表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰送シリーズ  作者: 流浪
PR
8/20

『扉を叩く』

 大学一回生の初夏だった。


 窓を少しだけ開けたまま寝ていたせいか、部屋の空気は夜中でも薄く湿っていた。遠くで車が流れる音がして、たまにアパートの配管が眠りの底を引っかくみたいに鳴る。


 ふと目が覚めた。


 裸眼のまま、ぼやけた視界を無理やり凝らす。枕元の置時計は赤い数字で、午前二時を少し回っていた。普段なら眼鏡を探すところだが、寝起きの頭はそこまで回らない。


 喉が乾いているのが分かった。舌が熱い。トイレに行こう、とだけ思って布団から抜け出した。


 用を足して戻る。ドアを閉める。息を吐く。――そこで。


「コンコン」


 玄関だった。


 こんな時間に誰だよ、と一瞬遅れて腹が立った。新聞の勧誘にしたって宗教にしたって、時間帯ってものがあるだろう。寝起きのまま廊下に出る。裸足に床の冷たさが貼り付いた。


 眼鏡がない。世界が滲む。輪郭が甘くて距離感が狂う。玄関の覗き穴までが遠く感じた。


 ふらふらしながら玄関に着き、覗き穴を覗いた。


 知らない男が立っていた。


 無表情だった。怒っているわけでも、困っているわけでもない。「何もしていない」と言いたげな顔だった。服装はスーツなのか作業着なのか、暗くて判別できない。けれど、男の目がまっすぐこちらを見ていることだけは分かった。


 勧誘か。あるいは酔っ払いが部屋を間違えたか。


 そう結論づけた俺は、覗き穴から目を離した。


 無視だ。放っておけば帰る。


 そう思って、布団に戻ろうとした。


「コンコン」


 また鳴った。


 苛立ちが先に立った。まだ、自分の部屋だと思ってんのか。


 もう一回覗く。


 同じだった。


 男はさっきと寸分違わない位置に立っている。肩の高さも、顔の角度も、覗き穴の中心に収まっている感じさえする。


 ……気味が悪い。


 息を殺して耳を澄ます。廊下に足音はない。呼吸もない。


 なのに、覗き穴の向こうには人だけがいる。まるで絵だけが貼り付いているみたいに。


「コンコン」


 ノックが、また来る。


 今度は少し強い。音の衝撃が、床を通って足裏に小さく伝わった。


 薄い恐怖が背中から這い上がってくる。なのに、それと同時に言いようのない怒りが込み上げた。


 夜中に、他人の家の扉を何度もたたくな。


 それが敷地を荒らされることへの牽制なのか、防衛本能からくるものなのか、俺には分からなかった。


「コンコン、コンコン」


 二回。さっきより強い。


 その瞬間、反射で声が出た。


「誰だ! やめろ!」


 自分でも驚くほど大きい声だった。寝ている近所に聞こえたかもしれない。けれど止められなかった。叫ばないと、こっちが押し負ける気がした。


 覗き穴に目を戻す。


 男が――消えた。


 すっと、靄が引くみたいに見えなくなる。覗き穴の向こうが空っぽになる。廊下の壁の模様だけが、急に現実みたいに戻る。


 消える直前、男の口元だけがわずかに歪んだ。


 それは怒りとも、恨みともつかない形だった。


 怖くなって、俺は布団に潜り込んだ。



 後日、俺は師匠に話した。


 場所は大学の構内だった。授業の切れ目の、人気が少し途切れる場所。木陰のベンチじゃない。人の目があるところがいいと思った。自分でもよく分からない直感のようなものだ。


 俺の師匠は相変わらず表情の起伏が薄い。けれど、「聞いていない」顔ではない。目が、言葉を拾っていく。


 最後まで話し終えたところで、俺は情けない質問をした。


「あれ、いったい何だったんですかね」


 師匠は少しだけ間を置いた。考える間というより、結論を口にする前の間。


「十中八九、それは人間じゃないね」


 心臓が嫌な跳ね方をした。やっぱり、という納得が、怖さを補強する。


「……あんな消え方、人間じゃないですよね」


 俺が言うと、師匠は首を横に振った。


「それだけじゃない」


 そして、俺の目を指さした。


「……眼鏡」


 その一言で、背中がぞっとした。


 俺は目が悪い。眼鏡がないと、近くにいる師匠の顔ですらぼやける。輪郭が溶けて、表情なんて読み取れない。なのにあの夜、覗き穴の男の「顔の変化」だけが異様にくっきり見えた。


