第7話 父・義元に報告する
駿府へ戻ると、すぐに父上のもとへ向かった。
七俵の米については、もう分かっている。
五俵は別の荷車に移され、小川村の手前にある集積所へ運ばれていた。
残りの二俵は、運搬の途中で濡れて傷んでいた。
米そのものが盗まれたわけではない。
問題は、そのことが帳面に残っていなかったことだ。
「入れ」
襖の向こうから声がした。
「失礼します」
部屋へ入ると、父上は文書に目を通していた。
顔を上げた父上と目が合う。
「戻ったか」
「はい」
「米の件はどうだった?」
やはり、父上も気にしていたらしい。
「七俵については、分かりました」
「申してみよ」
「五俵は途中で別の荷車へ移され、先に集積所へ運ばれていました。残り二俵は濡れて傷んでいます」
「盗みではなかった、と?」
「はい」
父上は頷いた。
「ならば、それでよいではないか」
「……いえ」
思わず答えてしまった。
父上の眉がわずかに動く。
「何が気に入らぬ?」
「米が戻ってくれば、それで終わりという話ではないと思います」
「続けよ」
「五俵が別の荷車に移されたことも、二俵が傷んだことも、帳面には残っていませんでした」
「それが何を意味する?」
「同じことが、ほかでも起きているかもしれません」
父上は黙った。
俺も急いで言葉を続けることはしなかった。
七俵。
数字だけを見れば、大した量ではない。
今川家が扱う米全体からすれば、わずかなものだろう。
けれど、俺が気になっているのは、その七俵そのものではない。
「米を運ぶ者に話を聞きました」
「何と言っていた?」
「荷車が壊れることもある。雨が降れば荷が濡れることもある。途中で別の荷車に積み替えることもあるそうです」
「珍しいことではないな」
「はい」
「ならば、何が問題なのだ?」
父上の声は静かだった。
責めているわけではない。
俺が何を考えているのか、見ようとしている。
「そのたびに、米の動きが変わります」
俺は一度、言葉を選んだ。
「百俵を運んだとしても、途中で五俵を別の荷車に移せば、その五俵は最初の荷車からは消えます。二俵が濡れて使えなくなれば、それも倉に入れる米とは別になります」
「うむ」
「それなのに、それを記録する方法が決まっていない」
父上が文書から目を上げた。
「つまり?」
「帳面を見ても、米がどこへ行ったのか分からなくなるんです」
しばらく沈黙が続いた。
父上は腕を組み、考えている。
「お前は、それを改めたいのか?」
「はい」
「七俵のために?」
「七俵のためではありません」
俺は答えた。
「七俵程度なら、今川家にとって大きな損ではないでしょう」
そこで父上の目が少し細くなった。
「ならば、なぜそこまで気にする?」
「同じことが十回起きれば七十俵です。百回なら七百俵になります」
俺は父上を見た。
「一度の損失は小さくても、それが繰り返されれば話は変わります」
父上は何も言わなかった。
やがて、ふっと息を吐く。
「……お前は変わったな」
胸の奥が少しだけ跳ねた。
「そうでしょうか」
「以前のお前なら、米の運び方など気にもしなかっただろう」
そう言われると、返す言葉がなかった。
俺の中にあるのは、この時代の氏真が持っていた記憶なのか、それとも俺自身の感覚なのか。
今となっては、よく分からない。
ただ、父上がそう感じるほど、自分が変わっていることだけは分かった。
「……確かに、以前とは少し違うかもしれません」
父上はそれ以上追及しなかった。
「それで、どうするつもりだ?」
「まず、米を運ぶ者たちに、どこで荷を積み、どこで降ろしたのかを書き残してもらいます」
「今の帳面では足りぬか」
「足りません」
俺は首を振った。
「今の帳面は、最初と最後しか見ていないように思えます」
「途中を記録する、と?」
「はい。ただし、面倒なものにしてはいけません」
ここは現代の仕事でも同じだった。
どれだけ立派な仕組みを作っても、現場が使わなければ意味がない。
「荷を運ぶ者が簡単に記せるものにします」
父上はしばらく考えたあと、頷いた。
「やってみよ」
「よろしいのですか?」
「お前がそこまで言うのだ。まずは試せばよい」
父上はそこで少し笑った。
「ただし、七俵を見つけたことを手柄にするな」
「はい」
「大切なのは、次に同じことが起きたとき、それを誰でも分かるようにすることだ」
その言葉に、俺は思わず父上を見た。
「……はい」
やっぱり、この人は大名なのだと思った。
俺が見つけたのは、たった七俵の米。
けれど父上は、その先にあるものを見ている。
今川家という大きな家を動かすには、目の前の問題を片付けるだけでは足りない。
仕組みそのものを考えなければならない。
「では、やってみます」
「ああ」
部屋を出ようとしたところで、父上から声が飛んできた。
「氏真」
「はい」
「次は、蹴鞠の稽古にも顔を出せ」
「……はい?」
思わず振り返る。
父上は何事もなかったように文書へ目を戻していた。
「嫡男が米の帳面ばかり見ていては、家中の者も困る」
「それは……」
返す言葉に迷う。
「分かっているのか?」
「何がでしょう?」
「お前がこれまで何をしてきた男なのか、ということだ」
父上はそこでようやくこちらを見た。
「急に何もかも変える必要はない」
その言葉に、俺は少しだけ考えた。
そうだった。
俺は今川氏真だ。
米の流れを見ることも必要だが、俺には俺の立場がある。
家臣と話し、公家と付き合い、文化を守ることも、嫡男としての仕事なのだ。
「……承知しました」
そう答えて部屋を出た。
廊下を歩きながら、俺は苦笑した。
どうやら俺は、米の帳面だけ見ていればいい立場ではないらしい。
今川氏真として生きるなら、その役目も引き受けるしかない。
そして、それならそれでいい。
内政も、文化も、人との付き合いも。
全部まとめて、今川家を支える力にしてみせる。
俺はそう思いながら、自分の部屋へ戻った。




