エピローグ 愛は人を守るために
エピローグ 愛は人を守るために
結婚式から三年後。
初夏の風が王都を吹き抜けていた。
窓の外では白百合が咲き、石畳の通りには子どもたちの笑い声が響いている。
鉄の王国は豊かになっていた。
だがそれは奇跡の光だけが理由ではなかった。
王城の執務室。
大きな机の上には地図や設計図が山のように積まれている。
アルベルトは難しい顔で書類を見つめていた。
「東地区の排水工事はどうなっている」
大臣が答える。
「来月には完了予定です」
「遅れるな」
「はっ」
そこへ扉が開いた。
淡い水色のドレスを着たエルサが入ってくる。
手には籠。
焼きたてのパンと香草入りのスープ、それに果物が入っていた。
「お昼ですよ」
アルベルトが顔を上げる。
先ほどまでの厳しい表情が少し柔らかくなった。
「もうそんな時間か」
「また朝から何も食べていないでしょう」
「少し忙しくてな」
「駄目です」
エルサはきっぱり言った。
大臣たちが笑いをこらえる。
戦場では鬼神と恐れられる王が、妻には頭が上がらない。
もはや王城の日常だった。
「まず食べてください」
「命令か」
「命令です」
アルベルトは観念したようにパンを取る。
焼きたての香ばしい匂いが広がる。
一口食べると表情が少し和らいだ。
「うまい」
「でしょう?」
エルサは嬉しそうに笑った。
それから机の上の設計図を覗き込む。
「下水道ですね」
「ああ」
「進んでいますか」
「かなりな」
地図には王都全体の水路が描かれていた。
数年前まで、この国にも病気があった。
蚊が増えた村もあった。
汚れた水で病人が出たこともある。
だから二人は決めたのだ。
奇跡だけに頼らない国を作ろうと。
「水が綺麗なら病気も減る」
エルサが言う。
「蚊も減ります」
アルベルトが頷く。
「子どもたちも安心して遊べる」
それは派手な政策ではない。
だが確実に人々を守るものだった。
午後。
二人は王都視察へ向かった。
馬車ではなく徒歩だった。
民の声を直接聞くためである。
「聖女様!」
市場で果物を売る女性が手を振る。
「こんにちは」
エルサも笑顔で手を振り返した。
市場には色とりどりの果物が並んでいる。
赤い林檎。
黄金色の梨。
瑞々しい葡萄。
どれも豊かな実りだった。
少し歩くと子どもたちが駆け寄ってくる。
「見て!」
「魚を捕まえた!」
小川の水は透き通っていた。
魚の群れが泳いでいる。
昔は濁っていた川だ。
だが今は違う。
「綺麗ですね」
エルサが言う。
アルベルトは川面を見つめた。
「ようやくここまで来たな」
その時だった。
小さな男の子が腕を掻いている。
「どうしたの?」
エルサがしゃがみ込む。
「蚊に刺された」
ぷっくり赤く腫れていた。
エルサは微笑む。
「掻いちゃ駄目ですよ」
「痒いもん」
「洗って冷やしましょう」
近くの母親が笑う。
「最近は本当に蚊が減りました」
「良かったです」
「昔は大変だったんですよ」
母親は懐かしそうに話す。
「水たまりだらけで」
「病気もありましたし」
エルサは頷いた。
だからこそ排水工事を続けた。
古い井戸を整備した。
上下水道を作った。
放置された水たまりを減らした。
それは地味な仕事だった。
だが命を守る仕事だった。
夕方。
王城へ戻る。
夕食は庭園で取ることになった。
白いテーブルクロス。
燭台の灯。
焼き立ての鱒の香草焼き。
野菜のスープ。
ふわふわのパン。
冷たい果実水。
空には夕焼けが広がっている。
エルサは一口スープを飲んだ。
温かい。
優しい味だった。
「幸せですね」
ぽつりと呟く。
アルベルトが微笑む。
「そうだな」
「昔は考えられませんでした」
「何がだ」
「こんな日が来るなんて」
エルサは空を見上げた。
あの日。
雨の国境で倒れた自分。
愛されないまま枯れていくと思っていた。
だが違った。
人生は終わっていなかった。
アルベルトが静かに手を握る。
温かい。
大きな手。
「エルサ」
「はい」
「ありがとう」
エルサは目を丸くした。
「私の方こそ」
「違う」
アルベルトは首を振る。
「君がいたから、この国はここまで来られた」
エルサは少し考えた。
それから微笑む。
「私一人では無理でした」
「……」
「でも二人ならできました」
アルベルトは笑った。
珍しく声を出して。
「そうだな」
夜風が吹く。
白百合が揺れる。
王都の灯りが遠くに輝いている。
その光景を眺めながら、エルサは思った。
愛とは奇跡を起こす力なのかもしれない。
けれど本当の奇跡は。
誰かを大切に思い。
誰かを守るために働き。
今日より少し良い明日を作ろうとすること。
その積み重ねなのだろう。
かつて愛されず枯れかけた少女は、今や人々を愛する王妃となった。
そしてその隣には、いつも変わらず彼女を愛する王がいる。
夜空には無数の星が輝いていた。
その光は静かに王国を照らし続けていた。




