第24話 崩れる城、動く三河
翌朝、雪斎は早くに起きていた。
焚き火の灰を払い、静かに言った。
「若殿。安祥は、今日にも落ちましょう」
俺は顔を上げた。
「昨日の戦で、織田が退いたからですか?」
「それだけではござらぬ」
雪斎は馬を引きながら続けた。
「安祥は、すでに支えを失っております」
支え。
雪斎はその言葉をゆっくり置いた。
「吉良は今川に従った。西尾も動かぬ。織田は援軍を出せぬ。
安祥は、三河の真ん中で、ひとり取り残された城でございます」
その言葉は、戦の勝利よりも重かった。
◆
安祥城へ向かう道は、昨日より静かだった。
戦の匂いはない。
ただ、長い緊張がほどける前のような、乾いた空気だけが漂っていた。
城が見えると、雪斎は馬を止めた。
「若殿。戦で落ちる城もあれば、戦わずに落ちる城もある」
俺は黙って聞いた。
「安祥は後者でございます」
◆
安祥城の周囲には、雪斎の軍勢が静かに陣を敷いていた。
兵たちは槍を磨きながら、誰も声を荒げない。
昨日の戦の熱は、もうどこにもなかった。
ただ、静けさだけがあった。
雪斎は城を見上げた。
「兵糧は尽きております。援軍は来ぬ。
城主は、もはや耐えられませぬ」
そのときだった。
城門が、ゆっくりと開いた。
軋む音が、乾いた空気に吸い込まれていく。
織田の兵が槍を置き、静かに出てきた。
戦う意思はなかった。
戦う力も残っていなかった。
雪斎は馬を進め、静かに言った。
「退け。命は取らぬ」
織田の兵は深く頭を下げ、安祥城を去っていった。
その背中は、敗者の背中ではなく、
ただ疲れ切った人の背中だった。
◆
城門の前に立つと、風が通り抜けた。
昨日まで織田の旗が揺れていた場所に、
今は何も掲げられていない。
雪斎は俺に言った。
「若殿。これが、戦国の落城でございます」
俺は城門を見上げた。
「……戦わずに、落ちるのですね」
「ええ」
雪斎は頷いた。
「戦は派手に見えますが、国が動くときは静かに崩れるものです」
その言葉は、昨日の戦よりも重かった。
◆
安祥城の奥で、吉良の使者が待っていた。
使者は深く頭を下げた。
「雪斎様……安祥のこと、吉良は今川様にお任せいたします」
雪斎は頷いた。
「三河は、今川が守る」
その一言で、使者の肩がわずかに震えた。
安祥を失えば、吉良は織田に飲まれる。
安祥を守れば、吉良は三河に残れる。
その境目に立っていたのだ。
◆
夕暮れ、安祥城の天守跡に登った。
城の上から見る三河は、広く、静かで、
どこか寂しさを含んでいた。
昨日、民が鍬を持って駆けてきた村は、
この広い三河のほんの一部だ。
まだ見ていない村がある。
まだ壊れたままの道がある。
まだ怯えている民がいる。
雪斎が隣に立った。
「若殿。そなたが三河を歩き、民と話し、道を直した。
その結果、民は今川を選び始めております」
俺は風を感じながら聞いた。
「戦で勝つよりも、民が動くほうが難しい。
だが、そなたはそれを成した」
雪斎はゆっくり言った。
「若殿。三河を頼む」
俺は深く頷いた。
「必ず強くします」
安祥の夜風が、静かに吹いた。




