第36話 縁談破棄
永禄三年六月。
駿府城の一室に、家臣たちの怒号が響いていた。
「若殿! 政略結婚を拒むなど前代未聞!」
「甲相駿三国同盟が揺らぎますぞ!」
「北条は激怒いたします!」
氏真は静かに座り、
家臣たちの声をただ受け止めていた。
怒り、焦り、恐れ――
そのすべてが渦巻いていた。
だが、氏真の目は揺れていなかった。
◆
義元が手を上げると、
家臣たちはようやく静まった。
「氏真。そなたの口から聞こう。
なぜ政略結婚を拒む」
氏真はゆっくりと義元を見た。
「父上……俺は、政略結婚というものが理解できません」
家臣たちがざわつく。
「理解できぬとは……!」
「若殿、婚姻は家のためにあるものですぞ!」
氏真は首を横に振った。
「違います。
本来、好きな者同士が結ばれるのが結婚です。
政治の道具にされるのは、男も女も……嫌でしょう」
その言葉に、家臣たちは言葉を失った。
戦国の常識ではあり得ない発言。
だが、氏真の声は静かで、揺るぎなかった。
◆
義元はしばらく氏真を見つめ、
やがて小さく息を吐いた。
「……氏真。そなたは、雪斎とは違うな」
氏真は黙って聞いた。
「雪斎は国の形を重んじた。
そなたは人の心を重んじる。
どちらも国を支える柱だ」
義元は続けた。
「だが、政略結婚を拒むならば――
すでに結んである縁談を破棄せねばならぬ」
氏真は頷いた。
「はい。俺が言いに行きます」
家臣たちが再び騒ぎ出す。
「若殿が行くなど危険です!」
「北条は怒りましょうぞ!」
「外交の破綻になります!」
義元は手を上げ、静かに言った。
「よい。氏真が行け」
家臣たちは息を呑んだ。
「義元様……!」
「縁談を破棄するなら、氏真自身が言うべきだ。
他の者が行けば、北条は今川を侮る。
だが氏真が行けば、北条は本気だと理解する」
義元は氏真を見た。
「氏真。そなたの価値観で国を動かすなら、
その責任も自ら負え」
氏真は深く頭を下げた。
「はい。必ず、筋を通して参ります」
◆
その日の夕刻。
氏真は三河兵を連れ、
北条の領地・小田原へ向けて出立した。
家臣たちは不安を隠せず、
義元はただ静かに見送った。
氏真は馬上で空を見上げた。
――戦国の常識は、俺には関係ない。
――俺は俺のやり方で、この国を形にする。
その決意を胸に、
氏真は北条へ向かった。




