湯気に隠れた影
と言っても、今はもうオリヴィア=ダウズウェルは存在しないので、単に王室付の騎士だとリタは笑って言った。オリヴィア専属というのはリタの気持ちの問題である。目に見えない、存在していないとされているものを守る。それがどんなに虚しいことか想像すらできないけど。
「それに、国王陛下達…オリヴィアの親父さんとお袋さんには言い尽くせないほど世話になっている。あの人達を守って生きていけるなら幸せだと思ったからな」
「父様と母様もそれを望んでいるんですか?」
「どうだろうな。お前ら家族は皆似てるからな。口には出さないけど、心から喜んでいるわけじゃないと思う」
本当の子どものように過ごしてきた人を、自分達の護衛になど出来るわけない。ただ、それは個人的な思いだ。だからいって、個人に持つ特別な感情がまかり通るわけもなく。
リタは多分、それも分かってて騎士となった。エーベルハルト達が反対出来ないと知っていて。
「こうでもしなきゃ、あの人達に恩は返せない」
いつから、リタはそんなことを考えていたのだろう。きっと大人になって、考え方が変わったというわけではない。ずっとずっと昔から、オリヴィアには見えないところでリタはずっと大人で。
「律儀ですね。本人達は返してもらおうと思ってなどいないのに」
「だろうな。それも分かってる。これは俺の我儘だよ」
「我儘、ね。…リタは昔から我を通すタイプではなかったですよね。変わっちゃったなー」
「変わってなんてねぇよ。俺は昔から我儘だ。お前の為なら命だって差し出すさ」
結局、リタは変わったのか変わってないのか。果胡に答えは全く出せなかった。
確実に変わっていないと言えることは、彼はいつだってオリヴィアの為に生きているということだ。
「ところで、アレもう一回言ってくんない?」
「アレとは?」
思い出したように言うリタは、ボフリとベッドに寝転がった。今にも寝そうに瞼が半分落ちている。こいつ、確かまだ仕事中だった気がするが。
「さっき言ってたやつ」
「だから何を指してるのか分からないんですけど。私何か珍しい呪文でも唱えました?」
「呪文っつったら呪文かもなぁ。俺だけの専用にしてもらうけど」
「専用?」
何の事だと顔を顰めると同時に、果胡の視界は急にぐらりと揺れた。
「!」
力など入っていなかった身体は簡単にベッドの上に落ち、衝撃に閉じていた目を開けば、すぐそこにリタの顔があった。長い睫毛と透明度の高い瞳。きめ細やかな肌は女性のようで、シャープな輪郭から繋がるのは、しっかり男性だという喉仏と首筋。
乱れた髪の毛を梳かすように触れる手で、果胡はリタに引っ張られたのだと理解した。
「あの、『リタの馬鹿』ってやつ、もう一回」
「────…!」
指では果胡の髪の毛先をなぞるようにして、リタは不敵な笑みを浮かべていた。果胡がこの後、見えている肌全てが真っ赤になることを知っているかのよう。
「…そっ、…んなこと言いました…っけ?」
「言いました。ほら、サンッハイ!」
「……馬鹿ですか」
「いやー、それじゃないんだよなぁ。さっきの再現、サンッハイ!」
「んもう、離してくださいってばっ…」
果胡は距離を取ろうとして腕を伸ばしてリタを遠ざける。だがやはり体格差は顕著で、彼の肩を押しても動くのは果胡の方だった。背中が、ベッドからはみ出て宙に浮く。そもそもシングルベッドに二人転がっているのは非常に狭く、それだけでもギリギリ乗っていたくらいだったのに、動いたりしたらはみ出てしまうのは当然だった。
「っわ、」
「おっ……と、」
落ちても大した高さではなかったのだが、寸ででリタが腕を掴んで支えてくれる。そのまま中央へ引っ張って、自分はベッドから下りた。足の方へ追いやられていた掛布団を引っ張り、雑に果胡へ掛けると、子どもを寝かしつけるようにベッド脇へ座って枕元に頬杖を突く。
「…リタ?」
「記憶が戻って頭痛いんだろ。寝不足と疲労も溜まってるんだから、今日ぐらい大人しく寝てな」
ポンポン、と果胡の頭を撫でるようにして、リタは優し気な微笑みを残した。
そして、果胡に何の反論もさせないうちに立ち上がって、おやすみ、と一言呟き、静かに部屋から出て行った。
後に残ったのはリタの体温と、甘い香り。
「キザクズ男」
顔を埋めた枕の中で、果胡は呟いて目を閉じた。
***
どうせ眠れない。
そう思っていたのに、果胡はいつの間にかぐっすり眠っていたようで、目を開けたら高く昇っていた日はどこかにいなくなっていて、むしろ再び顔を出そうとしていた時間だった。窓から見える空が、ほんの少し白み始めている。もう一度寝ることも出来そうだったが、今寝れば今度は寝坊しそうだった。そんな中途半端な時間。
「お腹空いた」
