『師事(下)』
喫茶カントリーの扉が背中で閉まり、ベルが短く鳴った。
店内に残してきた温度と匂いが、ひと息ぶんだけ残る。口の中には、まだコーヒーの苦みが居座っていた。
外の空気は、さっきまでとは別物だった。
頬の表面が締まるように冷え、代わりにアスファルトの乾いた匂いと、どこかの換気扇が吐く油の匂いが鼻に混じる。
先輩は、迷いなく歩き出す。
茶色いコートの背中は細く、白いマフラーだけが夜の街で目印みたいに浮いて見えた。人の流れから自然に外れ、明るい通りを避けて裏道へ入っていく。
俺は半歩後ろをついていきながら、自分の足取りが徐々に従順になっているのを自覚していた。
嘘だ。とっさに作った怪談だ。祠だって、話を繋ぐための道具だったはずだ。
なのに俺は――「場所を覚えてる」と、頷いてしまった。
先輩が振り返らないまま言う。
「祠……だったね」
確認の声のはずなのに、それは物語に点を打つ合図みたいに聞こえた。
「場所、説明できる?」
追いつこうとしても歩幅が合わない。急げば急ぐほど、むしろ遅れていくような。
「……駅のほうじゃなくて、もう少し外れです。コンビニの帰り、まっすぐ帰らないで少し歩いてて……」
口にしながら、自分で自分の逃げ道を作っているのが分かった。
“帰り道”じゃない。“遠回りした帰り道”だ。そういうことにしておこう。
「住宅が減ってくるあたりに、細い道があって。その先に、小さい祠がありました」
「細い道」
先輩が小さく繰り返す。
「はい。車は入りにくそうな道で……街灯もあんまりなくて。俺も、ちゃんと覚えてるわけじゃないんですけど……」
覚えていない、という言い訳を先に混ぜる。
それなのに、頭の奥には昼間見た祠の形が、なぜか鮮明に残っていた。
先輩は歩きながら、淡々と続ける。
「いい。そのまま。焦らなくていいよ」
それから、呼吸の取り方だけを指示するみたいに言った。
「息、合わせて。吸って――吐いて」
言われた瞬間、呼吸が勝手に揃う。
揃った途端、足の裏が重くなる。吸いつくほどじゃない。ただ、踏み出す“決心”が一拍遅れて、体が言葉の後ろを歩くようになる。
「吐くたび、余計なことが消える。今は、道順だけ」
余計なこと。
嘘をついた罪悪感も、引き返したい焦りも、その一言でまとめて“余計”に分類され、心の外へ押し出される気がした。
角をいくつか曲がった。住宅の灯りが点々と続き、窓越しに夕飯の気配がちらつく。普段なら安心できるはずの生活の輪郭が、今夜はどこか薄い。はっきりしているのは、先輩の声だけだった。
「その祠に、何が出た?」
「……黒い靄。手の形が……」
口にした瞬間、指先が勝手に縮む。
作り話のはずなのに、その“手”が皮膚の内側から連想を引っぱってくる。掌がじっとりして、冷えていく。
「左手だったね」
先輩の声が、ほんの少し低くなる。
「左は、よくない」
喫茶店での説明が、頭の中でもう一度、綺麗に並び直される。
右手の握手が何のためにあるのか。左手がどう扱われてきたのか。
俺が適当に吐いた“設定”が、先輩の理屈に骨組みを与えられていく。
嘘に、根が生える。
根が生えた嘘は、現実に迫る。
先輩が、ふいに立ち止まった。
「ここ?」
短く問われる。
その声を聞くより先に、俺の足が止まっていた。
細道の入口だった。車が入れないほど狭く、コンクリート塀が続いている。街灯はあるのに、光が奥まで届かず、陰だけが濃い。遠い車の連続音が、低いうなりで響いていた。
見覚えがある、と思った。
思った瞬間、喉の奥がわずかに詰まる。さっき手を合わせたときと同じ、湿った空気の重さが、ここにもある気がした。
俺はうなずく。
「……この先です」
指で示すと、指先が震えていた。まっすぐにならない。
先輩は横目も使わずに言う。
「大丈夫。怖いなら、怖いままでいい」
慰めじゃない。許可だった。
怖がっていい、と言われた途端、怖さが輪郭を持って、そこに中身が詰まり始める。
「目を閉じて」
「……え?」
「閉じて。大丈夫。私がいる」
言われてまぶたが落ちる。
暗くなると、音が増える。自分の呼吸、靴底の擦れる音、遠い車のうなり。雑多なはずの音が、先輩の声にだけ従って整列していく。
「深呼吸。吸って――吐いて」
「吐くたび、さっきのベルが遠くなる」
ベル。
