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帰送シリーズ  作者: 流浪
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9/20

『白烏(上)』

 大学一回生の秋だった。


 昼間の熱は引き始めているのに、夜の道にはまだ夏の粘り気が残っている。歩くたび、アスファルトが昼の名残をゆっくり吐き出すみたいで、鼻の奥に薄い焦げ臭さが絡んだ。


 その夜、大学からの帰り道で、俺は烏を見た。


 街灯の明かりが途切れるあたり、電線に黒い影が並んでいる。数を数えようとして、やめた。


 「群れ」に「見張られている」。そう思うと気分が悪い。


 烏は首を傾げる。片目で俺を見て、また傾げる。


 観察というより、選別だ。俺が何者かを決めるみたいに、無言で品定めしている。


 いつもの道なのに、今日は距離が伸びた気がした。歩幅は同じはずなのに、背中側の気配だけが増えていく。振り返りたくない。けれど振り返らないでいるぶん、肩が落ち着かない。


 住宅地の裏へ抜ける細道が見えた。


 車が入れないただの近道。昼は何でもないのに、夜になると「道」じゃなく「割れ目」みたいに見える場所だ。


 入口に差しかかった瞬間――烏が、一斉に鳴き始めた。


 頭上だけじゃない。横からも、背後からも、音が重なる。


 耳に刺さるというより、皮膚の内側を撫でられる感じがした。ぞわっと、背中の筋が反応する。


 そこで、祖父の言葉がよみがえった。


 子どもの頃、畑の端で休んでいたとき、祖父が電線の烏を見上げて笑いながら言った。


 ――烏が鳴くと、人が死ぬ。

 ――当たることもあるし、当たらんこともある。けどな。


 それから、声を落として続けた。


 ――白い烏には、ついていくなよ。


 白い烏。


 当時は笑い話だった。そんなものがいるなら、見てみたいぐらいだと思っていた。


 ――だから、今。


 烏たちが、ばさっと飛び立った。


 黒い羽が夜空に散って、電線が急に軽くなる。残ったのは、鳴き声の余韻と、空の暗さだけだ。


 嫌な予感がした。胸の奥が、先に「やめろ」と言った。


 俺はその予感を否定したくて、足を出そうとして――なぜか振り向いた。


 白い烏がいた。


 街灯の落ちる足元、縁石のあたりに、白っぽい鳥が立っている。真っ白じゃない。色が抜けたみたいな白さだ。汚れでも羽毛でも説明しきれない、夜の暗さに“浮いた”白。


 その烏は俺を一度だけ見て、細道のほうへ跳ね――羽を広げて、奥へ滑り込むように飛んだ。それがどこか逃げるようにも見えた。


 細道の奥から、気配が滲んできた。耳鳴りがする。


 霊的だ、と断言できるほど整ったものじゃない。ただ、理由のない悪寒。背中に冷たい指先を添えられたような、逃げ場のない圧だ。


 足が震える。喉が乾く。


 ――この先に入るな。


 そう分かるほど、肌がじりじり訴えている。


 それでも俺は、一歩、細道に踏み込んだ。


 途端に空気が変わった。街の夜じゃない。湿ったコンクリートと土の匂いが前に出て、生活の匂いが消える。


 足音が壁の間で妙に響く。自分の背中を、遅れて叩いてくるみたいに。


 少し進むと、白い烏がいた。


 低い塀に止まり、赤い目がこちらを見ている。鳥が人を見る目ではない。ぞくぞくとした悪寒がした。見られているだけで、体が固くなる。


 白い烏が鳴いた。


 烏の声じゃなかった。


 喉の奥で引っかかった、人のうめき声にも似た声。言葉にならない音。苦しいのに吐き出せない音。


 胃がきゅっと縮む。


 白い烏は首を振るようにして、何かを吐き出して、飛び立った。


 地面に落ちたそれは、最初、ただの白い棒に見えた。


 次の瞬間――指だと分かった。


 人の指。


 吐き気が込み上げる。喉の奥が熱くなる。息が浅くなる。


 目を逸らしたいのに、逸らしたら自分がそうなる気がして逸らせない。


 羽音がした。


 上だ、と直感が言う。


 見上げると、黒い烏が並んでいた。電線だけじゃない。屋根の縁、塀の上、影の濃いところに黒が増えている。いつの間に。増えたのか、最初からいたのか、判断がつかない。


 黒い烏たちが、俺を見下ろしていた。


 鳴き声が降ってくる。鼓膜の外側から押される。


 音が「外」じゃなく「内」に入ってくる。


 俺は耳をふさいだ。


 その瞬間、世界がねじれた。


 足元が遠くなり、黒い羽の影だけが大きくなる。自分の呼吸が、自分のものじゃないみたいに聞こえる。息苦しさが増し、ちかちかと視点が暗転する。


 そして――目が覚めた。



 自室の天井だった。


 心臓がうるさい。寝汗で背中がべたつく。口の中が乾いて、舌が貼りつく。


 夢だった。我ながら変な夢にうなされたものだ。


 自嘲気味に笑いかけて、吐き出された指を思い出してやめた。


 窓の外で、どこかの烏が一声鳴いた。


 俺はとっさに息を止めた。



 その日は、普通に大学へ行った。


 講義を受け、学食で適当なものを食べ、図書館でレポート用の本を探した。


 夢のことは、意識の端に押し込んだ。押し込まないと、日常が崩れる。それが怖かった。


