理不尽な筋肉
初出勤は緊張というより憂鬱だ。ちょうど医務室長も出張から帰って来たようで、この日に合わせて果胡の勤務始めは予定を組まれたようだった。初めてのことだからしっかり顔合わせしておいた方がいいというバートの計らいだったのだが、果胡は引き攣る表情を隠せなかった。
「ほう、記憶喪失と」
「はい…」
ギロリと睨むような金の瞳が容赦なく果胡に浴びせられる。圧倒させられているのはそれだけが原因ではない。身体全体に満遍なくついた鍛え上げられた筋肉、それを支える勇ましい骨格、少し焼けたような肌色に光が反射する銀の結われた髪。色黒だからか、歳を重ねたようには見えず、果胡の記憶の彼と今も大差ない。
「じゃあカコ。俺はエリス=グレンヴィルだ。宜しく」
「宜しくお願いします近いですエリス」
「ああすまん」
以上に近い狂った距離感も変わらない。普段から人の顔色を見ているので、癖でどうしても近くなってしまうらしいが、こんな強面で近寄られてはそれは健康な人の顔色も悪くなるだろう。顔も怖いのに筋肉を纏わせたでかい図体がエリスの威圧感に拍車をかけている。現にエリスはこの筋肉の所為か、喧嘩が馬鹿強い。本人曰く、筋肉は患者を運ぶためのものであってそれ以外の用途には使用しないとのことだが、重傷なのに戦地に行くと言ってきかない騎士を殴って無理矢理ベッドに戻しているのを、何人もの人間が目撃している。
だが、彼は基本的には優しい人間だ。普通にしていればちょっと大きい白衣の天使で、強引なところもあるけど真面目さ故の欠点だ。医務官としての腕も良く、怪我人の怪我を増やしたとしても彼の腕に掛かれば綺麗さっぱり治るので安心していい。
「ええと、それで、私は何をすればいいのでしょうか」
エリスと距離を取りながら、果胡は周りを見回した。先日は仕切りのある一角で寝ているだけだったから、特別確認することはなかったが、こうして改めて見ると、物の配置も医務官の顔ぶれも昔とあまり変わっていない。用品の置き場所はエリスが試行錯誤を重ね、最も効率的且つ衛生的だと言える配置で収納されている。恐らく今後も変わることはないだろう。勤める医務官も、専門職である為か、そうコロコロと入れ替わりが激しいわけもない。果胡の記憶にある限り、新しい顔は見てもいなくなった顔はなかった。うっかり名前を聞いていないのに口にしないように気を付けなければならない。
果胡は特別意気込んでいたわけでもないし、給料をもらう限り突っ立っているわけにはいかないと思っていただけなのに、何故かエリスはそんな果胡がやる気を見せていると思ったのか、嬉しそうに歯を見せて笑った。
「やる気のある奴は嫌いじゃない。手始めに消耗品の補充をしてくれるか?最近まで討伐隊がここで呻いていたからな、少なくなっている物が多いはずだ」
「分かりました。ええっと…、あぁ、これに書いて財務官に許可もらってくればいいんですか」
「え?あ、そうだ。随分と察しが良いな」
「先日ここにお世話になった時ちょっと見かけたもので」
「あぁ、そうか?」
見かけた程度で財務官に許可をもらいに行く流れまで分かるわけないだろう。それも、記憶喪失の何も知らない小娘が。途中でしまったと気が付いた果胡が、動揺を隠しながらついた嘘でも信じてくれるとは、さすがエリスだ。彼がは医療以外の頭脳と剣の腕はとことん弱い。
この調子なら大した説明を受けず行動しても、何となく見かけたからで通せそうである。話しているとボロが出そうなので出来るだけ人とは関わり合いたくない。幸い物品補充はリストに沿ってチェックし、必要な分の補充をすればいいという、誰にでも分かるようなことだ。詳しい説明を受けずとも大丈夫だと、果胡は適当にエリスをあしらった。そして補充用品リストの紙が挟まったバインダーを片手に、包帯やガーゼなどがしまってある棚を上から順にチェックしていく。
