40、カツ丼
「カツ丼食って敵に勝つどん、なんつってな」
夫はそう笑いながら、首元のたるんだ肉をタプンと揺らした。そして大きな口で、出来立てのカツを噛み締めた。対面に座る妻もそっと微笑んでは、からあげをかじる。
揚げ物は良い、元気になる。それが彼らの持論であり、食卓は脂と笑いに満ちていた。息子が独り立ちして以来、席の余白が寂しい。それを埋めたい気持ちも働いた。
老いを前にした夫婦のささやかな喜び。しかし因果は巡る――行動には必ずツケがついて回るのだ。
「肝臓……ですか?」
夫は震えながら医師の言葉を聞いた。脂質異常で、さらにエコー検査も悪い。進行度合いをもっと詳しく調べたいが、重度の脂肪肝であることは間違いないという。
事実を受け入れられないまま、病院をあとにした。地に足はつかず、どうやって家に辿り着いたか、記憶にない。
「あら? 食欲ないの?」
箸の進まない夫に妻が尋ねた。テーブルに広がる豚テキ、天ぷら、軟骨揚げ。夫は唾液がこみ上げる一方で、背筋も凍る恐怖に囚われた。
(このままでは肝硬変、最悪の場合は肝癌です。節制しましょう)
夫は身体を左右に揺らしながら、のしのしと台所へ向かい、ゴマを取ってきた。それを白飯にかけて言う。
「ちょっとダイエットしたくって」
その嘘は、妻に心配をかけたくない一心からだった。ゴマ白飯、納豆、かつおぶしに生卵と、ありあわせの食材で腹を満たした。やはり味気ない。思わず頭を抱えたくなるが、死の足音の方がよほど堪えた。
こうして始まった節制の強制――彼の試練はやはり厳しいものとなった。街を歩けば広告が、ひっきりなしに誘惑する。新作バーガー、老舗の天丼、至高のヒレかつ揚げ。スマホやテレビでも料理のオンパレード。
堪える、しかし辛い――。二週間も過ぎた頃、彼は疲れ果ててしまった。脳裏は数多の料理で支配されている。誘われるようにして冷蔵庫へ。
キッチンの電気は消したまま、足元をスマホで照らした。
「こんだけ我慢したんだ。少しくらい良いだろ」
レトルト、あるいは残り物、いっそ1枚肉を焼いても良いか。冷蔵庫を漁っていると、はずみで食材が崩れた。
その時だ。彼の手の甲にヨーグルトが落ちた。まるで、イタズラ息子を叱る母の手――のように思えなくもない。
「マジで? ダメってこと……?」
嗚咽を漏らすほどに悩んだ彼だが、結局はヨーグルトを食べる事にした。無糖の味気ないもの、かと思いきや、不思議な食感に目を見開いた。
「あれ? うっすら甘いぞ」
かつてない感覚にパッケージを凝視した。やはり砂糖の類はない、プレーンタイプ。それでも、舌を滑らかに包み込む甘みが、途方もない安堵をもたらしてくれた。例えるなら、羽毛布団をかけられたような。
その日を境に食欲は落ち着いた。そして、緊張の面持ちで再検査を迎えたのだが――。
「以前よりも数値が良くなってますね、このまま改善していきましょう。ただし油断禁物なのはお忘れなく」
医者がそう褒めてくれるので、夫は天にも昇る想いになった。
帰宅も意気揚々。妻が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。今日は暗い顔で出ていったから、心配してたのよ」
始めは訝しんだ妻だが、夫の顔色を見て綻ぶ。
「何があったか知らないけど、良いことあったのね。晴れ晴れとした顔になってるもの」
「そうなんだよ。一山越えたってところかな」
「じゃあこれはお祝いになるかしら? 景気づけにと思って作ったんだけど」
妻が差し出したプレートから魅惑の薫りが漂う。夫は確かめもせず手づかみに食らった。
彼はついにカツ丼を食ってしまった、迂闊なことに――。
ー完ー