 昼間に烏を見かけた。


 歩道の端で何かをついばみ、ゴミ袋を器用につつく。夢の白さとは結びつかない――はずなのに、首を傾げる仕草だけが、やけに引っかかった。



 その夜、帰りが遅くなった。


 レポートの提出が迫っていて、図書館の閉館ぎりぎりまで粘っていたのだ。


 外に出ると、空はすっかり黒い。風が少し冷たく、季節の変化を感じる。


 何度目かの信号を渡ったあたりで、気配が変わった。耳鳴りがした。


 霊的なものとは違う。


 もっと、にじみ出るような悪寒。理由もなく「嫌だ」と思わせる種類の気配だった。見えないのに、近いと分かる。


 昨夜の夢が、勝手に蘇った。


 白い烏。細道。うめき声。指。


 別の道に回ればいい。大通りへ出れば明るい。人もいる。


 そう考えたのに、体がそちらへ向かわない。気配のある方向を、もう見てしまっている。


 細道の入口が見えた。


 そして――黒い烏の群れがいた。


 電線だけじゃない。看板の上、街灯の支柱、屋根の縁。黒い点が、妙に整って並んでいる。整列というより、待ち構えている。


 烏たちが鳴いた。


 夢の音が、現実の音に上書きされた。


 耳の奥が冷える。胸がざわつく。足が止まる――はずなのに、足先だけが勝手に前へ出る。


 黒い影が、ばさっと散った。


 羽が夜気を切って、視界が一瞬だけ開ける。


 そこに、白いものがいた。


 街灯の光の端、地面の明るい場所に、白っぽい烏が立っている。昨夜の夢と被る。視線が、勝手に吸い寄せられる。


 白い烏は、俺を見た。


 ただ見た。それだけなのに、心臓が一段強く打つ。


 そして、細道の奥へ飛んでいった。何かから逃げるように。


 俺は――追った。


 分かっている。夢の中と同じだ。


 それでも追った。追わずに帰ったら、夢が夢のまま終わらない気がした。確認しないと、終わったことにならない――この一日が無限に繰り返される、そんな気さえする。


 細道に入ると、音が変わる。


 足音が壁で跳ねて、自分の背中を叩く。匂いも変だ。湿ったものが混じる。昨夜の夢で嗅いだ匂いと、嫌なほど似ている。


 少し先で、白い烏が止まっていた。


 今度は低いブロック塀の上。逃げない。むしろ“待っている”みたいに見える。


 白い烏が鳴く。


 喉を絞ったような声だった。烏の声の形をしているのに、喉の奥で人が唸っている。


 その音を聞いた瞬間、鳥肌が立つ。


 白い烏が吐き出して、飛び立つ。


 落ちたものが地面で転がる。街灯の光を受けて、白く光る。


 指だった。


 夢の中で見たものが、現実に落ちている。


 胃が反転しそうになる。こみ上げたものを歯で噛み殺して、喉の奥で止めた。吐いたら、自分の口から「指」が出てくるような気がした。


 周囲が鳴き始めた。


 黒い烏が、取り囲むように増えていた。上だけじゃない。塀の上、電柱の根元、道路の端。黒い点が、じわじわ距離を詰める。


 鳴き声が、笑いに聞こえた。


 馬鹿にしているのか、追い立てているのか、分からない。分からないのに、悪意だけは伝わってくる。


 足が動かない。


 踏み出そうとしても膝が固まる。恐怖だけでもない。音が体の芯を縫い止めていくみたいに、筋肉が言うことをきかない。


 黒い影が、近づいてくる。


 跳ねるでもなく、走るでもなく、捕食者と被捕食者の距離が縮む。


 ――捕まる。


 そう思った瞬間、腕を強く引かれた。


 視界が揺れ、足がもつれて、俺は尻もちをついた。アスファルトが痛い。骨に響く。


 息を吸うと、焦げたような匂いと生臭い匂いが混ざって鼻を刺した。


 見上げると、女性がいた。


 背が高い。姿勢がまっすぐで、立ち姿だけで迷いのない人だと分かる。短い黒髪が頬にかかり、街灯の光を鈍く跳ね返す。かっこいい人だった。黒い革のジャケット。ジーパンに白いランニングシューズ。


 目つきが鋭いのに、どこか余裕がある。怖いというより、どんな恐怖も受け付けない強さがある。


「こっちだ!」


 短い声だった。


 俺は考える前に立ち上がらされる。腕を掴まれ、引かれ、足が勝手に動く。細道の出口へ向かって走る。背後で羽音と鳴き声が跳ねた。


 明るい通りへ出た瞬間、世界が戻った。


 車の走行音、遠くの人の声、信号機の電子音。現実の雑音が鼓膜を叩く。


 俺は息を吐いて、ようやく言葉を探した。


「……あ、ありがとうございました……!」


 女性は立ち止まらない。振り返りもしないまま、一言だけ投げてきた。


「白い烏は追うな!」


 それだけ言い残して、夜の人波に紛れるように去っていった。


 名前も、所属も、何も分からない。ただ、黒い背中だけが遠ざかる。その光景にいつかの背中が重なった。


 俺はその場に立ち尽くした。


 掌が震えている。指先が冷たい。さっき見たものが現実だったのか、頭が追いついていない。


 細道の入口を見た。


 そこにはもう烏はいなかった。鳴き声もない。ただ暗い割れ目があるだけだ。


【『白烏(中)』へ続く】

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