存在を悪魔と呼び習わすのならば、今回のように喚び込まれた、災悪を成す存在もまた、悪魔と呼ぶに相応しい存在ではあったろう。
もやは最早もやとは言えなくなっていた。汚水じみた黒い色はそのままに、生物としての形を成していく。巨木の根を三つ編みにより合わせたような四肢。強靭なしなやかさを誇示する、ネコ科肉食獣に似たなだらかな肩と腰の稜線。そのてっぺんに乗っているのは、ジャガイモめいた顔。目鼻はなく、かすかなでこぼこが生じているのみだ。
唐突に、背から濁った色の羽が生える。蝶が勢いよく羽化した風に。だがその汚らしさといったら、比べるべくもない。
羽根が生えた獣、合成獣、キメラというやつかしら――上手くいっている死体組成に、節菜は舌打ちした。成りかけを叩けなかったのは痛い。こうなったらもう、インターセプトには遅い。本腰を入れた戦闘を繰り広げなければいけない。
それに――実体を持たない『魔』の特性――奴らは基本的に、集合し結合すると力を増す。奴らが二匹いて、融合した場合、その戦力の計算式は乗法ではなく累乗となる。ましてや、今回は魂量が半分とはいえ五匹。そこへ人間を核に取り込んだとなれば――危険だ。経験からして、片手に収まる分数以内に第二段階が訪れる。
節菜は少し速度を落として顔半分で二人を振り向き、「春詠。邪魔なのが一人いるわ。捕まえて。三姫さんはいつものお願い」そう告げる。
三分耐えて、と三姫の声。
「邪魔な――っぐ!」
春詠からは抗議を帯びた声が聞こえてきたが……、三姫がどうにかして口を塞いでくれたようだ。節菜は心内で礼を言う。こんな状況で素人に構っている暇は微塵もなかった。
節菜は前を見た。速度を全力に移す。
刀はすでに左腰に添えてある。紫の護布は後方の地面に落としていた。
節菜は集中する。精神を臨戦態勢へと引き上げる。明馬春詠はこれをやるときに目を閉じていたが、熟練した使い手に、外界の遮断は必要ない。行使すべきときに、瞬間的に、スイッチを入れるように、行使する。それが出来なくては、禁番最強と謳われる《時神》の名は戴けないのだから。
――イメージは、金糸の引き伸ばし。一グラムの金を三キロメートルの糸にするつもりで、両端を掴んで、目一杯に引っぱる。より細く、より長く、より鋭く、均一に。剣ではまだ厚い。刀でもまだだ。槍など全然。棒、紐、糸。水飴状に伸びていくきらめく糸を、真っ白な精神空間でどこまでもどこまでも引き伸ばす。気が遠くなるほどに引き伸ばす。端はどこか。どのくらいあるのか。そんなことは考えない。ただ、白世界に浮かぶ金の線を、見えなくなるまで引き伸ばし、引き伸ばしてはまた拡大し、拡大してはまた引き伸ばす、の繰り返し。
そのイメージが起動を促し、節菜の血中に満たされた志術式が瞬時に稼働し始める。体内の志氣を、志術式で指定された効力の通り変換し、物理法則に干渉する。そうして極限まで引き伸ばされた精神時間を、神経パルスに適用する。
キメラの顔が、がぱぁっと裂けた。大口を開けて、糸を引く様子まで鮮明に視認できる。
短く、咆哮。
怨嗟を塗り込めて音の弾丸にした威嚇射撃。それは音声を触媒にし、本能的な恐怖感情を刺激して心理恐慌を起こさせる、一種の即席呪術である。
しかし節菜は怯まない。向かって行く。彼女にとってみれば、その弾丸は、まだまだ当たらない。遠い。もう数メートル。もう数十センチ。
――見えるのだ。
秒速三百メートル超で振動伝播する『音』が、彼女の目には見えている。透かして見る光景が微細にぼやけている、という認識。タイミングを計れるほどの余裕を持って、認識できている。
それが、時神の使う〈風〉を司る禁番志術の一効果。精神統一による心的時間の引き延ばし。神経回路の伝達速度を数倍に引き上げ、相対的に経過時間を遅滞させる錯覚を得る能力。
「――はァッ!」
眼前まで来た怨嗟に、剣気をぶち当てて相殺する。
脚は止めず。刀を抜かず。精神攻撃には、精神攻撃で挑む。刀を持った『時神刹那』にそんな手段は通用しない。まだ十メートルは残っている距離を、節菜は速度を落とさず駆ける。
自分も、相手も、全てが全て、極々遅滞した動きにしか感じられない。
今の一撃でこちらに興味を示したか、キメラはこちらに向き直った。それでいい、と節菜は思う。所詮は獣の知能。得物をこちらに定めさせれば、少なくとも三姫と春詠、それからもう一人の安全性はぐっと高まる。危険に晒されるのは、自分一人で充分だ。
左腰の『浮姫』を構え直す。――自分の得意武器は短刀なのだが、とふと思う。しかしこうなってしまった以上、仕方がない。
