第29話 雪斎、静かなる終焉
三河の制度化が進み、
村は息を吹き返し、
道は商人を呼び戻し、
国衆は役目を持ち始めた。
氏真は十七になり、
少年の面影を残しながらも、
政治を語るときの声は大人のものになっていた。
その頃から――
雪斎の咳が増えた。
◆
駿府の一室。
雪斎は机に向かい、三河の地図を見ていた。
だが、筆は進まない。
「雪斎様……体調が優れぬのですか」
氏真が問うと、雪斎は静かに笑った。
「若殿。人は、役目を終える頃に体が静かになるものです」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
氏真は知っていた。
転生したときから、雪斎がいつ亡くなるかを。
だが、知っていても、
その時が近づくと心はざわつく。
◆
秋の風が冷たくなった頃、
雪斎は床に伏すようになった。
義元が見舞いに来た日、
雪斎は氏真を呼んだ。
「若殿……三河は、そなたの国になります」
その声は、かすれていたが、
言葉の芯は揺れていなかった。
「兵糧は巡る。
道は伸びる。
村は育つ。
国衆は役目を持った」
雪斎はゆっくり息を吸った。
「そなたが育てた三河は、もう動き始めております」
◆
「雪斎様……まだ教えていただきたいことがある」
氏真がそう言うと、
雪斎は首を横に振った。
「若殿。そなたはすでに知っておられる」
その言葉に、氏真は息を呑んだ。
雪斎は続けた。
「そなたは、未来を知っている。
わしが教えたことは、そなたの知識を“戦国の形”にするための道筋にすぎぬ」
氏真は何も言えなかった。
雪斎は、すべて気づいていたのだ。
◆
「若殿」
雪斎は、最後の力で体を起こした。
「三河を守りなさい。
民を育てなさい。
国を形にしなさい。
そして――義元様を支えなさい」
氏真は膝をつき、雪斎の手を握った。
「必ず……必ず成します」
雪斎は満足そうに目を閉じた。
「若殿。そなたならできる」
その言葉が、雪斎の最後の言葉になった。
◆
弘治元年(1555年)十月。
太原雪斎は静かに息を引き取った。
駿府の空は雲ひとつなく、
風は冷たく、
庭の木々は音もなく揺れていた。
氏真は雪斎の机の前に立ち、
地図を見つめた。
三河の村。
道。
兵糧。
国衆の役目。
それらは、雪斎が残した“国の形”だった。
氏真は筆を取り、
地図の端に小さく印をつけた。
「雪斎様……三河は必ず強くします」
その声は、
少年の声ではなく、
国を背負う者の声だった。




