第25話 動き出す三河の座
安祥城が静かに落ちた翌朝、
雪斎はまだ薄暗い時間に俺を呼んだ。
「若殿。今日は三河が動く日でございます」
その声は、戦の前よりも重かった。
戦は終わった。
だが、政治はここから始まる。
◆
安祥城の広間に、吉良の使者が到着した。
昨日は城門の前で頭を下げただけだったが、
今日は正式な場だ。
広間には、雪斎の家臣たちが静かに並び、
俺は雪斎の隣に座った。
使者は深く頭を下げた。
「雪斎様……安祥の件、吉良は今川様に従います」
雪斎は頷いた。
「吉良殿。三河は今川が守る。
そなたらが織田に怯える必要は、もうない」
使者の肩がわずかに震えた。
昨日まで、吉良は織田の圧力に怯えていた。
安祥が落ちれば、吉良は孤立する。
安祥が守られれば、吉良は三河に残れる。
その境目に立っていたのだ。
雪斎は続けた。
「ただし、吉良殿。三河は再び乱れぬよう、
国衆を一つにまとめねばならぬ」
使者は静かに頷いた。
「……承知いたしました」
雪斎は俺を見た。
「若殿。そなたが三河を歩き、民と話し、道を直した。
その働きは、吉良にも伝わっております」
使者が俺に向き直る。
「若殿……三河の民が、若殿を頼りにしていると聞きました」
その言葉は、戦の勝利よりも重かった。
◆
会談が終わると、雪斎は広間を出ながら言った。
「若殿。これで吉良は三河に残る。
次は、国衆をまとめねばならぬ」
安祥城の廊下を歩くと、
昨日の戦の跡がまだ残っていた。
割れた瓦。
焦げた壁。
踏み荒らされた庭。
その中で、雪斎は静かに言った。
「三河は、国衆が多すぎるのです」
俺は頷いた。
「松平、吉良、西尾、鵜殿……
それぞれが自分の土地を守り、
それぞれが自分の都合で動いている」
「ええ」
雪斎は歩みを止めた。
「それでは、三河は強くなりませぬ」
◆
昼過ぎ、安祥城の一室に国衆が集められた。
松平家の家臣。
吉良の家臣。
西尾の家臣。
鵜殿の家臣。
それぞれが違う顔をしている。
それぞれが違う思惑を持っている。
雪斎は彼らを見渡し、静かに言った。
「三河は、今川が守る。
そなたらは、そのために力を出すのだ」
誰も反論しなかった。
昨日の安祥落城で、
今川の力を見せつけられたからだ。
雪斎は続けた。
「ただし、三河を育てるのは戦ではない。
道であり、村であり、民である」
その言葉に、国衆たちがざわめいた。
雪斎は俺を前に出した。
「若殿。そなたが三河を歩き、
民と話し、道を直した。
その結果、民は今川を選んだ」
国衆たちの視線が俺に集まる。
雪斎は静かに言った。
「三河をまとめる役目は――若殿が担う」
広間が静まり返った。
松平家の家臣が、ゆっくり頭を下げた。
「若殿……三河のために、力を尽くします」
吉良の家臣も続いた。
「若殿……安祥を守ってくださった恩、忘れませぬ」
西尾の家臣も、鵜殿の家臣も頭を下げた。
三河の国衆が、
初めて一つの方向を向いた瞬間だった。
◆
会議が終わると、雪斎が言った。
「若殿。これで三河は動き始めました」
安祥城の外に出ると、
風が少しだけ暖かかった。
「三河は……必ず強くします」
俺がそう言うと、雪斎は静かに頷いた。
「若殿。そなたならできる」
その言葉は、
戦の勝利よりも重く、
安祥城の落城よりも深かった。




