34、電話
今朝、妻と口論をした。きっかけは些細な事だったが、お互い虫の居所が悪かった。
満員電車に揺られながら動画を観る、それも退屈になって景色を眺める。心は全く定まらない。
「あそこまで言うつもりなかったけど」
売り言葉に買い言葉。意外なほどに溜め込んでいたのか、一気に噴出した。それは妻も同じらしい。自分が玄関から出るまで言い合いを続けてしまった。
「謝っとくか、いや……」
チャット画面を開いて、閉じた。今はまだ余韻が濃い。別の火種を生み出しかねないと思う。
帰り際にしよう――それで十分と考えた。
電車がトンネルを進み、窓の外が暗くなるまさにその時、起きた。
『急停車します。Caution please!』
アナウンスとともに、車内のスマホがけたたましく鳴り響く。何事かと考えるより先に、身体は重力に逆らって浮かび上がった。それから、どこか硬い物へと叩きつけられた。
どれくらい意識を失ったのか、自覚はない。冷たいものが頬に触れる感覚で、覚醒した。
「いったい、なにが……」
目に映るものはほとんどない。非常灯がうすらと光る。手には冷たいぬめり、右足から突き抜けるような激痛――。
どうにかスマホを取り出して、辺りを照らす。いきなりライトを照射したことを、強く後悔した。
「みんな、死んでる……!」
悪い夢、それか悪趣味な映画のよう。若者も年寄りも、全員がねじ曲がった姿で動かない。吐き気が込み上げてくるが、それは足の激痛が塗り替えた。
スマホをそちらに向ける。鉄の残骸で、膝から下が押しつぶされていた。
「おい! 誰かいないか!」
自分の声だけが響き、物音はない。救助隊も、生存者も居ないようだ。
「このまま待つなんて……」
不安を吐露した瞬間、状況は動いた。眼の前に岩石が滑り落ちてきた。目と鼻の先が土砂で埋まる。
そして頭上からは金属のひしゃげる音が聞こえた。車両だった鉄の箱が、崩落を辛うじて防いでいるのか。それも長くは保たないだろう。
死ぬ、ここで確実に――。頭が真っ白に染まる程の恐怖。だが同時に浮かぶのは、妻の存在だった。
「最後に声だけでも」
通話、つながらない。電波が届いていなかった。
あとはチャットを残すしかない。最後のメッセージを送信、保留になる。オレのスマホが亡骸ごと救出された時、ようやく届くのだろう。
車両の歪みが激しくなり、軋む音も悲鳴のようだった。もはや猶予はない。
せめて最後に電話で、愛してると伝えたかった――。
ー完ー