相手は身を低くかがめ、ネコ科大型肉食獣の臨戦態勢を取る。肩までの高さは五メートルはある。四肢は太く、何かの拍子に当たっただけでもタダでは済まない。
速度を落さず、接近。
左から来るネコパンチを横っ飛びで躱す。ネコパンチと言うと聞こえは可愛いが、その実体は丸太か鉄骨が意志を持ってぶつかりにくるのと大差ない。豪風が砂を巻き上げる。
視界を奪われるのを嫌って、一旦距離を取る。すかさず距離を詰めてくるキメラ。勢いを殺さぬ蹴散らす突進。引き伸ばされた時間の中で、節菜は四肢の軌道を見切る。
右後肢とすれ違う瞬間に一閃。振り抜く慣性を殺さず背中から着地、回転受身、納刀し態勢を立て直す。と同時に右から地を薙ぎ払う尻尾。空中側転で躱し、
「ふ――――」
呼吸を合わせて右後肢を一足で駆け登り、大腿部に一太刀を入れる。足裏に伝わる不快な柔らかさを蹴りつけ、痛みに脈打つ背中から地上へ。前転受身で衝撃を殺し、再び立て膝の構え。
睨み合う。数瞬ののちには、両者は動き出していた。
「邪魔な――」
言い終わらぬうちに、春詠は側方から出て来た手に軽く殴られた。三姫の手だった。次いで腕を掴まれて、足が停止する。
「何するんですか三姫さん!」
「きみは駄目!」
ぐ、と手を引き下げられて、春詠は中腰になる。互いの顔が近付く。
「何でですか、戸波さんだけじゃ――」
銅鑼に似た獣の咆哮。声が掻き消される。反応してそちらを振り向くと、抗するように節菜の気迫の声が響いた。
「節菜は大丈夫だから。きみは自分に出来ることをして。今きみが行っても、足手まといになるだけだから。ね、分かるでしょ?」
「……っ」
春詠の顔が悔しさに歪む。
自覚はあるのだろう。ただ、目の前で誰かがやられそうなのを、黙ってみていられないだけなのだ。
「分かるわね? 分かったら実行して」頓着せずに三姫は畳み掛ける。素早く校庭に目を走らせ、「この校庭の中に、普通の人が一人いる。あたしは別にやることがあるから、きみがその人を探して、安全な場所に移して。この校庭から出せばいいから。分かった? 分かったらすぐに動いて」
言い終えると三姫は手を離して、
「それじゃ、お互い無事で」
どん、と春詠の胸を突いた。二・三歩よろけた春詠は、分かりました、と吐き出して、校庭の外周に沿うように駆け出した。
節菜を見る。十メートル以上の体長がありながら俊敏に動き回るキメラもどき相手に、弾き飛ばされるノミのような戦闘を繰り広げていた。
ただし、情けなく見えるのは遠目に見るときだけだ。三姫はその戦闘スタイルを知っている。素早い動きとしなやかな体捌きで衝撃を受け流す、時神志術による的確な一撃離脱戦法。
さて、と気合を入れ直す。人に発破を掛けたのだから、自分の役割は果たさねばならない。三姫の準備は少々面倒なのだ。
それに、春詠の説得に回す時間を考慮せずに「三分」と言ってしまった。それを反故にしたからといって崩れる節菜ではないが、そんなもの、三姫のプライドが許さない。
ショルダーバッグから紙風呂敷を取り出して地面に敷く。そしてスカートのホックを外し、腰から振り落とす。ブラウスも手早くボタンを外して、スカート共々まとめて畳み、紙風呂敷に包む。……実を言えば、春詠をけしかけたのはこれが一因でもあった。さすがに下にショートパンツとキャミソールを着用しているとはいえ、男子の前で服を脱ぐのは抵抗があった。
次に、別の紙風呂敷を取り出し、開ける。中身は三つ。純白の小袖と、真紅の袴、青草の草履。三姫は満足げに頷き、それらを身につける。小袖に手を通し、ぴっと裾を合わせる。ブーツを脱いで草履に履き替え、袴に脚を通す。
バッグの外側から符袋を掴んで身体に掛け、最後に、今日は二股に分けてある長髪をぴっと払い――
〈巫女〉岡佐倉三姫の完成である。
この間わずか一分足らず。早着替えはもはや三姫の特技の一つだった。
(開始)
心の中で唱えて、三姫は走り出す。草履が地を踏みしめる感覚が、《たたたたたっ》と規則的に鳴らす足音が、体を軽くする。それまで着せられていた氷の枷が溶けたようだ。
――『いつもの』。
地面を蹴りながら、三姫は志術符を取り出す。赤い志字で埋め尽くされた五枚を、三姫は一枚ずつ手放し、設置していく。
『普通の人』はすぐに見つかった。
校舎付近に生えている太い松の木、そのすぐ横に、春詠の見知った女子生徒がへたり込んで震えていた。長い髪、肌色セーター、こぢんまりとした身体をさらに小さくして、キメラと節菜の方を凝視していた。否、凝視ではなく、放心していた。