喫茶店の扉の、あの短い音。思い出した瞬間、意識が一段落ち着くのが分かった。落ち着く、というより、浅いところの思考が沈んでいく。
「思い出す。夜中の一時。空腹。眠気」
「歩いてる。袋が揺れる。指先が冷える」
「その先に、祠がある」
今日の午後に見つけた、あの祠。
その姿が今、暗闇の中で“前からそこにあったもの”として立ち上がってくる。
「目、開けて」
言われて、ゆっくり目を開く。
祠は、そこにあった。
小さな屋根板がわずかに反り、釘の頭が黒く錆びている。木肌には薄い筋が走り、剥げた札が貼られていた。
――おかしい。
嘘だったはずなのに、その手触りが現実のものになっていく。
先輩が祠の前で止まる。俺も一拍遅れて並ぶ。
さっき整っていたはずの呼吸が、勝手に浅くなる。
先輩が、音を落として囁いた。
「靴ひも、ほどけてるね」
足元を見ると、靴ひもがほどけていた。
しゃがんで結び直す。指先がうまく動かない。
体勢を戻すと、先輩が言った。
「来るよ」
言葉がスッと体に染み込んでいく。
「出るよ。……左から」
左。
その単語だけで視線が誘導される。体の主導権が、少しずつ奪われるみたいに。
影と影の間が、じわりと黒くなる。
ただの陰影じゃない。黒が“増えていく”。
――何かが、違う。
逃げるはずの黒が、今夜は逃げない。
黒は残り、形を作り始める。
「……浮かび上がる」
先輩が呟いた。
鼓膜が拾った音を、脳が勝手に情報に組み直す。
靄が指を真似る。数が合わない。曲がり方も、人間のそれじゃない。
なのに――手だと分かる。分かった瞬間、掌の汗が冷える。
「ほら。見えるでしょ」
先輩の声が、押す。
押されているのは背中じゃない。視線だ。
体は動かないのに、意識だけが一歩ずつ近づいていく。体の外側だけが、先に進んでしまうような感覚。
黒い手が差し出されている。握手の形。
祖父の声が頭を掠めた。
――夜に道で、知らん手が出てきても、握ったらあかんぞ。
――握手は人間の約束や。向こうと約束したら、連れていかれる。
喉が鳴った。唾が粘つく。飲み込むと、針が刺さったみたいに痛い。
「息、吐いて」
先輩は優しくも厳しくもなく、ただ指示した。
吐いた息が胸から抜ける。抜けた分だけ軽くなるはずなのに、膝の裏が固まり、足首が重くなる。立っているだけなのに、立つための力が“借り上げられていく”みたいに使えなくなる。
――動けない。
黒い手が、近い。
距離感だけで迫る。鼻の奥に、湿った布みたいな匂いが混じる。
逃げたい。下がりたい。
そう思った瞬間、先輩が言う。
「止まっていい。止まって」
止まっていい、が、止まれ、になる。
体がその言葉に従う。従うことで、足の自由が消える。
「そう。動かなくていい。動かない」
言われるほど、動けなくなる。
自分が自分の身体に命令を送れない。命令の優先順位が、先輩の声に上書きされていく。
「握らない。君は握らない」
囁きは命令になる。命令は逃げ道を塞ぐ。
「でも、視た。視てしまったから、生まれる」
輪郭が濃くなる。
俺が視線でなぞってしまうからだ。視線が線を引き、線に情報が乗る。皮膚の質感、爪の硬さ、節の影――“ないもの”が、“あるもの”の顔をし始める。
喫茶店で話した俺の言葉。
そこで先輩が与えた筋道。
今この場で先輩が落とす言葉。
それらが一本に繋がって、目の前に“現実”として立ってしまう。
「……やめましょう、先輩……!」
声を出したつもりだった。
けれど、外に出た感じがしない。喉の内側だけが震えて、音がそこで折り返したみたいに消える。
先輩は答えない。代わりに、呼吸に沿って言う。
「吸って――吐いて」
「吐くたび、近づく」
吐かないと苦しい。吐くと近づく。頭ではなく、体に刷り込まれる。
二択が体を追い詰める。追い詰められるほど、拒む余裕がなくなっていく。先輩の言葉を“選べない”。
視界の端で、別の黒が揺れる。
ひとつじゃない。ふたつ、みっつ。
影が増えて、端から世界を埋めていく。
それでも俺の目は、黒い手から外れない。外せない。
「見て」
声が、いつの間にか近い。
気配の移動に気づけない。振り向こうとして――振り向けない。体は俺の意識の外に置かれ、視線だけが釘付けになる。
「その手はどこを掴む?」
問いが映像を増やす。
