第37話 縁談破棄の使者
永禄三年六月。
氏真は三河兵を連れ、小田原へ向かっていた。
馬の扱いはもう慣れていた。
三河で道を整え、民と共に歩き、
戦場で父を守った経験が、氏真の身体を強くしていた。
だが――
胸の奥には、別の緊張があった。
婚約者に会ったことなど、一度もない。
北条家に行くのも初めてだ。
しかも、伝えるのは
**「婚約破棄」**
という戦国ではあり得ない言葉。
◆
小田原城に到着すると、
北条家中は大騒ぎになった。
「若殿自ら来られたのか!」
「今川の使者ではなく本人が……?」
「まさか縁談の話か……?」
氏真は静かに通された。
広間の奥に座っていたのは、
北条氏康――関東の覇者。
その眼は鋭く、
戦国の荒波を渡ってきた者の重みがあった。
「氏真殿。遠路ご苦労であった。
して、何用かな?」
氏真は深く頭を下げた。
「北条様。
今日は……縁談の件で参りました」
広間がざわつく。
◆
「まさか破棄しに来たのではあるまいな?」
氏康の問いに、氏真は迷いなく答えた。
「はい。破棄しに参りました」
家臣たちが一斉に立ち上がる。
「なんと……!」
「今川は北条を裏切る気か!」
「同盟が崩れますぞ!」
氏康は手を上げ、家臣を静めた。
「黙れ」
その一言で、空気が一変した。
◆
氏真は理由を述べた。
「本来、結婚とは好きな者同士が結ばれるものです。
政治の道具にされるのは、男も女も……嫌でしょう」
戦国ではあり得ない言葉。
だが、氏真の声は揺れていなかった。
氏康はしばらく氏真を見つめ、
やがて静かに頷いた。
「よかろう。縁談は破棄としよう」
家臣たちは驚愕する。
「氏康様……!」
「同盟が……!」
「今川との関係が……!」
氏康は再び手を上げた。
「黙れと言った」
◆
氏真が退出し、
広間に静けさが戻った。
氏康は家臣たちを見渡し、
ゆっくりと口を開いた。
「そなたらは、今川を甘く見すぎておる」
家臣たちは息を呑んだ。
「今の今川家は、尾張を平らげた強敵だ。
義元殿は東海道の覇者となり、
氏真殿はその中心に立っておる」
氏康は続けた。
「そんな家が、いたずらに同盟を破るものか。
今川は北条を敵に回す必要がない。
それは義元殿も、氏真殿も理解しておる」
家臣たちは黙り込んだ。
「そして――氏真殿が自ら来た時点で、勝負はついていた」
氏康の声は静かだったが、
その静けさは戦国の理を超えた重みを持っていた。
「家の都合ではなく、氏真殿自身の意思で動いている縁だ。
それを無理に結べば、いずれ同盟そのものが腐る。
人の心を無視した縁は、長くは続かぬ」
氏康は最後にこう言った。
「今川は強い。
強い者ほど、無理な縁を求めぬものだ」
家臣たちはようやく理解したように、
静かに頭を下げた。
◆
帰路。
氏真は馬上で静かに息を吐いた。
――戦国の常識を、俺は壊した。
――だが、壊した先に何があるのか。
――それは、これから形にしていく。
三河兵たちは黙ってその背中を見守っていた。




