38、母子
実家の母はいつ見ても老いていた。背中が曲がっているせいだろうが、ここまで小さかったかと驚かされる。だがそれも母の問題でしかないとは思う。
「関節はだいたい痛くてね。それと最近は物忘れも酷くて。嫌になるよ」
久々に顔を見たと思えば、聞こえるのは愚痴ばかり。心にじっとりとしたものが、まとわりついた。
「母さんも色々あると思うけど、デイケアの人に相談してくれ。オレは医者でもヘルパーでもない」
「そうよね、そうだよね」
「たまには顔を見せに来るけど、期待しないでくれ。オレも仕事が大変なんだ」
「こうして気にかけてくれるだけで、すごく心強いよ」
濃いめのお茶が注がれた。お茶請けには小分けゼリー、ピーナッツが盛り付けられる中、オレは煮干しの小袋をとった。
「アンタは昔からそれが好きよねぇ」
「健康にいいからな。普段から気を遣ってる」
「何かキッカケあったのかしらね? 覚えてる?」
「さあね。経緯はどうあれ、食うことには変わりないよ」
するとそこへ、ネコの鳴き声がした。母はよろよろと縁側へ向かい、煮干しの二尾を庭に置いた。
「そんなもんネコにくれてやるなよ」
「でもこれ、無添加のやつだから。塩分とか大丈夫だし」
「そうじゃなくて、野良に餌付けするなってこと」
「あの子は地域の子だから。優しいのよ」
母の少ない楽しみを奪うつもりはないが、釈然としないものは感じる。エサを恵んでもらう浅ましさが気に食わない。弱ければ淘汰され、強者は生き残る――それは人も獣も変わらないだろう。
その日は小一時間ほど話相手になり、1人で帰宅した。帰り際に、次に合うのは初夏の入くらいかと、ぼんやり計算しながら。
だがある日、仕事中に衝撃的な知らせが届いた。母が突然、天国に旅立ったという。発見者はデイケアのスタッフで、病院づてで連絡が届いた。
「いや、まさか、そんな急に……」
始終、困惑していたのだと思う。母の亡骸を前にしても、眠っているようにしか見えなかった。それでも葬儀屋と話し、通夜を越えて、読経も聞いた頃にようやく実感した。
母はもう居ないのだ、と。そして唯一の肉親を失う痛みは、想像を絶するものだと。
仕事は3日ほど休んだ。実家に居座り、朝から母の遺影と向き合う。
外に出る気にはならなかった。オレが鬱々としていても、見知らぬ連中は幸せそうに通り過ぎてゆく。楽しげに笑い、明日の予定などを語り合う。それを眺めていると、暗い怒りがこみ上げるので、引きこもるしかなかった。
実家の敷地は田舎特有の造りで、異様に広い。テレビを消すと静寂に覆われてしまう。まるで自宅だけが、世界から見放されたように。
いつしか迎えた夕暮れ時――。庭の方で気配がした。例の野良猫だ。追い払おうとした手を、脇におろして、様子を眺めた。すると母猫のあとを子猫が数匹、追いかけてきた。
「なんだお前達。施しならないぞ」
オレの渇いた声が届いていないのか。親猫は軒下に我が物顔で寝転がり、子たちが寄り添った。
その母子は、口に煮干しを咥えていた――。
ー完ー