答えようと意識した場所ほど鮮明になる。問いは優しい顔をした命令で、命令はイメージを固定する。固定されたイメージは、現実のほうへにじり寄る。
黒い指が、指の間に滑り込む。
指を開かされる。握手の形に整えられる。
俺の体が、俺の意思の外で組み替えられていく。
その瞬間、視界がふっと引いた。
上から見ている。祠の前に俺がいる。先輩が隣にいる。
肩は強張り、指は半端に開き、顔は青い。滑稽なくらい分かりやすく怯えている。
それを少し離れた場所から眺めている“俺”がいる。
体の外側に意識が浮く。軽い。怖いのに、どこか楽だ。
そこへ先輩の声が落ちてくる。
「戻っておいで」
短い一言で、意識が落ちる。
落ちるというより、元の体へ押し戻される。
押し戻された瞬間、黒い手がすぐ目の前にある。
――もうダメだ。
頭の中で、はっきりそう思った。
握られる。約束させられる。連れていかれる。
視界が白く滲み、輪郭だけになっていく。音が遠い。祠も街も、線みたいに薄い。
そのとき、先輩が小さく息を吐いた。
そして、耳の奥へ落とすみたいに囁く。
「おわり」
短く小さな言葉。
なのに、世界がそこで断ち切れた。
匂いが薄くなり、黒がふっと消え、音が戻る。
遠い車の連続音、どこかの室外機の低いうなり、犬の一声。全部が“現実の音”に戻った。
目の前に黒い手はいない。
祠はただの木箱で、影は影だ。腕にも手にも、何も付いていない。残っているのは汗と、うるさいくらいの心拍音だけだった。
膝が抜けそうになって、俺は半歩よろけた。倒れなかったのが不思議なくらい、体が重い。
先輩が、少し離れた位置で俺を見ている。
「……戻ったね」
平坦な声だった。
それがいちばん怖い。さっきまでの地獄が、先輩にとっては何でもないことなのだと分かってしまう。
「せ、先輩……今の……」
俺は祠と自分の手と先輩の顔を交互に見た。噛み合わない。確かに“あった”感触が、どこにも残っていない。
先輩は、俺の混乱が落ち着くのを待っていたみたいに言った。
「催眠だよ」
「……さいみん?」
裏返った、情けない声が出た。
先輩は小さく頷く。
「暗い場所。夜。寝不足。さっきまでしていた怪談。恐怖心。ストレス」
「そこに言葉を置く。呼吸を合わせる。視線を誘導する」
「質問で形を作らせる。あとは、背中を押すだけ」
「――それだけで、人は“視る”」
喉の奥がひりついた。否定したいのに、思い当たることばかりだ。
息を合わせろと言われた。目を閉じろと言われた。思い出せと言われた。左からと言われた。止まれと言われた。戻ってこいと言われた。
俺はその通りに視た。
正確には、視せられた。
先輩は俺の目をまっすぐ見て、続ける。
「君、嘘をついたでしょう」
その言葉で、心臓が冷たくなる。
「君の話はあまりにも具体的だった。具体的過ぎた」
「祠の木の感じ。道の幅。足元。結び直す癖。そのどれもが、現実の質感を持ってしまっていた」
「嘘に、現実を混ぜた。でしょう?」
胸が痛い。言い返せない。
混ぜたのは今日見た祠の記憶だ。混ぜたのは祖父の言葉だ。混ぜたのは、あの夜の恐怖だ。
先輩は声を少し落とす。
「危ないのは、嘘そのものじゃない」
「嘘に筋を通すこと」
「筋が通ると、誰でも信じる。信じたものは、形になる」
「嘘が……?」
「嘘が形になると、“現象”になる」
「本物が寄ってくることもあるし、人が寄せることもある」
「どっちにしても、君は巻き込まれる」
先輩は少しだけ語気を強めた。
背中が冷えた。
もし俺が、もっと上手く嘘を語れていたら。筋を通して、面白がって誰かに広めていたら。
その“形”は俺の手を離れて歩き始めたかもしれない。『葬列』のように。
先輩が俺を見る。
「だから今日みたいに一度、思い知らせる必要があった」
思い知らせる。
あの黒い手は先輩が作った幻だった。それでも俺は本気で終わると思った。
もし本物だったら――考えたくもない。
「……すみませんでした」
とっさに頭が下がった。
先輩はうなずきもしないし、否定もしない。けれど、肩の線だけがわずかに緩んだ気がした。
「もう一つ」
「君は『左手』って言った」
「はい」
「言い切った。迷わなかった」
「だから、そう“決まった”」
息をのむ。確かに俺は自分で左と言った。
言った瞬間、世界がその方向へ寄った。寄って、固定されたのか……。
先輩はマフラーの端を整えるみたいに指先を動かしながら言う。