そりゃそうだ。昨日は夕食どころか昼食だって食べていない。空腹で目が覚めるなんて野性的なことがあり得るのかと果胡は疑っていたタイプだったが、自分で証明してしまったようだ。
空腹もそうだが、リタに無理矢理寝かされたので着替えだってしていないし風呂だって入っていない。風呂に入って軽く朝食を食べて多少ゆっくりすれば仕事の時間だ。返ってちょうどいい時間だったのかもしれない。
風呂は使用人用の大浴場がある。不規則な勤務体制の使用人もいる為、風呂は一日中入れるようになっている。
果胡はタオルと着替え、必要な道具を棚から取り出して、寝ぼけ眼のまま風呂へ向かった。
思えば使用人の浴場はオリヴィアの時は使ったことはなかった。当たり前だ。自分の部屋に風呂が付いていたし、王室専用の風呂も別にある。風呂に特にこだわりはなかったため、何処でも良かったし、手近にあるものを使うのが普通だ。ちなみに、使用人用の風呂は使ったことはないだけで、入ったことはある。バートから逃げる為に女風呂まで入って来ないだろうと踏んで、身を隠すには絶好の場所だったから。奴の手先である城で一番怖いメイドが捕まえに来たけど。
そんな思い出はあれど、風呂は所詮風呂だ。一日の汚れを落とす場所に他ならない。しつこい教育係から逃げ隠れる場所でも、石鹸を足の下に敷いて滑って遊ぶ場所でも、シャンプーをめい一杯泡立てて変な髪型を楽しむ場所でもない。死ぬほど楽しかった。
服を脱いで浴室のドアを開ければ、もわりとした熱気と石鹸の香りが立ち込めていた。風呂は毎日昼間に担当の使用人が掃除をするのでいつも清潔に保たれている。風呂だけではない。城自体は古い建物でガタが来ている所ももちろんあるが、たくさんの使用人のお陰であまり年季を感じさせない。行き届いた掃除や修繕が常に保たれていた。
こんな時間に風呂に入る者なんていないだろうと、自宅の風呂に入るみたいにタオルを当てもせず、堂々と中を進んで行けば、ちゃぷん、と水の跳ねた音がした。
最初は天井から水滴となった湯気が落ちてきたのかと思ったが、それにしては随分大きな音だった。誰かいるのかと湯気の中に目を凝らせば、湯船の中に人影があり、果胡は自信のない身体をそっとタオルで隠した。
「お…はようございます…?」
人間関係は挨拶からだ。そんなことを小学校で習った気がする。時間的に挨拶の種類を迷ったけれど、多分これで合っている。証拠に、湯気の向こうで反応する声がする。
「どなた?」
「あ、すみません、新人のカコと申します」
「新人?カコ?」
人影は湯船から身を出すと、艶やかな身体がタオルに隠し切れていないままに、果胡の目にその曲線の多い身体を曝け出した。
「うっわ、巨乳」
「あらありがと」
褒めたつもりはない。つい口から漏れた素直な感想だ。しかもただただ巨乳というわけではない。締まる所はちゃんと締まっていて、肩は細いし背中から臀部にかけては滑りそうなS字を描いているし、長い脚は理想的な形に伸びている。光よりも眩しそうな黄金の髪が腰まで伸びて、ところどころ肌に貼りつくところがまたエロい。
オヤジ目線になってる果胡でなくてもはっきり言える。一言で言えば美女、それが最も似合う言葉だった。
「新人と言ったけど…ごめんなさい。私あまりそういうことに疎いんだけど、どこに配属されているの?」
「医務室です。と言っても、素人なのでお手伝いしかしてませんけど」
「そうなの。ああ、名乗ってなかったわね、私」
美女はしなやかに伸びる腕を果胡に差し出し、色っぽい唇と濡れたエメラルドグリーンの瞳で誘惑するように言った。
「私、ロッテ=グロール。宜しくね」
「あ、はい。ええと、ロッテはメイドの方でしょうか?」
少なくとも、果胡が知っているメイドの中にいた顔ではない。もしかしたら新しく入ったメイドかもしれないと何の気なしに訊いたことだったのだが、ロッテは少しだけ渋って、眉をハの字にしてメイドじゃないと首を振った。
「神子なの」
同時にロッテに触れた手が、風呂の中なのに冷えた気がした。
余談。
戦地に赴いた時、リタはちゃんと戦っていました。どこも汚れていないのは、汚れるまでもなく強いから。帰りに果胡達と一緒に帰れなかったのは国王についていたからです。国勢についてもある程度知っているのは王室付騎士だからで、普通の騎士にはそこまで知らされません。
果胡はオリヴィアの時からリタが知っているのが当たり前だったので気付いていませんが。
リタのやることは本気:わざと(裏がある)=7:3くらい。何か考えているのかと思えば本気でボケていたり、本気で失敗しているときもあります。詰めが甘いんです、基本的に(作者の)
なんて、裏話。
多分もうどこでも語られることはないと思いますのでここで出しておく(笑)