 師匠が言う。


「眼鏡なしで視たの、初めてでしょ」


 否定できなかった。俺は黙って頷いた。


 師匠は淡々と続けた。


「眼鏡は、この世のものを見るための道具」

「この世のもの以外には、関係がない」


 俺は眼鏡のフレームに触れた。指先に、いつもの安心が戻らない。


「でも、なんで急に……」


 師匠は即答した。


「君、見つかったのかもね」


 背筋が薄く冷えた。言葉が皮膚の下へ入ってくる感じがした。


「そんな……」


 うろたえる俺に、師匠は追い打ちをかけるように言った。


「多分、続くよ。放っておいても終わらない」


 続く。終わらない。


 あの「コンコン」というノックが、これからも夜中に来るのかと思った瞬間、胃の奥が縮んだ。


「どうにかしてください……」


 自分の声が情けなかった。けれど体面なんて気にしていられない。


 師匠は少しだけ考える顔をした。ほんの数秒。それから軽く顎を上げた。


「一晩、うちに来なさい」


「え」


「大抵の霊なら、それで逃げる」


 “逃げる”という言い方が引っかかった。霊が逃げる? 追い払うじゃなく?


 問い返す勇気は、そのときの俺にはなかった。


 結局、俺は頷いた。



 その夜、俺は師匠宅にお邪魔した。


 正直、緊張した。女性の部屋に上がる経験なんてない。まして一人暮らしの部屋に、夜に行くなんて。


 師匠の住まいは、広くはないが狭くもない。新しくはないけれど古びてもいない。汚れが目立つわけでもない。


 物が少なかった。散らかっていないというより、そもそも置いていない。棚も床も空白が多い。妙に生活感の薄い部屋だった。


 ただ、壁際に一本だけ、ギターが立てかけてあった。


 黒いソフトケースに入っていて、口のファスナーが少しだけ開いている。木肌の縁と、弦の銀色が覗いていた。


 何もない空白の中で、それだけが「ここに人がいる」ことを表している。


 それが、かえって落ち着かなかった。


 玄関を上がった瞬間、ふわっと優しい匂いがした。香水みたいに強くない。洗剤でもない。名前の付かない匂い。嫌じゃないのに、記憶に引っかかる匂いだった。


 リビングで、借りてきた猫みたいになっている俺を、師匠は横目で見て言った。


「まあ、広くはないけど、ゆっくりしてて」


 その言い方が、やけに普通で、余計に変だった。


 この人の“普通”は、俺の普通と少し違うようだ。


 しばらくして師匠に呼ばれて寝室へ行くと、ベッドの横に来客用の布団が敷いてあった。


「これしかないけど、大丈夫?」


「ぜんぜん大丈夫です」


 口ではそう言いながら、心の中で叫んでいた。


(俺、ここで寝るの? リビングのソファとかでよくない?)


 師匠はそんな俺の内心を知ってか知らずか、淡々と照明を落とした。


 布団に入る。目を閉じる。寝ようとする。


 なのに眠れない。耳が勝手に音を探す。玄関のほうの気配に意識が向く。師匠の部屋なのに、俺の神経は休まらない。いや、師匠の部屋だからなのか。


 どれくらい経ったか分からない。


 すっと、師匠が立ち上がる気配がした。


 俺は慌てて寝たふりをした。呼吸を浅くする。目だけを薄く開く。


 師匠は足音を殺して、玄関のほうへ行く。


 追いかける勇気はなかった。布団の中で体が固まって動かなかった。


 玄関のほうから、何か声がした。


 師匠の声だ。低い。さっきまでの室内の声と違う。何を言っているかまでは聞き取れない。


 もうひとつ、別の音が混じった気がした。


 ノックだったかもしれないし、そう思い込んだだけかもしれない。


 しばらくして、師匠が戻ってきた。


 その目が、やたらと怖かった。


 見てはいけないものを見てしまった気がして、心拍が上がる。


 師匠は何事もなかったように布団に入った。


 俺は結局、その夜、一睡もできなかった。



 翌朝、師匠は普通に朝の支度をしていた。


 俺だけが疲れ切っていた。目の下が重い。頭が鈍い。


「……昨日は来なかったですね」


 なんとなく、そう言ってみた。


 師匠は少しだけ首を傾ける。


「うん。もう大丈夫」


 それ以上は何も言わなかった。


 その件以降――男は二度と現れることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