第32話 桶狭間
永禄三年五月十九日。
朝の空は、雨を孕んだ重い雲に覆われていた。
今川義元の本陣は、熱田から北へ進み、
桶狭間の丘を見下ろす位置に構えられていた。
氏真は父のすぐ後ろに立ち、
静かに周囲を見渡した。
――史実では、ここで父上は死ぬ。
――だが、今日は違う。
未来を知る者として、
氏真はこの戦場に立っていた。
◆
義元は輿に座り、家臣たちに指示を出していた。
「丸根・鷲津を落としたか」
「はっ。両砦、陥落いたしました」
義元は満足げに頷いた。
「よい。尾張はすぐに静まろう」
その言葉に、氏真は胸がざわついた。
――父上は油断している。
――史実と同じ流れだ。
だが、今日は違う。
氏真は一歩前に出た。
「父上。兵を分散させてはなりません」
義元は少し驚いたように氏真を見る。
「氏真……そなたは昨夜も同じことを言ったな」
「はい。父上は本陣を動かさず、
周囲の警戒を厚くすべきです」
義元はしばらく黙り、
やがて小さく笑った。
「雪斎が乗り移ったかのようだな」
その言葉は、氏真の胸に深く刺さった。
◆
昼前。
雨が降り始めた。
細い雨が、やがて戦場を覆う幕のように強くなる。
氏真は本陣の周囲を歩き、
兵の配置を確認した。
――史実では、この雨が信長の奇襲を隠した。
――だが、今日は違う。
氏真は三河兵を本陣の周囲に再配置し、
槍を構えさせた。
「敵は必ず、この雨を使います。
本陣を囲むように布陣を」
三河兵は迷いなく従った。
氏真が三河を育ててきた成果だった。
◆
午後。
雨がさらに強くなった頃、
氏真は遠くの丘に“黒い影”を見た。
織田勢。
信長の本隊。
史実では、この瞬間、
今川本陣は気づかなかった。
だが、今日は違う。
「敵、来ます!」
氏真の声が本陣に響いた。
義元が立ち上がる。
「どこだ!」
「南の丘! 雨の幕を使って接近しています!」
家臣たちがざわめく。
「奇襲か……!」
「信長め……!」
義元は輿から降り、氏真の肩を掴んだ。
「氏真。そなたの言葉は正しかった」
氏真は父の目を見た。
「父上。ここで動けば死にます。
本陣を守り、兵を集めてください」
義元は頷いた。
「そなたが指揮を取れ」
その言葉は、
氏真の胸に火を灯した。
◆
雨の中、織田勢が突撃してきた。
黒い影が、雷のように本陣へ迫る。
氏真は叫んだ。
「三河兵、前へ! 本陣を囲め!」
槍が雨を切り、
盾が泥を跳ね、
三河兵が壁のように本陣を守る。
織田勢がぶつかる。
激しい衝突音が雨の中で響く。
氏真は前線に立ち、
槍を構えた。
――ここで父上を死なせない。
――未来は変えるためにある。
◆
織田勢は勢いこそ強いが、
本陣の守りは固かった。
氏真が事前に配置した三河兵が、
信長の突撃を受け止める。
やがて、織田勢は押し返され始めた。
「若殿! 敵、退きます!」
「追うな! 本陣を守れ!」
氏真の声が戦場に響く。
織田勢は雨の中、
静かに退いていった。
奇襲は失敗した。
◆
戦が終わると、
義元は氏真の前に立った。
「氏真……そなたが、わしを救った」
氏真は静かに頭を下げた。
義元は空を見上げた。
雨は止み、雲の切れ間から光が差していた。




