第30話 未来を知る者の孤独
雪斎が亡くなってから、駿府の空は妙に広く見えた。
あの静かな眼も、
あの深い声も、
もう戻らない。
だが――
氏真には、雪斎が知らなかった“未来”が見えていた。
永禄三年五月十九日。
桶狭間。
父・義元が討たれる日。
雪斎がいれば防げた未来。
雪斎がいないからこそ起きる未来。
その未来を知っているのは、
この世界で氏真ただ一人だった。
◆
雪斎の机の前に座ると、
三河と尾張の地図が静かに広がっていた。
氏真は指で一点を押さえた。
「……ここで、父上は死ぬ」
声に出すと、胸が痛んだ。
雪斎がいなくなった今、
義元を支える者は少ない。
家臣は優秀だが、
雪斎ほど“全体を見る者”はいない。
そして史実では――
義元は油断し、
兵を分散し、
補給を軽視し、
信長の奇襲を受けて死ぬ。
氏真は知っている。
転生したときから知っていた。
だが、雪斎が生きている間は、
その未来を変える必要はなかった。
雪斎がいれば、義元は死なない。
そう思っていた。
しかし今は違う。
◆
氏真は筆を取り、地図に線を引いた。
尾張への道。
兵糧の流れ。
軍勢の配置。
義元の進軍ルート。
雪斎が教えてくれた“制度”を、
未来の知識で補強する。
「父上を死なせないためには……」
氏真は静かに考えた。
「兵を分散させないこと。
補給を確保すること。
奇襲を受けないこと。
そして――三河を強くすること」
三河が強ければ、
義元は無理に尾張へ深く入らない。
三河が兵站を担えれば、
義元は兵を分散しない。
三河が義元を支えれば、
桶狭間は起きない。
氏真は筆を置いた。
「……三河が鍵だ」
◆
静かな部屋に、風が吹き込んだ。
雪斎がいなくなった今、
氏真は本当に一人だった。
未来を知る者の孤独は、
雪斎がいた頃は影を潜めていた。
だが今は違う。
未来を知る者は、
未来を変える責任を背負う。
その重さが、
雪斎の死とともに氏真の肩に落ちてきた。
◆
氏真は雪斎の机に手を置いた。
「雪斎様……俺は、未来を変えます」
その声は、
少年の声ではなく、
国を背負う者の声だった。
雪斎がいなくても、
義元を死なせない。
そのために――
三河を育てる。
制度を固める。
兵を整える。
道を伸ばす。
商を動かす。
国衆をまとめる。
未来を知る者の孤独は、
この日、静かに覚悟へ変わった。




