第33話 桶狭間の翌日
永禄三年五月二十日。
雨は止み、桶狭間の丘には湿った風が流れていた。
今川義元は、昨日の戦いで傷ひとつ負わず、
輿の上で静かに空を見上げていた。
氏真はその隣に立ち、
戦場の残り香を感じながら周囲を見渡した。
――父上は生きている。
――信長の奇襲は防いだ。
――未来は変わった。
その実感が、胸の奥で静かに燃えていた。
◆
午前。
尾張の国衆たちが、次々と今川本陣へ使者を送ってきた。
「今川様の御威光、まことに恐れ入りました……」
「織田はもはや戦えませぬ。尾張は今川様に従います」
「清洲城の開城を願い出ます……」
氏真は使者たちの顔を見て、
その“恐れ”の深さに気づいた。
昨日の戦いは、尾張の国衆にとって
**「信長の奇跡が起きなかった日」**
だった。
奇跡が起きなければ、
織田はただの弱小国衆に戻る。
そして――
今川は東海道の覇者として完全に復活した。
◆
義元は使者たちを前に、静かに言った。
「尾張は、わしが守る。
織田の乱は、ここで終わりだ」
その声は、昨日の戦いよりも重かった。
国衆たちは一斉に頭を下げた。
「ははっ……!」
氏真はその光景を見ながら、
未来が大きく動いたことを理解した。
――信長は台頭しない。
――尾張は今川のものになる。
――東海道の支配は確定する。
歴史が、静かに書き換わっていく。
◆
午後。
清洲城から正式な使者が到着した。
「今川様……清洲城は開城いたします。
織田家は、今川様の御支配に従います」
義元は頷いた。
「よい。織田家は罪を問わぬ。
尾張は今川の庇護のもとに置く」
氏真はその言葉に驚いた。
「父上……織田を処罰なさらぬのですか」
「処罰すれば尾張は荒れる。
荒れた国は兵糧が取れぬ。
兵糧が取れぬ国は、京へ向かう道を塞ぐ」
義元は静かに続けた。
「わしは上洛を目指す。
尾張はそのための要だ」
氏真は息を呑んだ。
――史実では、父上はここで死んだ。
――だが今は、生きている。
――だからこそ、上洛が現実になる。
◆
夕刻。
桶狭間の丘に夕日が差し込む。
義元は輿から降り、
氏真の肩に手を置いた。
「氏真。そなたがわしを救った。
今川は滅びぬ。
東海道はわしのものだ」
氏真は静かに頷いた。
「父上……これからどうなさいますか」
義元は空を見上げた。
「尾張を平定し、三河を固め、
美濃を従え、京へ向かう」
その声は、
戦国の覇者の声だった。
氏真は胸の奥で静かに決意した。
――父上を死なせない。
――今川を滅ぼさない。
――この世界線で、天下を取る。
桶狭間の翌日。
今川家の威信は、
戦国で最も強い光を放ち始めた。