オリヴィアはバートに無理矢理連れてこられるものとは別に、この医務室にはよく訪れていた。大きな怪我や病気をしていたわけでもなく、至って健康体だったはずのオリヴィアが自ら顔を出していたのは、傷付いた兵達を見舞う目的だ。勿論バートには止められたし、多分忙しい医務官たちの邪魔にもなっていたかもしれない。それでも我を通して修羅場と化す空間を見つめていたのは、いずれは消えてしまう生きた証をちゃんと目に焼き付けたかったからだ。血を流して国の為に戦った証。当たり前のように誰に認められることもなく、治癒するか、この世から消えてしまう。その人が何のために戦ったのか、痛い思いをしたのか、誰か一人でも分かろうとする人間がいてもいいと思ったのだ。
「あ」
棚の上から二番目、自分の手がギリギリ届くくらいの位置に置いてある金物の入れ物。それを下ろそうと、果胡は手にを伸ばしていた。踏み台を使えば良かったのだが、踏み台の置き場所まで把握していなかった。その手間を惜しんだばっかりに、意外と重かったその入れ物は、果胡の指先だけでは支えきれず、バランスを崩して頭上に降ってこようとしていた。
金物だから当たったらそこそこ痛みはあるだろうけど、怪我をするほどでもないだろう。果胡はそう高を括って、煎餅でも入ってそうな入れ物だな、とぼんやりそれが落ちてくるのを見ていた。
ガシャン!と床に金属が当たった音が響いて、医務室にいた人間の殆どの目が果胡の方へ向く。当然に入れ物の中に入っていた使われなくなったピンセット類は、広く床に広がってしまう。
「────いっ………、?…たくない?」
多少の打撲くらいは覚悟していたのだが、果胡に降ってきたのは痛みではなく、厚い筋肉だった。─────筋肉?
「大丈夫か?」
「……エリス…」
金物が降って来る衝撃ではなく、大きな音に目を閉じた果胡がゆっくりと目を開けると、果胡を囲うようにエリスが覆い被さっていた。覆うというより盾になった、落下物の障壁になったと言った方が正しいだろう。逞しい太い腕が果胡への衝突を守ってくれたようだ。
「…す、みません…。ありがとうございます」
「怪我はないか?」
「はい、大丈夫です」
物が落ちてきたことよりエリスが守ってくれたことの方が余程驚いて、果胡の心臓はドキドキと音を立てていた。心臓が煩いのはそれだけが理由ではない。
「おいカコ」
エリスの低い声に、果胡はビクリと肩を揺らす。あ、始まった、と思った。
「あ、え、エリス、すみませ」
「お前今わざとぶつかろうとしたな!?怪我したらどうする!医務官の前で医務室で怪我だなんて許さんからな!!」
「わざとじゃな」
「言い訳はきかん!そこへ直れ!本当に怪我がないか隅々までチェックしてやる!」
眉を吊り上げて、エリスは果胡を叱責するのと同時に心配するという技を繰り広げた。彼の得意技である。すごい剣幕に近くにいた医務官が、室長、それはセクハラですと宥める声も聞こえていない。
これは果胡が悪い。エリスの前で怪我をしてしまうということがどんなことになるのか失念していたのだ。免れない怪我をしても酷く怒られるというのに、今みたいな避けられたかもしれない怪我をしようものなら、後一時間は彼は止まらない。哀れに思った周りの医務官から、大丈夫か、という視線が飛んでくるが、お構いなく、と返しておいた。
「いいか!医務室に勤務する限り、俺の前で怪我することは許さん!俺の前じゃなくても許さん!ただでさえ大量の怪我を見る現場なのに、医務官たる者がそれを増やしてどうする!ましてや、自分の怪我を防ぎきれない者に他人の怪我をどうこうする資格はない!」
「あれ、エリス。でも今私を守ってくれたせいで腕に切り傷が」
「俺はいいんだよ。こんな時の為に鍛えている!」
「成程、日々鎧を鍛えているわけですね」
何だか理不尽でしかない言い分だが、行き過ぎた反論は説教を長引かせる。自分の仕事に戻って行った医務官達をエリスの向こうに見ながら、大人しくエリスの怒号を聞いた。




