第4話 鏡の向こう
「いったた……」
頬に当たるのは、冷たく硬い床の感触。目を開けると、そこは階段の踊り場だった。壁の一角には、全身がすっぽりと映る大きな鏡。さっき見たものと同じだ。
「ねぇ二人とも、起きて」
身を起こし、小声で呼びかけながら弓丸と而葉さんの体をゆする。ほどなくして、二人は目を覚ました。
「……先手を取られた。やはり油断はできないな」
「うら若き乙女を床に寝かせるなんて、不届きな敵ね」
パッと見た感じは学校だ。五月にしては肌寒く、窓の外も真っ暗。例えるなら、人っ子ひとりいない冬の夜の校舎、といった雰囲気だ。申し訳程度に蛍光灯がついていて、思わず身震いしたくなるような感覚があった。
「神域である常世と、普段君たちが暮らす現世の狭間に作られた空間だ。十中八九、〈化生のモノ〉を操る禍者のしわざだな」
私たちは〈甘味処あづさ〉で過ごしていたはずだ。それが突然、客も店員もいなくなって大きな鏡が出現し、不気味なピアノの音が響き渡った。気がつけば、こんなところで倒れていたというわけだ。
あの時、とっさに手を握っていた弓丸と而葉さんはここにいる。ただ、アヤの姿はどこにもない。
「……探さなきゃ。あの時一緒にいたんだから、きっとアヤもこの建物にいると思う」
「そうだな。向こうは確実に何か仕掛けてくるはずだ、早い方がいい」
「無駄に時を浪費することは避けるべきよ。単独行動も然り。探す場所、多少の見当はついてる?」
「うーん……」
正直、この校舎の構造はまだよく分からない。だが、アヤを探すという目的のみに絞るとすれば。
「ここと同じ、大きな鏡がある場所を探す、っていうのはどうだろう」
私たちが今いる場所の、最大の特徴はこの鏡だ。一緒に流れていた校歌のことも気になるが、一番分かりやすいのはこれだろう。アヤがここにいないということは、同じ役割をこなす鏡が他にあるということだ。
「一理あるな」
「そうね。途中で音楽室を見つけたら、そこも覗いてみましょう」
「そうします」
「ね、早我見さん」
動き出そうとすると、而葉さんに手をつかまれた。ふわりと鼻腔をくすぐる、花のような甘い香り。爽やかな印象の目元に前髪がかかって、サラサラのショートヘアが揺れた。首をこてんと傾け、男子どころか女子生徒まで軒並みノックアウトできそうな微笑を浮かべる。
「前から思ってたんだけど、そう畏まる必要はないの。先輩とか気にしなくていいし、もっと気楽に話しかけて頂戴。せっかくの縁なんだから、仲良くしてくれたら嬉しいな」
「……あっ、えっ、と」
——私、この人が苦手だ。
理屈ではなく、本能的なもの。こんなに綺麗な微笑みなのに、こんなに優しい声なのに。而葉さんと向き合うと、どういうわけか身がすくむ。声が震えないよう、顔が引きつらないように気を強く持ちながら、精いっぱいの愛想を返した。
「じゃあ、うーんと……藍果って呼んで、ね?」
「ありがと。改めてよろしくね、藍果さん」
蕩けるような笑みを浮かべ、而葉さんはうなずいた。そんな彼女に背を向けて、私はそっと息をつく。而葉さんから感じる、この特有の圧迫感は何なんだろう。舞台をいくつも潜り抜け、結果を出してきたから——ということだけでは、やはり説明しにくい。他に考えられる原因が、何か……。
チラッと後ろを振り返れば、視界に入ったのは立派なお胸。抜群のプロポーションは羨ましい限りだが、苦労することも多そうだ。
そんなどうしようもない余所事に気を取られていたら、而葉さんと目が合った。
「ぼんやりしちゃって。何か?」
「いや、あの……えっと、この建物を調べるなら、まずは上の階に向かった方がいいと思った、の」
壁に取り付けられた、階数表示のプレートを指差す。
「下に行けば二階、上に行けば三階って書いてあるけど、最大で何階まであるかについては分からない。戦うにしても逃げるにしても、それくらいの情報は入手しておきたいんだけど……どう?」
「いいと思う」
「そうしましょう。賛成」
この先、どんな危険があるか分からない。アヤの身も心配だが、この空間を作り上げた禍者の正体も気にかかる。
アヤを見つけて、禍者のことも解放する。これが、さしあたっての目標だ。
周囲の気配を探りつつ、私たちは静かに階段をのぼり始めた。




