第31話 桶狭間前夜
永禄三年五月十八日。
駿府の空は、夏の気配を含んだ重い雲に覆われていた。
今川義元は、静かに甲冑を身につけていた。
その姿は、武将というより“公家の将”のように整っている。
氏真は、その背中を見つめていた。
――明日、父上は桶狭間へ向かう。
――史実では、そこで死ぬ。
雪斎がいない今、
その未来を知っているのは氏真だけだった。
◆
義元は鏡の前で烏帽子を整え、
ゆっくりと氏真へ向き直った。
「氏真。三河は任せるぞ」
その言葉は、いつもと同じだった。
だが、氏真には違って聞こえた。
“遺言のように”聞こえた。
胸が痛む。
だが、表情には出さない。
「父上。上洛の道は、必ず開けます」
義元は微笑んだ。
「そなたがそう言うなら、そうなるのであろう」
その笑顔が、あまりにも穏やかで、
氏真は一瞬、言葉を失った。
◆
夜。
駿府の本陣は静かだった。
兵たちは明日の進軍に備え、
槍を磨き、甲冑を整え、
火の前で静かに語り合っている。
氏真は雪斎の机を持ち出し、
地図を広げていた。
尾張。
熱田。
大高。
丸根。
そして――桶狭間。
指で一点を押さえる。
「ここで、父上は討たれる」
声に出すと、胸が締め付けられた。
だが、未来は変えられる。
◆
氏真は筆を取り、地図に線を引いた。
義元の進軍ルート。
兵の配置。
補給の流れ。
織田の動き。
雪斎が教えた“制度”を、
未来の知識で補強する。
「兵を分散させない。
補給を切らせない。
奇襲を許さない」
筆が止まる。
「そして――父上を前線に出させない」
史実の義元は、
前線に出すぎた。
油断した。
家臣の諫言を聞かなかった。
だが、氏真は知っている。
その未来を変える方法を。
◆
夜風が吹き込み、火が揺れた。
氏真は静かに呟いた。
「雪斎様……俺は、未来を変えます」
その声は、
少年の声ではなく、
国を背負う者の声だった。
義元を死なせない。
今川を滅ぼさない。
桶狭間を“悲劇”で終わらせない。
そのために――
明日、氏真は父の側に立つ。
◆
深夜。
義元の本陣から灯りが漏れていた。
氏真は静かに近づく。
義元は一人、文を読んでいた。
その姿は、戦の前夜とは思えないほど落ち着いている。
「父上」
義元は顔を上げた。
「氏真か。眠れぬか」
「はい。……少し、お話を」
義元は頷き、氏真を座らせた。
「父上。明日の進軍ですが――」
氏真は地図を広げ、
未来を変えるための“最初の一手”を口にした。
「父上は、前線に出てはなりません」
義元は目を細めた。
「……理由を聞こう」
氏真は静かに答えた。
「父上は、国の柱です。
柱が倒れれば、国は崩れます」
義元はしばらく黙り、
やがて小さく笑った。
「氏真……そなたは雪斎のようだ」
その言葉は、
氏真の胸に深く落ちた。
◆
桶狭間の前夜。
氏真は未来を知る者として、
初めて父に“歴史を変える言葉”を告げた。
火は静かに揺れ、
夜は深まり、
運命の朝が近づいていた。




