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帰送シリーズ  作者: 流浪
8/15

『扉を叩く』

 大学一回生の初夏だった。

 窓を少しだけ開けたまま寝ていたせいか、部屋の空気は夜中でも薄く湿っていた。遠くで車が流れる音がして、たまにアパートの配管が眠りの底を引っかくみたいに鳴る。

 ふと目が覚めた。

 裸眼のまま、ぼやけた視界を無理やり凝らす。枕元の置時計は赤い数字で、午前二時を少し回っていた。普段なら眼鏡を探すところだが、寝起きの頭はそこまで回らない。

 喉が乾いているのが分かった。舌が熱い。トイレに行こう、とだけ思って布団から抜け出した。

 用を足して戻る。ドアを閉める。息を吐く。――そこで。

 「コンコン」

 玄関だった。

 こんな時間に誰だよ、と一瞬遅れて腹が立った。新聞の勧誘にしたって宗教にしたって、時間帯ってものがあるだろう。寝起きのまま廊下に出る。裸足の足裏に床の冷たさが貼り付いた。

 眼鏡がない。世界が滲む。輪郭が甘くて距離感が狂う。玄関の覗き穴までが遠く感じた。

 ふらふらしながら玄関に着き、覗き穴を覗いた。

 知らない男が立っていた。

 無表情だった。怒っているわけでも、困っているわけでもない。顔が「何もしていない」みたいに止まっている。服装はスーツなのか作業着なのか、暗くて判別できない。けれど、男の目がまっすぐこちらを見ていることだけは分かった。

 宗教勧誘か。あるいは酔っ払いが部屋を間違えたか。

 そう自分に言い聞かせるために、俺は覗き穴から目を離した。

 無視だ。放っておけば帰る。

 そう思って、布団に戻ろうとした。

 「コンコン」

 また鳴った。

 苛立ちが先に立った。もう一回覗く。

 同じだった。

 男はさっきと寸分違わない位置に立っている。肩の高さも、顔の角度も、覗き穴の中心に収まっている感じさえする。動いた気配がないのに、「ずっとそこにいた」みたいな立ち方だった。

 ……気味が悪い。

 息を殺して耳を澄ます。廊下に足音はない。隣室の物音もない。男の呼吸すら聞こえない。なのに覗き穴の向こうには「人がいる」。まるで絵だけが貼り付いているみたいに。

 「コンコン」

 ノックが、また来る。

 今度は少し強い。

 その音の衝撃が、床を通って裸足の足裏に小さく伝わった。

 薄い恐怖が背中から這い上がってくる。なのに、それと一緒に言いようのない怒りが込み上げた。

 夜中に、他人の家の扉を何度もたたくな。

 それが敷地を荒らされることへの牽制なのか、防衛本能からくるものなのか、俺にはわからなかった。

 「コンコン、コンコン」

 二回。さっきより強い。

 覗き穴の向こうの男は、まだ無表情のままだった。そこが一番怖かった。

 次の瞬間、反射で声が出た。

 「誰だ! やめろ!」

 自分でも驚くほど大きい声だった。寝ている近所に聞こえたかもしれない。けれど止められなかった。叫ばないと、こっちが押し負ける気がした。

 覗き穴に目を戻す。

 男が――消えた。

 すっと、靄が引くみたいに見えなくなる。そこに「帰った」気配はない。ただ、覗き穴の向こうが空っぽになる。廊下の壁の模様だけが、急に現実みたいに戻る。

 ただ、その一瞬だけ。

 消える直前、男の顔が変わったのが見えた。

 恨めしそうな顔だった。それがやけに鮮明だった。

 怖くなって、俺は布団に潜り込んだ。

 後日、俺は師匠に話した。

 場所は大学の構内だった。授業の切れ目の、人気が少し途切れる場所。木陰のベンチじゃない。人の目があるところがいいと思った。自分でもよく分からない直感のようなものだ。