驚くと同時に、疑う。どうしてあいつがこんなところにいるんだ。
「揺唄!」
駆け寄りながら名を叫ぶ。それまで彼女は春詠の存在に気付いていなかったらしく、びくっと肩を震わせたあと、地獄に仏を見つけたかのように涙を溢れさせ、
「は……ハルちゃぁんっ!」
傍まで寄ってきた同級生の胸に抱きついた。体重を支えきれず、春詠は尻餅をつく。胸の中で嗚咽を漏らす女子の処遇に戸惑う。
「ゆ、揺唄……?」
「こわかった……こわかったんだよぉ……」
柄にもなくしゃくり上げる女子の処遇に、本当に戸惑う。このまま抱き止めていいものか、引き剥がすが吉かと迷う。
「あのね、なんだか、……くんが来て……ようす、見てたら……っ、なんかし出して……なんか、気持ち悪くなって……寒くて重くて、あたし……こわくて、こわっ、くて……」
ほとんど聞き取れない泣き声の端々ではあったが、春詠は複数の事柄を瞬時に理解した。同時に、一つの事柄を決断した。
揺唄は、あの悪魔が召喚される場面を見ていたのだ。そこへ加えて、この氷の拘束具じみた重圧と悪寒にあてられた。
――端的に言えば彼女は、独りで『死の恐怖』に耐えていたのだ。それがあの陽気な揺唄を、ここまで追い詰めている。普段意識していないが、揺唄も一人の女の子なのだと、改めて思い知らされる。
「それで、そしたら、誰かの声が聞こえて……それから……」
震える声で続ける揺唄の小さな身体を、春詠は、
揺唄の身体が、不意に温かいものに強く抱き締められた。「ぁ……」とかすかに声が漏れる。共に漏れ出てきたのは――安堵感、だった。手探りで進んでいた暗闇の中で、誰かが手を握ってくれて、
「安心しろ」
その手が、導いてくれた気がした。
その声がよく知っている級友に似ていると気付くのに、揺唄は少しかかった。とても重々しい、頼り甲斐のある声。命綱以上に太い安心感。彼はそんなに頼りになる男だったろうか。揺唄の記憶にある限りでは、それはないように思えたが、それでもやはりその声は彼のものに聞こえて、
「とりあえず、安心しろ」
二度目で確認が取れた。春詠の声だ。揺唄の頭の中が冷静になってきた。ぎゅっとつぶっていた目をおもむろに開ける。両手に握りつぶされた、涙の跡のある学生服が目に入った。第二ボタンも眼と鼻の先に。
揺唄はおそるおそる視線を上に持って行く。するとそこには、
「大丈夫か?」
やっぱり春詠がいた。厳しい顔で、揺唄を見下ろしていた。
揺唄は自分の顔に全身の血が昇ってくるのを感じる。暖かいものも、抱き締められたのも、安堵したのも、手を握ってくれた人も、安心したのも、全部が全部、明馬春詠なのだと、ようやくにして気付いたのだった。
同時に、
いつか直面した入り口のない高層ビル。
あの忌々しい灰色の壁面にひびが入り。
粉々に崩れ去って、中身が戻って来た。
「――あ。え――?」
奔流の如く、思い出す。
五月の二週の欠けていた記憶。戸波節菜と岡佐倉三姫。二つの朝。春詠の胸の傷。そして、あの夕方のこと。彼女らの前に立ったときもこうして怯えていた自分と――そんな自分と同じ状況に立たされながらも、自分への気配りも忘れずに、前を見ていた彼の横顔。
その横顔に抱いた自分の感情も、頭に乗った手の重みも、握ってくれた左手の心強さも。初めて話しあったときのあの横顔に重なる大人っぽさも。
全てを――思い出す。
そうだ。だからラーメンだって誘った。とりあえず。『何もなかった』なんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんなことを忘れるなんてどうかしている。あたしはそんなに薄情な人間だっただろうか――
……、考えるのをやめる。
この感情が思い出せただけで、今は満足だった。背筋は依然として寒かったが、恐怖はほとんど吹き飛んでいた。こんな状況になっている過程はよく分からなかったが、ヒロインよろしく抱き締められているのも、なかなか悪い気分じゃない。
あーあ。
こんなの、惚れずにいられないじゃない。
(……って、んん?)
思考が一段落したとき、記憶のある一部分に行き当たった揺唄は愕然とした。自分が、そんなことを経験していたということを、信じたくない。しかし記憶がそれを信じろと強制している。これだけは……これだけは絶対に思い出さなくてよかった事項だった。
しかも、状況的に似ている気がする。ということは、つまり……?
『そこ』に注意を向けてみる。
冷たさを感じた。
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