31、ハエ
見るな、ただ感じろ――。
人里離れた山の中で、師匠の声が聞こえる。もう何百回と聞いたフレーズだった。それでも自分は極意を体得できずにいる。眼で見ずにかわすという芸当は人間業とは思えない。
「無理ですよ、オレには!」
叫びながら目隠しを投げ捨てた。すると師匠は、手元の硬球を地面に置いた。
「出来ぬと思うから出来ぬのだ。まずはその心の声と向き合う必要がある」
「でもな、目隠しして豪速球を避けるとか無茶だ! 怪我させる気か?」
昨年のペナントレースは出だし好調、三冠王も狙えるペースだった。しかし度重なるデッドボールで打撲に骨折で前線を退き、必然的にレースから外れてしまった。
「死球さえかわせれば、お前さんは無敵だ。日本一の野手になれる」
「オレだってそこを目指してるけど」
「ならば特訓しかあるまい。が、お前さんの言うことも正論だ。怪我をしては元も子もない」
「何か他にないのか。成果が出て、危険のないやつ」
「待たれよ」
師匠は山小屋に引っ込むと、厳重な姿で現れた――。アクリルゴーグルにマスク、ゴム手袋ごしに掴むのはひとつの小瓶だ。その中には真紫色の怪しげな液体がある。
「おい、まさかとは思うが……」
恐怖が背中にまとわりつくようだ。見るからに怪しげなそれを飲めと言うのか。それは猛毒で、死の淵から生還することで強くなるという論理――。
師匠は肩をすくめた。
「飲め、などと言わんよ。どんな感染症を患うか分かったものではない」
「だったら何のためだ、その危険物は」
「こうするのよ」
師匠は、顔をそむけながらビンを開けた。風に乗って微かに臭いが届いた――とその瞬間、涙が溢れて止まらなくなる。鼻水も滝のように溢れ出た。
更に、どこからともなく羽虫の群れが押し寄せてきた。ハエだ。臭気に惹きつけられたのか、ビンにびっしりと張り付いた。
「ではいくぞ、構えよ」
師匠はあろうことか、大きなうちわでビンをあおいだ。強い風がこちらに吹き付けてくる。臭気が途端に濃くなり、嗚咽を伴った。
「さぁ避けてみせよ」
「何を!?」
涙でボヤける視界に、無数のハエを見た。風が導くままにこちらへと飛んでくる。
オレは両手で顔を守るのが精一杯だ。身体のあちこちに小石を受けたような衝撃があり、まもなく通り過ぎていった。
「どうかね。これなら怪我の心配もなく、回避の練習が出来る。見事、ハエを避けきるのだぞ」
オレは鼻を噛みながら即答した。
無理だろ、ハエははえぇよ。
ー完ー




