29、水
肩の荷が下りた、物理的に。背中を強く痛めつけたリュックがどさりと音をたてた。
「いやあ長かった。身体がバキバキだよ」
夫が言うと妻は苦笑いした。
「結構きつかったわね。夜行バスもシートが壊れてたし」
妻は海外旅行の経験が豊富だが、顔に長旅の疲れが出ていた。普段通りに振る舞うのは娘くらいのものだ。
「パパ、あの建物はなにかな?」とホテルの窓から通りを指さしていた。夫は「後にしてくれ」と言ってはベッドに倒れ込んだ。
しかし娘の追撃。夫のくたびれた背中にドスン。
「お腹すいた! お昼たべよ!」
「わかったから、そこを退いてくれ……」
疲労感は強いが空腹の方が勝った。娘は興奮しきりで「早く行こう!」と先に行ってしまう。そのたびに「はぐれないで!」と叫んだ。
「珍しい食い物がいっぱいあるな」
通りに人は多いが、ほとんどが現地人だ。アジア人は少なく、日本人はなお見かけない。マイナーな観光地だった。
露店通りに差し掛かると、夫は匂いに吸い寄せられていく。その背中に向かって妻が言った。
「口に入れるものは気をつけてね」
「どういうこと?」
「そのままの意味よ。お腹を壊すケースが多いから、ちゃんと梱包された商品にしましょ。飲み物もペットボトル入りの物ね」
「えっ、そこまでするの?」
「あと水道水も飲んじゃダメ。ミネラルウォーターを買ってね」
「なんか冷めるな」
「強くは止めないわ、トイレの住民になりたいなら」
そう釘を刺されても、通りは香しい匂いで一杯だ。香辛料や果物の薫り。それらが鉄板でジュワリと弾ける音。夫は明らかにソワソワしていた。
そしてこの日差し――。まずは冷たいものをグッと飲みたくなる。そこへちょうど、かき氷屋を見つけて足を止めた。
「さすがに氷なら平気だろ?」
「さぁね。神のみぞ知るってところ」
娘も食べるかな、と声をかけようとした。だがいない。人混みに向かって目を凝らすが、どこにも見当たらなかった。思い返せば、確かに通りに出てから一度も声を聞いてなかった。
「やばい、はぐれた!」「嘘でしょ!?」
矢継ぎ早に脳裏を過ぎる。迷子ならマシな方で、人さらいの可能性もある。娘は現地語を知らないままに、いずこかへと消えてしまったのだ。
この炎天下に、異国の地で――。
夫婦は血眼になって探した。妻はカタコトの会話で、夫は写真を見せつつゼスチャーで。
手当たり次第に探し回っていると、年配の男が大きな建物を指しながら教えてくれた。ホテルの部屋から見た施設だった。
『よく似た子が向こうに行くのを見たよ、覚えてる。アジアンなんて珍しいからね』
すかさず駆けつける。建物の敷地は、街なかであるのに静かだった。訪れる人の多さに釣り合わない。
そこが寺院であることを、法体の多さから察した。
「パパ、ママ! 見てよこれ、ご飯をくれるんだよ!」
娘は屋内で施しを受けていた。濡れた床に米と、カレーらしきものが直に置かれている。それらは些細なことだった。
夫婦はまず娘を抱きしめ、続けて叱った。今後は絶対に離れるなと厳しく。娘も俯きながら承知した。
「はぁ、安心したら、急に喉が……」
大汗をかいていた。そこへ若い女がボウルを片手にやって来た。何やら眼の前に柄杓が差し出された。
作法を知らない夫は、とりあえず両手をさしだした。すると、ひと掬い分の水が与えられた。冷たくて心地よい。ちょうど喉が渇ききって、口の中で皮膚がはりついていた。
夫はその水を、よく見ずに飲み干した――。
ー完ー




