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『今川氏真に転生した俺、滅びるはずの今川家を立て直します』  作者: 水原伊織


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第38話 早川殿

 氏真が退出し、広間が静けさを取り戻したあと。

 北条氏康は家臣たちに戦国の理を語り、

 その場を締めた。


 だが――

 そのやり取りを、奥の襖の陰から見ていた者がいた。


 氏康の娘、早川殿である。


◆


 氏真が去ったあと、

 早川殿は静かに父のもとへ歩み出た。


「父上……」


 氏康は驚いたように目を細めた。


「早川か。そこにいたのか」


「はい。すべて……聞いておりました」


 家臣たちが息を呑む。


 早川殿は、少し頬を赤らめながら言った。


「氏真様のお言葉……

 とても、胸に響きました」


 氏康は眉を上げた。


「胸に、響いた?」


「はい。

 “政治の道具にされるのは、男も女も嫌だろう”と……

 あのようなことを言う方、初めて見ました」


 家臣たちは顔を見合わせた。

 戦国の姫が、縁談破棄を“肯定”するなど前代未聞だ。


◆


 早川殿は続けた。


「むしろ……好きになりました」


 氏康は苦笑した。


「そなたは、戦国の娘らしからぬことを言うな」


「ですが、父上。

 あの方は、嘘を言っていません。

 自分の心で話していました。

 それが、とても……嬉しかったのです」


 氏康は腕を組み、しばらく黙った。


「ならば、改めて縁談を申し込むか?」


 早川殿は首を横に振った。


「いえ。

 まずは、どんな方かを詳しく知りたいのです。

 縁談ではなく……人として」


 その言葉は、戦国の常識を静かに壊すものだった。


◆


 永禄三年六月末。

 氏真が小田原から戻って数日が経ったころ、

 三河の館に思いがけない知らせが届いた。


「若殿。北条より客人が参りました」


「北条……? 使者か?」


 使者は静かに首を振った。


「いえ。……北条氏康の娘君、早川殿にございます」


 氏真は言葉を失った。


「えっ……?」


◆


 客間に通された早川殿は、

 静かに座していた。


 薄い水色の小袖に、

 箱根の風を思わせる涼やかな気配。


 氏真は緊張で喉が乾きながら、

 ゆっくりと部屋に入った。


 ――美しい。

 戦国の姫というより、

 現代でも見たことがないほどの美人だ。


 氏真は食品会社の物流担当だった。

 倉庫で在庫を数え、

 配送トラックの遅延に頭を抱え、

 残業でコンビニ弁当を食べるような生活。


 恋人もいなかった。


 そんな自分の前に、

 北条の姫が座っている。


◆


 早川殿は静かに微笑んだ。


「初めまして、氏真様。

 突然押しかけてしまい、申し訳ありません」


 氏真は慌てて正座し、頭を下げた。


「い、いえ! こちらこそ……!

 その……本当に来られたんですね……!」


 早川殿は少し頬を染めた。


「氏真様のお言葉……

 とても嬉しかったのです」


「……俺の、言葉?」


「はい。

 “政治の道具にされるのは、男も女も嫌でしょう”と……

 あのようなことを言う方、初めて見ました」


 氏真は息を呑んだ。


 ――聞かれていたのか。


◆


 早川殿は続けた。


「父上にも申し上げました。

 むしろ、氏真様を……好きになりました、と」


 氏真は心臓が跳ねた。


「す、好き……?」


「ですが、縁談を結ぶ前に、

 まずは氏真様がどんな方なのか……

 自分の目で確かめたいと思いました」


 その言葉は、

 戦国の姫とは思えないほど真っ直ぐだった。


◆

氏真は深く息を吸い、

正直に口を開いた。


「俺は……本当に普通の男です。

 戦の才能もないし、

 武芸もまだまだで……

 もともとは、物流会社の社員でした」


早川殿は首を傾げた。


「ぶつりゅう……とは?」


氏真は一瞬、言葉に詰まった。

戦国の姫に“物流”と言っても伝わるはずがない。


「あ、えっと……荷物を運ぶ仕事です。

 倉庫で在庫を数えたり、

 トラックの手配をしたり……」


 言いながら、氏真は自分で気づいた。


 ――いや、これじゃ分からない。


 氏真は慌てて言い換えた。


「つまり……

 商人たちが物を売るために、

 必要な品を集めたり、

 足りなくならないように数を数えたり、

 道具が滞りなく届くように段取りを整える仕事です」


 早川殿は目を丸くした。


「それは……商いを支える役目なのですね?」


「はい。

 派手ではありませんが、

 誰かがやらないと困る仕事です」


 早川殿はふっと笑った。


「地味な仕事でも、

 誰かの役に立つ仕事なのでしょう?」


 氏真は驚いた。


「……そう、ですね。

 誰かが必要としてくれるから、

 続けていたのかもしれません」


「ならば、それは立派なお仕事です」


 早川殿の言葉は、

 氏真の胸に静かに染み込んだ。


◆


 その日、

 二人は客間で長く語り合った。


 政略ではなく、

 家の都合でもなく、

 ただ“人として”。


 氏真は初めて、

 戦国の姫と向き合いながらも、

 自分の言葉で話すことができた。


 早川殿は、

 氏真の一つひとつの言葉を丁寧に受け止めた。


 その距離は、

 ゆっくりと、しかし確実に縮まっていった。

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