「言葉は指向性を持つ」
「向けた方向に、思考が寄る。思考が寄ると、感覚が寄る」
「感覚が寄ると、現実がその形に歪む」
その言葉で、ようやく理解した。
この人は怖い。
怪異よりも、人の意識を“怪異のかたち”へ変えられることが怖い。
なのに、目が離せない。
俺は変な笑いが出そうになるのを飲み込んで言った。
「先輩は、なんでそんなに平然としていられるんですか」
先輩は表情を変えない。ただ遠くを見る。ここにない何かを思い出すように。
「『祈りは神を変えず、祈るものを変える』……私も、たぶん同じ」
意味は分からなかった。まだ、そのときは。
けれど、その言葉を置いた先輩が、少しだけ遠く見えた。
俺は先輩の横顔を見た。
街灯の光が頬の線だけを白くして、他は夜に溶けている。近くにいるのに、触れられない距離がある。
昼間のことが、嫌なくらい鮮明に蘇った。
小川先輩が、笑い声を混ぜて言った。
「そういうのって、怖いでしょ?」
笑いながら言うくせに、目は笑っていなかった。
他の先輩たちも、そうだった。
自分と違うものを視る他者を恐れ、拒んでいる。
気味が悪い。関わりたくない。
誰も口にしない。口にしないまま、先輩の周りだけが深く切り離されていく。
そのとき、祖父との記憶が思い起こされる。
父の遺影の前。二人で手を合わせたとき。祖父は優しく言った。
『政親は変わったもんを見てたみたいでな。……結局わしには、何が何だかわからんかった』
『いつか、宗介も視ることになるかもな』
『けんどなぁ、視えても、視えんでも、一人じゃないぞ』
そこで祖父は俺のことを優しく抱きしめた。
『ジーちゃんがおるからな。お前は、一人ぼっちにはならんでな』
その包容に幼いながらに俺は安心した。
大好きだった祖父の匂いが蘇り、目頭が熱くなる。
『宗介。視えることを畏れるな。いずれ向き合うことになる』
祖父は、父の孤独を知っていたんだと思う。
視える人間が、視えるせいで一人になっていくのを――見送ってきたんだろう。
だから言った。畏れるな、と。その運命に。
俺にはあの時、祖父がいた。いてくれた。
けれど先輩はどうだろう。
今、目の前にいる先輩が、どこか寂しそうに見えた。
そこで気づいた。この人は孤独なのだと。世界の中で一人ぼっちなのだと。
俺は息を吸って、吐いた。
さっきみたいに言葉に操られるためじゃない。自分で、言葉を紡ぐために。
「……先輩」
今、この人から逃げてはいけない。
それは自分自身から逃げることと同義だ。
あの日の祖父を裏切ることと同義だ。
だから言った。
「教えてください。視方を、接し方を。俺、ついていきます」
言った瞬間、背中の寒さが少しだけ引いた。
怖さが消えたんじゃない。
怖さの向こう側に、立つ覚悟ができた。
先輩は何も答えないでいる。その目が冷たく俺に向けられる。
それでも、俺は先輩を一人にしたくないと思った。
それで、つい口から出た。
「師匠」
先輩が一瞬止まった。
まばたきの回数が増え、視線が揺れる。表情が追いつかない。
それから、肩が小さく震えた。
「……ふふ」
漏れた息が、笑い声だった。抑えた笑いがこぼれるような音。
次の瞬間、先輩は口元を手で隠し、もう一度笑った。堪え切れない、という感じで。
それが、俺が初めて見た、彼女の笑顔だった。
胸の奥が、妙に熱くなる。
「……やめて。なれない呼び方」
笑いを堪えた声で先輩は言った。
でも、次の言葉は少しだけ柔らかい。
「まあ……いっか」
それが、さっきの「怖いなら怖いままでいい」と同じ“許可”に聞こえた。
俺はもう一度、確かめるように言う。
「師匠」
先輩は呆れたみたいに息を吐き、それでも目だけはほんの少し優しくなった。
「……帰ろう。寒い」
茶色いコートの背中が先に歩き出す。
俺はその半歩後ろをついていった。今度は俺の意思で。
祠の影は、ただの影だ。黒い手の形なんて、どこにもない。
すべてが終わった――そう思いたい。
白いマフラーが夜の中で目立つ。
“白い天使”というあだ名が、少しだけ現実味を持った気がした。
怖さが消えたわけじゃない。
それでも俺は、この人から教わりたいと思った。
この世ならざるものと、そして――言葉と向き合う方法を。
そうして俺は、以降この人のことを「師匠」と呼ぶことになる。




