第9話 遠江の記録
翌日の昼過ぎ、俺のところへ一人の家臣がやってきた。
「若殿、昨日お話しした記録をお持ちしました」
「ああ。待っていた」
男が抱えているのは、何冊かの帳面だった。
俺は部屋へ通し、机の上に並べてもらう。
「これが遠江から駿河へ運ばれた米の記録です」
「全部か?」
「分かっている範囲では」
その言葉が少し気になった。
「分かっている範囲、というのは?」
「荷を出した場所と、受け取った場所。それぞれで帳面をつけております。ただ、途中のことまでは記録していない場合もあります」
「やはりか」
俺は一冊目の帳面を開いた。
日付。
送り主。
米の量。
運んだ者。
受け取り先。
必要なことは書かれている。
一見すると、特に問題はなさそうだった。
俺は何枚かページをめくっていく。
「この荷は?」
「遠江の浜松近くから出たものです」
「三十俵か」
「はい」
「こちらは?」
「同じく三十俵です」
送り出された米の記録を確認する。
その後、駿河側の受け取り記録を見る。
そこには二十八俵と書かれていた。
「二俵少ないな」
「はい」
家臣が答える。
「ただ、これについては理由が分かっております」
「何だった?」
「途中で一俵が破れ、もう一俵は荷車の故障で別の荷と一緒に運ばれたそうです」
俺は帳面を見比べた。
なるほど。
米そのものは消えていない。
ただ、送り出した側の記録と、受け取った側の記録だけを見ると、数字が合わなくなる。
「途中の記録はないのか?」
「口頭では残っていることもあります」
「口頭ではなく、帳面に残すことは?」
「すべてを書くとなると、手間がかかります」
その答えは予想していた。
俺は帳面を閉じず、そのまま考えた。
現代の仕事でも、こういうことはある。
出荷した。
途中で数量が変わった。
別の車に積み替えた。
そして納品した。
最後の数字だけを見れば、途中で何があったのか分からない。
だから、問題が起きたときに調べるのが難しくなる。
「若殿?」
「いや」
俺は首を振った。
「続けて見せてくれ」
「承知しました」
その後も、いくつかの帳面を確認した。
やはり同じような例がある。
十俵が別の荷車へ移されていたり、道が悪くて一度別の場所へ運ばれていたりする。
中には、受け取り側の記録だけでは理由が分からないものもあった。
「これは?」
「少し前のものですな」
「十五俵送っているのに、受け取りは十三俵になっている」
「調べれば理由は分かると思います」
「誰が調べる?」
家臣が黙った。
「……そのときに担当した者でしょうか」
「つまり、今は記録だけでは分からないということか」
「はい」
俺は帳面を見た。
記録をつけている人間が怠けているわけではない。
むしろ、必要なことはきちんと書いている。
ただ、それぞれが自分の仕事に必要な範囲で記録している。
だから、荷が動いたときに、その情報が次の場所までつながらない。
昨日の七俵と同じだった。
「この記録をつけているのは誰だ?」
「各地の蔵や荷を扱う者です」
「一人ではないのか」
「もちろんです」
俺は少し笑った。
考えてみれば当たり前だった。
今川家は、俺一人が管理できるような規模ではない。
駿河だけではなく、遠江にも領地がある。
米を作る者がいて、集める者がいて、運ぶ者がいて、受け取る者がいる。
その間に道や川があり、荷車や馬も使う。
それだけ人が動けば、情報が途切れる場所も出てくる。
「若殿、何か問題がありますか?」
「問題というより……」
俺は帳面を指で叩いた。
「これだけ人が関わっているなら、途中で数字が合わなくなるのは珍しくないんだろうな」
「そうかもしれません」
「なら、七俵を見つけたのも特別なことではない」
「はい」
俺は少し考えた。
だったら、最初から全部を変えようとするのは間違いだ。
まずは、どこで数字が合わなくなるのか。
それを知る必要がある。
「この帳面、少し借りてもいいか?」
「父上に許可を取られますか?」
「いや。預かるだけだ。見終わったら返す」
「承知しました」
家臣が頭を下げる。
「それと、もう一つ頼みがある」
「何でしょう?」
「遠江で米を運んでいる者の中から、話を聞ける者を何人か選んでくれ」
「荷を運ぶ者ですか?」
「ああ」
俺は帳面を見ながら答えた。
「帳面だけでは分からないことがある。実際に荷を運んでいる者に聞いてみたい」
「分かりました。手配いたします」
家臣が部屋を出ていく。
俺は一人になった。
目の前には、何冊もの帳面が並んでいる。
七俵から始まった話が、少しずつ広がっている。
でも、まだ何が問題なのかはっきりしたわけではない。
だからこそ、急いで答えを出すつもりはなかった。
まずは現場を見る。
そして、そこで働いている人の話を聞く。
それから考える。
俺はそう決めて、もう一度最初の帳面を開いた。




