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第8話 もう遅い

第8話 もう遅い


 鉄の王国の空は高く青かった。


 初夏の風が街路樹を揺らし、石畳の大通りには人々の笑い声が響いている。


 光の王国とはまるで違う景色だった。


 その街を、レナードは無言で歩いていた。


 護衛を連れてはいる。


 だが王子としての威厳は消え失せていた。


 顔色は悪い。


 目の下には濃い隈。


 何日も眠れていない。


 王国では結界崩壊。


 魔獣被害。


 疫病。


 暴動。


 王宮には毎日苦情が押し寄せている。


 だが今のレナードの頭の中は、一人の女性で埋め尽くされていた。


 エルサ。


 自分が追放した婚約者。


 自分が捨てた聖女。


 そして。


 自分が失った全て。


「殿下」


 護衛が小声で言った。


「離宮です」


 レナードは顔を上げる。


 美しい庭園だった。


 白い薔薇。


 噴水。


 色とりどりの花々。


 柔らかな風。


 鳥のさえずり。


 その光景を見ただけで分かった。


 ここでは大切にされている。


 そう思った。


 庭の向こうに人影が見えた。


 レナードは足を止める。


 息を呑んだ。


 そこにいたのはエルサだった。


 菫色のドレス。


 白銀の刺繍。


 陽光を受けて輝く金髪。


 頬には健康的な血色が戻っている。


 笑っていた。


 穏やかに。


 幸せそうに。


 レナードの知るエルサではなかった。


 あの王宮で見ていたエルサはいつも疲れていた。


 青白く。


 痩せていて。


 どこか怯えていた。


 だが今は違う。


 まるで花そのものだった。


 そして何より。


 彼女は笑っていた。


 心から。


 その笑顔を見た瞬間。


 レナードの胸が激しく痛んだ。


「エルサ……」


 思わず名前を呼ぶ。


 エルサが振り向く。


 一瞬だけ驚いた顔をした。


 だがすぐに穏やかな表情へ戻る。


「レナード様」


 昔なら嬉しそうに駆け寄ってきた。


 だが今は違う。


 距離がある。


 知らない他人を見るような距離。


 それがレナードには耐え難かった。


「久しぶりだな」


「そうですね」


「元気そうだ」


「おかげさまで」


 会話が続かない。


 レナードは焦った。


 以前ならこんなことはなかった。


 何を言ってもエルサは聞いてくれた。


 受け入れてくれた。


 だが今は違う。


「そのドレス……」


「はい」


「よく似合っている」


「ありがとうございます」


 微笑む。


 だがそこに特別な感情はない。


 礼儀としての笑顔だった。


 胸が痛む。


 その時だった。


 離宮の扉が開く。


 アルベルトが出てきた。


 黒い軍服姿。


 鍛えられた体。


 堂々とした立ち姿。


 そして。


 自然な動作でエルサの肩に上着をかけた。


「風が強い」


「ありがとうございます」


 エルサが嬉しそうに笑う。


 アルベルトも少しだけ口元を緩める。


 その光景を見た瞬間。


 レナードの中で何かが軋んだ。


 嫉妬だった。


 猛烈な嫉妬。


 自分だけが知っていると思っていた笑顔。


 自分だけが所有していると思っていた女性。


 それが今、別の男の隣で幸せそうにしている。


 許せなかった。


「エルサ」


 思わず声が強くなる。


 エルサが振り向く。


「戻ってこい」


 空気が止まった。


 アルベルトの目が細くなる。


 だがレナードは気づかない。


「王国は混乱している」


「……」


「お前が必要だ」


 エルサは黙って聞いていた。


「私はお前を許してやる」


 その瞬間だった。


 アルベルトが額を押さえた。


 本気で呆れた顔だった。


 エルサも驚いたように目を瞬かせる。


「許す……ですか?」


「ああ」


 レナードは頷く。


「婚約者の席も空けてある」


 エルサはしばらく黙っていた。


 そして。


 ふっと微笑んだ。


 怒りでもない。


 憎しみでもない。


 静かな笑みだった。


「お断りします」


 レナードの表情が固まる。


「何?」


「戻りません」


「なぜだ」


「理由は簡単です」


 エルサはまっすぐ見つめた。


 かつて怯えていた少女ではない。


 強さを取り戻した女性の目だった。


「私はようやく知ったのです」


「何をだ」


 エルサは一度だけアルベルトを見る。


 その視線は優しかった。


 そして再びレナードを見る。


「愛されるということを」


 言葉が刺さる。


 深く。


 鋭く。


 レナードは息を呑んだ。


「私はずっと勘違いしていました」


「……」


「誰かの役に立てば愛されると思っていました」


「エルサ」


「もっと頑張れば認めてもらえると思っていました」


 声は穏やかだった。


 だが揺るがない。


「でも違いました」


 レナードは何も言えない。


「愛とは取引ではなかったのです」


 エルサは微笑む。


「今の私は幸せです」


 その一言が全てだった。


 幸せ。


 自分の隣ではなく。


 アルベルトの隣で。


 その現実がレナードの胸を抉る。


「私は……」


 何か言おうとした。


 謝罪か。


 後悔か。


 言い訳か。


 自分でも分からない。


 だが言葉にならなかった。


 なぜなら。


 もう遅いからだ。


 エルサは前へ進んでいる。


 自分だけが過去に取り残されている。


 その時だった。


 アルベルトが静かに言った。


「話は終わりだな」


 レナードは顔を上げる。


 アルベルトはエルサの隣に立っていた。


 その姿はまるで彼女を守る壁のようだった。


「帰れ」


 短い一言。


 だが拒絶は明確だった。


 レナードは拳を握る。


 悔しい。


 苦しい。


 胸が潰れそうだ。


 それでも何も言えなかった。


 言う資格がないと。


 初めて理解したからだった。


 庭の白薔薇が風に揺れる。


 エルサはもう振り返らない。


 その背中を見つめながら、レナードはようやく知った。


 失ったものの大きさを。


 そして。


 二度と取り戻せないことを。



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