第45話 氏康の眼
小田原城・本丸。
北条氏康は、駿府から届いた早馬の文を静かに開いた。
そこには短く、しかし重い一文が記されていた。
**「氏真、美濃へ向け出陣す」**
氏康はしばらく文を見つめ、
深く息を吐いた。
◆
側近の綱成が問う。
「氏康様……今川が、美濃へ?」
「そうだ。
義元は尾張を固め、
氏真を総大将として美濃へ向かわせた」
綱成は眉をひそめた。
「若殿が総大将とは……大胆ですな」
「大胆ではない。
“正しい”のだ」
氏康は即答した。
◆
氏康は地図を広げた。
「美濃は今、斎藤龍興の若さゆえに揺れておる。
国衆はまとまらず、
尾張を失った織田の残党も散り散りだ」
「確かに、今川にとっては好機……」
「いや、好機どころではない」
氏康は地図の中央を指した。
「美濃を取れば、
今川は東海道から近畿へ手を伸ばせる。
武田は西へ出られなくなる。
北条の背後は完全に安定する」
綱成は息を呑んだ。
「……北条にとっても、好都合ということですな」
「そうだ。
今川が美濃を取れば、
関東は守りやすくなる」
◆
氏康は文をもう一度見つめた。
「だが……氏真が行くのだ」
綱成は静かに頷いた。
「早川様が……心配されますな」
「心配しておるのは、娘だけではない」
氏康は苦笑した。
「氏真は優しい。
優しさは国を動かす力になるが、
戦場では時に弱さにもなる」
「しかし、氏真様は尾張をまとめました」
「それが問題なのだ」
氏康は続けた。
「氏真は“心で国を掴む”男だ。
美濃の国衆は揺れておる。
氏真が行けば、
あの者たちは氏真に靡く可能性が高い」
「……つまり、戦わずして美濃が落ちると?」
「そうだ。
氏真は、戦国の理を超えておる」
◆
氏康は窓の外を見た。
箱根の山が夕日に染まっている。
「氏真。
そなたの“心の理”が、
美濃をどう変えるのか……」
氏康は静かに呟いた。
「見せてもらおう」
その声は、
関東の覇者としての冷徹さと、
娘を想う父の温かさが混ざったものだった。




