第43話 出陣前夜
美濃攻めの軍議が終わり、
三河の館は静かな緊張に包まれていた。
明日、氏真は総大将として出陣する。
尾張を掌握した今川が、美濃へ進む――
天下の行方を左右する戦いだ。
その夜。
氏真は眠れず、庭に出た。
月が高く、
風は少し冷たい。
◆
ふと、足音がした。
「氏真様……」
早川殿だった。
薄い羽織を肩にかけ、
静かに歩いてくる。
「こんな夜更けに……どうされたのですか?」
「……眠れなくて。
明日、出陣なので」
早川殿は氏真の隣に立った。
距離は近い。
触れれば届くほどに。
「怖いのですか?」
氏真は少し考えてから答えた。
「怖いというより……
責任が重いんです。
俺が失敗したら、
美濃の人たちも、三河の人たちも、
たくさんの人が困るから」
早川殿は静かに頷いた。
「氏真様は……
人の心を背負って戦う方なのですね」
◆
しばらく沈黙が続いた。
月の光だけが二人を照らしていた。
そのとき――
早川殿がそっと手を伸ばした。
氏真の袖に、
指先が触れた。
ほんの少し。
だが、確かに触れた。
「氏真様……」
声は震えていた。
「どうか……必ず戻ってきてください」
氏真は驚いた。
戦国の姫が、
こんなにも率直に感情を出すなどありえない。
だが、早川殿は続けた。
「私は……氏真様と話す時間が好きです。
氏真様の言葉が好きです。
氏真様の考え方が……好きです」
氏真の胸が熱くなった。
◆
氏真はゆっくりと、
早川殿の手に自分の手を重ねた。
触れた。
初めて、はっきりと。
「……戻ってきます」
氏真は言った。
「必ず。
どんな戦でも、どんな状況でも。
俺は……帰ってきます」
早川殿は涙をこらえながら頷いた。
「はい……
お待ちしております」
◆
月の下で、
二人は手を重ねたまま、
しばらく言葉を交わさなかった。
戦国ではありえない恋が、
確かな形を持ち始めた夜だった。
そして翌朝――
氏真は美濃へ向けて出陣する。




