32、ホットケーキ
荷物を詰め込んでチェックアウト。三泊四日の東京観光も、今日で終わりかと思うと寂しさを感じた。
「なんかあっという間だったなぁ」
夫がしみじみと言う最中、妻はスマホに夢中だ。彼女の中ではまだ終わっていない。
「お土産は浅草で、お昼はスイーツバイキングでしょ、それからホットケーキ!」
「そんなに回れる? 帰りに間に合わないだろ」
「大丈夫。フライトは4時だから、全部行けるよ」
弾丸的なプランに夫は苦笑いしたが、こだわりは無い。頷いて了承した。
まず浅草寺に向かい、友人へのお土産を買う。夫は親戚や職場に菓子を買うだけだが、妻は長々と足を止めた。
「どうしよ。消え物が良いのは確かだけど、苦手な物渡してもな。前の旅行の時は――」
「早く決めようぜ。予定が詰まってんだろ」
「大丈夫。スケジュールは完璧だから。あと7分の猶予があるもん」
そしてきっちり悩みきったあと、饅頭を何箱か購入。続いてホテルバイキングに向かった。
「ここは料理もいいけど、スイーツが有名なのよね」
皿の上で絶妙なバランスを保つティラミス、プリン、杏仁豆腐の山。そこへ、おかわりに濃厚バニラソフト、ガトーショコラ。
対面に座る夫は、眺めるだけで胸焼けがしそうになる。さほど食は進まなかった。
「それじゃあホットケーキを食べに行こうか」
ホテルを出た直後に妻が言う。夫はさすがに断った。
「あんなに食べたのに? 身体に悪いって」
「平気だよ。そのお店は経堂駅にあるから、結構遠いんだ」
「だからってなぁ」
「お願い、めったに食べられないから。このチャンスを逃したくないの!」
仕方ないなと、夫も折れた。
ダイヤを調べてみると、確かにフライトには間に合いそうだ。しかし羽田からだいぶ遠ざかるのが怖い。電車が遅延でも起こしたらと思うと、不安がつきまとう。
新宿駅で小田急線に乗り換えて、経堂駅に向かおう――乗り換えようとしたその時だ。妻が青ざめながら言った。「ごめん、トイレ」
それきり、妻はトイレから離れられなくなった。
「やっぱりこうなるか。胃腸が弱いから」
夫は驚きもしない、何度も繰り返し見かけた光景だったからだ。
待つこと15分――。妻がようやく表に出てきた。顔色はあまり良くない。
「それじゃあ行こうか、経堂まで」
「その様子じゃさすがに無理だろ」
「でも食べたい。一口でいいから、どんな味か知りたくて……」
「帰りの飛行機が地獄になるぞ」
そこへ、夫のスマホに通知が鳴る。リマインダー機能で、フライトの時間が近いことを知らせた。
「ん? なんで1時にセットしてんだ? たしか4時に羽田発……」
夫の顔がみるみるうちに青ざめていく。
「おい、フライトは14時だぞ! あと1時間しかない!」
「えっ、どうするの!?」
「最速で羽田に向かう!」
「待ってホットケーキは!?」
夫は反射的に叫んだ。
「ほっとけよ、ホットケーキなんて!」
ー完ー