 俺の師匠は相変わらず表情の起伏が薄い。けれど、「聞いていない」顔ではない。目が、言葉を拾っていく。

 最後まで話し終えたところで、俺は情けない質問をした。

 「あれ、いったい何だったんですかね」

 師匠は少しだけ間を置いた。考える間というより、結論を口にする前の間。

 「十中八九、それは人間じゃないね」

 心臓が嫌な跳ね方をした。やっぱり、という納得が、怖さを補強する。

 「……あんな消え方、人間じゃないですよね」

 俺が言うと、師匠は首を横に振った。

 「それだけじゃない」

 そして、俺の目を指さした。

 「……メガネ」

 その一言で、背中がぞっとした。

 俺は目が悪い。眼鏡がないと、師匠の顔ですらぼやける。輪郭が溶けて、表情なんて読み取れない。なのにあの夜、覗き穴の男の「顔の変化」だけが異様にくっきり見えた。

 師匠が言う。

 「眼鏡なしで覗いたの、初めてでしょ」

 否定できなかった。俺は黙って頷いた。

 師匠は、淡々と続けた。

 「眼鏡はこの世のものを見るもの。

  逆に、この世のもの以外には関係がない」

 俺は眼鏡のフレームに触れた。指先に、いつもの安心が戻らない。

 「でも、なんで急に……」

 師匠は即答した。

 「君、見つかったのかもね」

 背筋が薄く冷えた。言葉が皮膚の下へ入ってくる感じがした。

 「そんな……」

 うろたえる俺に、師匠は追い打ちをかけるように言った。

 「多分、続くよ。放っておいても終わらない」

 続く。終わらない。

 あの「コンコン」が、これからも夜中に来るのかと思った瞬間、胃の奥が縮んだ。

 「どうにかしてください……」

 自分の声が情けなかった。けれど体面なんて気にしていられない。

 師匠は少しだけ考える顔をした。ほんの数秒。それから軽く顎を上げた。

 「一晩、うちに来なさい」

 「え」

 「大抵の霊なら、それで逃げる」

 “逃げる”という言い方が引っかかった。霊が逃げる? 追い払うじゃなく?

 問い返す勇気は、そのときの俺にはなかった。

 結局、俺は頷いた。

 その夜、俺は師匠の部屋に行った。

 正直、緊張した。女性の部屋に上がる経験なんてない。まして一人暮らしの部屋に、夜に行くなんて。

 師匠の住まいは、広くはないが狭くもない。新しくはないけれど古びてもいない。汚れが目立つわけでもない。

 物が少なかった。散らかっていないというより、そもそも置いていない。棚も床も空白が多い。妙に生活感の薄い部屋だった。

 それが、かえって落ち着かなかった。

 玄関を上がった瞬間、ふわっと優しい匂いがした。香水みたいに強くない。洗剤でもない。名前の付かない匂い。嫌じゃないのに、記憶に引っかかる匂いだった。

 リビングで、借りてきた猫みたいになっている俺を、師匠は横目で見て言った。

 「まあ、広くはないけど、ゆっくりしてて」

 その言い方が、やけに普通で、余計に妙だった。

 この人の“普通”は、俺の普通と少し違う。

 しばらくして師匠に呼ばれて寝室へ行くと、ベッドの横に来客用の布団が敷いてあった。

 「これしかないけど、大丈夫?」

 「ぜんぜん大丈夫です」

 口ではそう言いながら、心の中で叫んでいた。

 (俺、ここで寝るの? リビングのソファとかでよくない?)

 師匠はそんな俺の内心を知っているのか知らないのか、淡々と照明を落とした。

 布団に入る。目を閉じる。寝ようとする。

 なのに眠れない。耳が勝手に音を探す。玄関のほうの気配に意識が向く。師匠の部屋なのに、俺の神経は休まらない。いや、師匠の部屋だからか。

 どれくらい経ったか分からない。

 すっと、師匠が立ち上がる気配がした。

 俺は慌てて寝たふりをした。呼吸を浅くする。目だけを薄く開ける。

 師匠は足音を殺して、玄関のほうへ行く。

 追いかける勇気はなかった。布団の中で体が固まって動かなかった。

 玄関のほうから、何か声がした。

 師匠の声だ。低い。さっきまでの室内の声と違う。何を言っているかまでは聞き取れない。

 もうひとつ、別の音が混じった気がした。

 ノックだったかもしれないし、そう思い込んだだけかもしれない。

 しばらくして、師匠が戻ってきた。

 その目が、やたらと怖かった。

 怒っているわけじゃない。冷たいわけでもない。なのに、見たものが「こちら側のもの」じゃない目をしていた。目の奥に深い闇を見た気がした。

 師匠は何事もなかったように布団に入った。

 俺は、その夜、一睡もできなかった。

 翌朝、師匠は普通に朝の支度をしていた。

 俺だけが疲れ切っていた。目の下が重い。頭が鈍い。

 「……昨日は来なかったですね」

 なんとなく、そう言ってみた。

 師匠は少しだけ首を傾ける。

 「うん。もう大丈夫」

 それ以上は言わない。

 それから――男は二度と現れなかった。


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