『扉を叩く』
大学一回生の初夏だった。
窓を少しだけ開けたまま寝ていたせいか、部屋の空気は夜中でも薄く湿っていた。遠くで車が流れる音がして、たまにアパートの配管が眠りの底を引っかくみたいに鳴る。
ふと目が覚めた。
裸眼のまま、ぼやけた視界を無理やり凝らす。枕元の置時計は赤い数字で、午前二時を少し回っていた。普段なら眼鏡を探すところだが、寝起きの頭はそこまで回らない。
喉が乾いているのが分かった。舌が熱い。トイレに行こう、とだけ思って布団から抜け出した。
用を足して戻る。ドアを閉める。息を吐く。――そこで。
「コンコン」
玄関だった。
こんな時間に誰だよ、と一瞬遅れて腹が立った。新聞の勧誘にしたって宗教にしたって、時間帯ってものがあるだろう。寝起きのまま廊下に出る。裸足の足裏に床の冷たさが貼り付いた。
眼鏡がない。世界が滲む。輪郭が甘くて距離感が狂う。玄関の覗き穴までが遠く感じた。
ふらふらしながら玄関に着き、覗き穴を覗いた。
知らない男が立っていた。
無表情だった。怒っているわけでも、困っているわけでもない。顔が「何もしていない」みたいに止まっている。服装はスーツなのか作業着なのか、暗くて判別できない。けれど、男の目がまっすぐこちらを見ていることだけは分かった。
宗教勧誘か。あるいは酔っ払いが部屋を間違えたか。
そう自分に言い聞かせるために、俺は覗き穴から目を離した。
無視だ。放っておけば帰る。
そう思って、布団に戻ろうとした。
「コンコン」
また鳴った。
苛立ちが先に立った。もう一回覗く。
同じだった。
男はさっきと寸分違わない位置に立っている。肩の高さも、顔の角度も、覗き穴の中心に収まっている感じさえする。動いた気配がないのに、「ずっとそこにいた」みたいな立ち方だった。
……気味が悪い。
息を殺して耳を澄ます。廊下に足音はない。隣室の物音もない。男の呼吸すら聞こえない。なのに覗き穴の向こうには「人がいる」。まるで絵だけが貼り付いているみたいに。
「コンコン」
ノックが、また来る。
今度は少し強い。
その音の衝撃が、床を通って裸足の足裏に小さく伝わった。
薄い恐怖が背中から這い上がってくる。なのに、それと一緒に言いようのない怒りが込み上げた。
夜中に、他人の家の扉を何度もたたくな。
それが敷地を荒らされることへの牽制なのか、防衛本能からくるものなのか、俺にはわからなかった。
「コンコン、コンコン」
二回。さっきより強い。
覗き穴の向こうの男は、まだ無表情のままだった。そこが一番怖かった。
次の瞬間、反射で声が出た。
「誰だ! やめろ!」
自分でも驚くほど大きい声だった。寝ている近所に聞こえたかもしれない。けれど止められなかった。叫ばないと、こっちが押し負ける気がした。
覗き穴に目を戻す。
男が――消えた。
すっと、靄が引くみたいに見えなくなる。そこに「帰った」気配はない。ただ、覗き穴の向こうが空っぽになる。廊下の壁の模様だけが、急に現実みたいに戻る。
ただ、その一瞬だけ。
消える直前、男の顔が変わったのが見えた。
恨めしそうな顔だった。それがやけに鮮明だった。
怖くなって、俺は布団に潜り込んだ。
*
後日、俺は師匠に話した。
場所は大学の構内だった。授業の切れ目の、人気が少し途切れる場所。木陰のベンチじゃない。人の目があるところがいいと思った。自分でもよく分からない直感のようなものだ。
俺の師匠は相変わらず表情の起伏が薄い。けれど、「聞いていない」顔ではない。目が、言葉を拾っていく。
最後まで話し終えたところで、俺は情けない質問をした。
「あれ、いったい何だったんですかね」
師匠は少しだけ間を置いた。考える間というより、結論を口にする前の間。
「十中八九、それは人間じゃないね」
心臓が嫌な跳ね方をした。やっぱり、という納得が、怖さを補強する。
「……あんな消え方、人間じゃないですよね」
俺が言うと、師匠は首を横に振った。
「それだけじゃない」
そして、俺の目を指さした。
「……メガネ」
