名乗る声
本当にオリヴィア=ダウズウェルの名はなかったなぁ、なんて、果胡はバートを医務室に送った後の帰りでぼんやり思っていた。オリヴィアの存在を消すことはオリヴィア自身がしたことであり、今更果胡が嘆くことではない。悲しいとかショックだとかそんな感情はないけれど、致し方ないことだったと思いつつ、ほんの少し、やっぱり寂しい気がした。
「大丈夫か?」
「え?」
黙って歩いていたからだろうか。リタが横から果胡の顔色を覗き見るように身体を傾ける。急に視界を塞いだ綺麗な顔に、果胡は一瞬足を止めて身を引いた。
「え、じゃなくて。さっきから全然話さないから、具合悪くなったのかと思って」
「ああいや、大丈夫ですよ。難しい話が続いていたのでどうにも口を挟みづらかっただけで」
「ならいいけど。てっきり歴代神子一覧を見てショックでも受けていたのかと」
果胡はリタの呟きにドキリとする。図星とまではいかなくても、彼の勘の鋭さには心臓が酷使されて劣化しそうだ。距離感のないリタの顔を手で押しやり、誤魔化すように言い訳をしてしまったことはバレているだろうか。
「ショックって言ったって、自分がそうさせたんだから、今更…」
「でもお前だって消したくて自分の存在を消したわけじゃないだろ?身近にいた者から忘れられているってそんなに平気な事じゃないって俺は思うけどな」
「………」
独り言のように呟くリタは、言い聞かせるわけでもなく、諭すわけでもなく、けれど自分を顧みらせるような絶妙な口調だった。果胡に答える義務はなかったけれど、なんとなく言い訳を重ねたくなる。
「だって仕方ないでしょう。傍若無人な神がそう言うんですもん。私にはどうしようも…」
「だとしても、神はお前にそれでも平気でいろなんて言ってねぇだろ。神子は感情を持つ人間だ。神の操り人形でもない。…そう言っていたのはお前だろ?」
遠い昔。
そんなことを言っていたような気もする。神子として生まれたせめてもの足掻きで、神子として生きていく為の糧として、自分に言い聞かせるようにそう言っていた。そんな昔のこと、リタはまだ覚えていたのか。というか、そんなオリヴィアの愚痴のような呟きを気に留めていたという事の方が驚きだ。
そうでしたっけ、なんて曖昧な返事をして、果胡は覚えていない振りをした。
「それにしても、歴代神子の名前を知ることになるとは何だか不思議な感覚ですね。…神は覚えているのでしょうか」
「勝手に神に訊くなよ。まだ全快したわけじゃないんだから」
「分かってますよ。私だってあんなにきついのはコリゴリです。訊くにしても、もっと鬱憤を溜めてからまとめて訊きます」
訊こうと思えば訊けるのに、我慢しなければならないというのはそれはそれでストレスが溜まる。だからと言って、必ずしも神が素直に答えてくれるとは限らないのだが。ただ、神と話していれば何が鍵となる事柄なのかは分かる。神は自分に都合が悪いこととなるとすっとぼけるか黙るかする。そうなった時は何か裏があるということだ。その辺は分かりやすくて非常に助かっている。
「バルドル=ベルクマンが首謀者として、様子を窺うだけでもベルクマン家に直接乗り込むっていうのが一番早いかと思うんですが」
「一番早くて一番無謀な方法だな。んなことしてもしダウズウェル家からの刺客だとばれたら即行で内戦勃発だな」
「ですよね」
ダウズウェル家とベルクマン家は特別仲が悪いというわけでもないが、お互いに干渉せず干渉させずというバランスを保つことでこれまで争いを免れている。つまり、何か少しでもきっかけがあればぶつかることなんて簡単なのだ。
能天気に生きてきたオリヴィアのお陰で、果胡の中にはあまりベルクマンの名が記憶にない。聞いたことはある気がすると、そのくらいだ。
「ベルクマン…、ベルクマン、ねぇ…」
「何だ、何か引っ掛かるのか?」
「いえ…。引っ掛かるっていうんですかね。何かこう、聞いたことある名前のような」
「そりゃいくらお前でも聞いたことくらいあるだろ。ダウズウェル家と肩を並べるほどの名家だぞ」
「…うーん…」
人とすれ違う廊下であまりベルクマンの名を口にするなとリタが注意するため、果胡は頭の中で何度もベルクマンを連呼する。リタの言う通り、日本で言う内閣総理大臣くらいの知名度がある名前なのだから、いくらオリヴィアが能天気に遊び回っていた子どもだったとしても耳にしたことくらいはあるだろう。それは恐らく、教育係だったバートから教えられているはず。若しくは町中で耳にしたとか、大人達が喋っているところを偶然聞いたというくらいだろう。
だが、果胡の中で引っ掛かっているのは、そんな知り方ではなかったような気がするからだ。ベルクマンと聞いたその声は、悪餓鬼を追いかけ回して血を吐きそうな眼鏡教育係の声でもなく、噂が大好きなおば様達の声でもなく、もっとこう、高くて透き通っている───…。
『───ルクマンって言うの。宜しくね』
「──────…え?」
夕立の最初の一粒が落ちてきたように、頭に降って来たその声に果胡は足を止めた。




