第5話 罠
体をかがめ、物陰に身を隠しながら三階までのぼった。今のところ、敵らしき姿は見えない。
「見て、藍果さん。この教室、音楽室じゃない?」
「……ほんとだ」
四つん這いになって階段から移動し、慎重に廊下へと顔を出す。目の前にあるのは音楽室。そして、その両側には別の教室が三部屋ずつ並んでいた。音楽室の扉は開いていて、部屋の中にはピアノが見える。弓丸が、私のすぐ後ろから話しかけてきた。
「あの鏡が現れたとき、階段が吹き抜けのような役割を果たしたんじゃないか。この階段の踊り場なら、少なくとも一階から五階までは、あの旋律が聞こえるはずだ」
「……うん。そうだね」
私たちがここに来たときの状況を、もう一度頭の中に呼び起こす。
〈甘味処あづさ〉で突如現れた大きな鏡。思い返してみれば、その時点では「鏡の中に吸い込まれる……!」なんて事態にまでは達していなかった。そうなったのは、あのピアノの音が聞こえてきてから。
「もし、この場所に転送されるための条件が〈大きな鏡〉と〈ピアノが奏でる不気味な校歌〉が重なることなら——アヤだって、この階段のどこかにいるかもしれない。きっとまだ近くに」
「襲われてしまった可能性もある。だよね?」
私があえて触れなかった想定を、而葉さんが付け足した。
「気がはやるのは理解するわ。でも、慎重にいきましょう」
「う、うん。分かってる」
確かに、無事でいる可能性の方が低いかもしれない。けれど、教室やトイレ、ロッカーや掃除用具入れなど、身を隠せる場所はいくつもある。悲観するにはまだ早いはずだ。
「藍果、而葉。音楽室の中、調べておこう」
***
音楽室に入り、中を見渡した。
奥にはグランドピアノがある。机と椅子、黒板の配置は普通の教室と同じ。壁には防音加工が施されている。黒板の前には、可動式のホワイトボードも置かれていた。
「……学校の教室って、こういう感じなんだな。便利そうだ」
「一回も見たことなかったの?」
「ポスターとか、画面の中で動く広告とか。そういうのでなら、見たことあるけど」
私と弓丸は、ピアノの側へと近寄った。
鍵盤のふたは開けられている。使い込まれてはいるものの、大きな傷や破損はない。弓丸が、備え付けの譜面台に置かれた紙を指差した。
「これは?」
「……私の、卒業した小学校の校歌」
「へえ……そんなものがあるのか」
清く、正しく、しなやかに。そんな歌詞が書かれている。私が、昔の私たちが、いつも流れ作業のように歌っていた校歌。
旧五年一組の、クラスメイトたちのことを思い出す。否応なく、思い出してしまう。もし、私たちのうちの誰かが、一人でもあの子の味方でいてあげられたなら。
——誰かが、って何だ。
私が……私だけでも、あの子の味方になっていれば。あんなことにはならなかったはずなのに!
「これさ。どういう意味だと思う?」
而葉さんの声で、ハッと現実に引き戻された。
「えっ……あ、えっと」
私は、たまにこうなる。七年前の後悔に呑み込まれ、頭の中がいっぱいになって。体が固まって、それなのに心臓だけはうるさく脈打って、他のことが考えられなくなってしまう。
而葉さんがクスリと笑い、ホワイトボードを指差した。
「もう、ぼーっとしてると足元すくわれるよ。ほら、これ見なよ」
そこには、赤いマーカーで「ノ」とだけ書かれていた。そして、近くの床にはキャップの開いた赤いマーカーが転がっている。
「僕には見当がつかないな。藍果は?」
「うーん……ちょっと待って」
マーカーを拾い上げて、ペン先を触ってみる。ちょん、と赤いインクが指先について、私は首を傾げた。
何かがおかしい。妙だ。
「而葉さん、このマーカー、まだ乾いてないん……」
普通、マーカーのキャップが開いたまま放置されていたら、ペン先は乾いてしまうはずだ。なのに、このマーカーは乾いていない。つまりそれは、さっきまで誰かがここにいて。
ホワイトボードに残るのは、「ノ」の形をしたマーカー跡。乱雑でかすれた赤色。
「……もしかして」
頭の中で点と点がつながった。首筋の毛がザワッと逆立って、私はマーカーを取り落とす。一度思い至ってしまえば、もはやそうとしか思えない。
「これ、『入るな』って書こうとしたんじゃ……!」
からららら、バンッ!
大きな音が響き、ドアがひとりでに閉まった。
「そこにいろ!」
弓丸が鋭く叫び、机を飛び越えてドアを引く。
開かない。
「ねぇ、ちょっと嘘だよね、ねぇ弓丸っ」
弓丸は舌打ちをし、腰に差していた太刀をスラリと抜いた。
「結界が張られてる。この部屋は、獲物を誘い込んで捕えるための罠だったんだ。先に気づくべきだった……が」
無駄のない、流麗な太刀筋で刀の切っ先が振り下ろされる。弓丸の纏う水干の袖が、鷹の翼のように広がった。
「結界破りは力と力のぶつかり合いだ。禍者が〈化生のモノ〉の力を借りて作った程度の結界、どうということはない」
斬撃を受けたそのドアを、とん、と軽く刀の柄で押す。真っ二つになったドアが廊下側に倒れ込み、割んばかりの騒音が辺りの静寂を打ち砕く。
細かな埃がちらちらと舞い、ある種の美しさすら感じさせる光景に、私はしばし見惚れ——そして、弓丸に駆け寄ろうとしたその時だった。
「えっ、なっなにこれどういうこと!?」
体が動かない。
指先は動かせるし、瞬きもできる。けれど、足や腕が上がらない。下げることもできない。細い糸で、体を幾重にも縛られているような——しかも、もがけばもがくほどがんじがらめになって、締め付けが強くなってくる。無理に動かそうとすれば、ぞわぞわとした感覚が剥き出しの肌に張りついた。
弓丸も同じ状態らしく、刀を提げたまま困惑した表情を浮かべている。
「なんだ、これ」
「変な感じ。気味が悪いわ——まるで、蜘蛛の巣にでも掛かったみたい」
「……っ朧月夜!」
弓丸が左手を開き、私たちの体に絡む〈糸〉を掴んでそう言った。〈朧月夜〉は目眩しの術。もし、同じような細工がされている〈何か〉にもう一度術をかけたとすれば、きっとそれは反転して——。
縦横無尽に張り巡らされた、消え入るように細い糸。私たちに絡まるそれが、実体を持って目の前に現れた。