その一言で、背中がぞっとした。
俺は目が悪い。眼鏡がないと、師匠の顔ですらぼやける。輪郭が溶けて、表情なんて読み取れない。なのにあの夜、覗き穴の男の「顔の変化」だけが異様にくっきり見えた。
師匠が言う。
「眼鏡なしで覗いたの、初めてでしょ」
否定できなかった。俺は黙って頷いた。
師匠は、淡々と続けた。
「眼鏡はこの世のものを見るもの。
逆に、この世のもの以外には関係がない」
俺は眼鏡のフレームに触れた。指先に、いつもの安心が戻らない。
「でも、なんで急に……」
師匠は即答した。
「君、見つかったのかもね」
背筋が薄く冷えた。言葉が皮膚の下へ入ってくる感じがした。
「そんな……」
うろたえる俺に、師匠は追い打ちをかけるように言った。
「多分、続くよ。放っておいても終わらない」
続く。終わらない。
あの「コンコン」が、これからも夜中に来るのかと思った瞬間、胃の奥が縮んだ。
「どうにかしてください……」
自分の声が情けなかった。けれど体面なんて気にしていられない。
師匠は少しだけ考える顔をした。ほんの数秒。それから軽く顎を上げた。
「一晩、うちに来なさい」
「え」
「大抵の霊なら、それで逃げる」
“逃げる”という言い方が引っかかった。霊が逃げる? 追い払うじゃなく?
問い返す勇気は、そのときの俺にはなかった。
結局、俺は頷いた。
*
その夜、俺は師匠の部屋に行った。
正直、緊張した。女性の部屋に上がる経験なんてない。まして一人暮らしの部屋に、夜に行くなんて。
師匠の住まいは、広くはないが狭くもない。新しくはないけれど古びてもいない。汚れが目立つわけでもない。
物が少なかった。散らかっていないというより、そもそも置いていない。棚も床も空白が多い。妙に生活感の薄い部屋だった。
それが、かえって落ち着かなかった。
玄関を上がった瞬間、ふわっと優しい匂いがした。香水みたいに強くない。洗剤でもない。名前の付かない匂い。嫌じゃないのに、記憶に引っかかる匂いだった。
リビングで、借りてきた猫みたいになっている俺を、師匠は横目で見て言った。
「まあ、広くはないけど、ゆっくりしてて」
その言い方が、やけに普通で、余計に妙だった。
この人の“普通”は、俺の普通と少し違う。
しばらくして師匠に呼ばれて寝室へ行くと、ベッドの横に来客用の布団が敷いてあった。
「これしかないけど、大丈夫?」
「ぜんぜん大丈夫です」
口ではそう言いながら、心の中で叫んでいた。
(俺、ここで寝るの? リビングのソファとかでよくない?)
師匠はそんな俺の内心を知っているのか知らないのか、淡々と照明を落とした。
布団に入る。目を閉じる。寝ようとする。
なのに眠れない。耳が勝手に音を探す。玄関のほうの気配に意識が向く。師匠の部屋なのに、俺の神経は休まらない。いや、師匠の部屋だからか。
どれくらい経ったか分からない。
すっと、師匠が立ち上がる気配がした。
俺は慌てて寝たふりをした。呼吸を浅くする。目だけを薄く開ける。
師匠は足音を殺して、玄関のほうへ行く。
追いかける勇気はなかった。布団の中で体が固まって動かなかった。
玄関のほうから、何か声がした。
師匠の声だ。低い。さっきまでの室内の声と違う。何を言っているかまでは聞き取れない。
もうひとつ、別の音が混じった気がした。
ノックだったかもしれないし、そう思い込んだだけかもしれない。
しばらくして、師匠が戻ってきた。
その目が、やたらと怖かった。
怒っているわけじゃない。冷たいわけでもない。なのに、見たものが「こちら側のもの」じゃない目をしていた。目の奥に深い闇を見た気がした。
師匠は何事もなかったように布団に入った。
俺は、その夜、一睡もできなかった。
*
翌朝、師匠は普通に朝の支度をしていた。
俺だけが疲れ切っていた。目の下が重い。頭が鈍い。
「……昨日は来なかったですね」
なんとなく、そう言ってみた。
師匠は少しだけ首を傾ける。
「うん。もう大丈夫」
それ以上は言わない。
それから――男は二度と現れなかった。




